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沖縄拝所巡礼・ときどき寄り道
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 縁あって東京から沖縄・那覇へ移住した。ついに我が人生、第4コーナーを回ってしまった。正面にゴールが見える位置だけど、これまで、がむしゃらに歩き続けてきたので、これからはペースを落として、のんびり、ゆっくりとゴールに向かって歩くことにする。
 少しでも好奇心が残っているうちに、琉球王朝の歴史に想いを馳せながら、沖縄拝所の巡礼を続けたいと思う。
 ナイチャー(内地の人)の感性で、良き沖縄の日常をヤマトンチュウ(大和の人)に向けて発信して行きたいと考えている。
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瀬底の土帝君 (せそこのとていくん)・本土では、馴染みのない神様です。

2018/05/27 12:50
 瀬底島は本部(もとぶ)半島の東側にあって、周囲7.3qほどの小さな島である。昭和60年(1985)に瀬底大橋が完成し、今では、海峡を歩いて渡ることが出来る。大橋の上から俯瞰した波打ち際が、静かに動いていた。沖縄ブルーの水と、赤味を帯びた砂のコントラストが眼に優しい。大橋の造形美とともに、印象に残る絵画のような風景である。
 土帝君の神殿は、瀬底島のほぼ真ん中、瀬底公民館から左に入った所にある。濃緑で鬱蒼とした樹木に囲まれ、厳かな雰囲気を醸し出していた。途中には道標が建っていたので、迷うことはなかった。
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 社殿は石垣塀で区画され、緩やかな斜面に、石段、拝殿、本殿が直線状に配置されている。土帝君を祀る社としては、沖縄で最大規模のもので、他に類を見ないそうだ。本殿は格子戸で閉じられているが、香炉が一基安置されているのが透けて見える。その奥にある祭壇は、木製の扉で固く閉ざされているので、土帝君の像を直接拝むことは出来ない。
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 祀られている像は、二体の脇侍を伴った男神1体だそうだが、元々の像は、先の大戦中に盗難にあって紛失したと云う。現在祀られている像は、瀬底土帝君の所有者である上間家が調達したもので、当初の像と同じ姿に造られているそうだ。写真は、以前訪ねたことがある那覇市国場に祀られている土帝君の像で、顔面が修復されているが、ここからイメージするしかない。
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 土帝君は、地域によって、トーティクウ、トコテン、トゥントゥクなど、色々な呼び方があり、古代中国を起源とする神様で、本土では馴染みの無い神様である。三世紀の中国、宋の時代(690年〜1279)から、邑や集落の陰陽両界を守る神として祀る習俗があったようだ。土地神と呼ばれ、一説によると、その地で功労があった高徳の人が、死後に神になるとされ、一般の神様とは性格を異にしているようである。今の台湾では、土地公(トティコン)、伯公(バックン)などと呼ばれていると云う。掲示された文章には、「とていくん」とルビが振られていた。「土帝君」の表記は、同音に起因する誤写の結果だそうだ。
 祭礼は、土帝君正月と呼ばれる旧暦の2月2日に行われ、豊作、健康、集落の繁栄を祈願すると云う。この日は、土地神の誕生日とも言われているが、そうだとすると、特定の神様を指すことになる。その土地々々で功労があった高徳の人が、死後に祀られたとする説からすると、それぞれの誕生日が同じ筈は無い。功労者は複数の人々であって、祭礼が行われる日が、土帝君の誕生日だとする説には、納得しかねる。
 沖縄の土帝君信仰は、琉球王府編纂の史書『球陽』(1745年)には、1698年に大嶺親方弘良が神像を持ち帰り、自領の旧小禄村大嶺(現那覇市大嶺・今の那覇空港がある地域)に祀ったのが始まり、と記されているそうだ。ただ、近世の沖縄を代表する学者、程順則(ていじゅんそく・1663年〜1734)が著した「指南広義」の記述からは、それ以前から土帝君信仰があったことが伺われると云う。
 いずれにしても、土帝君は、17世紀後半に中国から伝来した外来神である。それまで琉球国の領域であった奄美には、土帝君信仰は見られないと云うから、1609年薩摩侵攻により薩摩藩の支配地域になっていた奄美には、土帝君信仰が伝わらなかったようだ。
 過去の調査によると、沖縄には土帝君の祠が42ヶ所ほどもあったそうだ。戦前は、もっと多かっただろうと云われている。戦争で祠が破壊され、戦中、戦後の動乱時期に、神像を盗まれたケースもあったようだ。無傷で残っている古い像は、中国の土地神の像に酷似していると云う。
 瀬底島に祀られている土帝君の由来について、神殿の境内に建てられた説明板から抜粋する。『瀬底における土帝君信仰は、上間家二世・健堅親雲上(きんきんぺーちん・1705年〜1779)が若いころ、山内親方に随行して清国に渡った際、農神土帝君の木像を請じて祀ったのが始まりである。瀬底土帝君は、沖縄各地に祀られる土帝君のうち最大の規模を保つ礼拝施設で、建設年代は不明だが、本殿及び拝殿の軸部、石組等の状態から、18世紀中頃の造営と考えられる。この土帝君は本部間切の地頭代を務めた上間家の所有で、毎年2月2日に祭礼(土帝君正月)が行われる。祠は、石垣で整然と区画された一画にあって、珊瑚石の巨岩を用いて建設された本殿(イビ)や拝殿(アサギ)、庭(ミャー)が直線状に並んでおり、土帝君信仰に関する建造物の形態をよく保つ代表的な遺構である。』と説明され、平成9年(1997)に重要文化財に指定されたとあった。
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 掲示された説明文の中に、「山内親方に随行して清国に渡った際、」と云う文言があるが、山内親方とは、第二尚氏尚真王 (在位:1477年〜1527)から、尚清王の時代(在位:1527年〜1555)に三司官(宰相)を務めた山内昌信とする文献があった。ただ、両者が活動した時代には200年以上もの開きがあり、健堅親雲上が随行したのは、山内昌信の子孫で、何代か後の人物だろう。
 それにしても、誰一人も歩いていない。こんなに立派な社に祀られた土帝君が、集落の日常の中で、どのように根付いているのか探って見ようと思ったが、果たせずに終わった。(2018.5.12)
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健堅比屋之墓(けんけんひやのはか)・その昔、琉球馬は明国に輸出されていた。

2018/05/23 12:11
 健堅比屋之墓は、本部町健堅集落、瀬底大橋の東詰に近く、国道449号線沿いの山際にある。歩道から直接上って行く石段が通じているが、訪ねた日、熟年のご夫婦が、拝みの準備で、茂った雑草の刈り取りをされていた。作業の邪魔になってはいけないので、石段の下で引き返すことにした。
 背丈を越える雑草が石段を覆っていたので、崖下から墳墓を伺うことは出来なかった。国道を横切って、海側からズームレンズを通して見たら、草刈りが粗方終わって、祠の軒と墓誌が建っているのが望めた。墓誌には、「健堅比屋御墓所」とあり、「鳳姓元祖」の文字も読める。
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 健堅比屋は察度王(在位:1350年〜1395)時代の人で、伝説上の人物のようだ。「比屋」とは、村の首長のことで、大親(うふや)と表現することが多い。子孫は鳳氏仲村家だそうで、墓誌からすると、鳳氏を名乗る元祖のようだ。
 以下は伝承である。健堅比屋は、明国の船が難破して漂着した明人を庇護し、船を与えて無事に送り返したが、このとき、明人がしきりに欲しがっていた名馬を与えたそうだ。帰国した明人は、この馬を皇帝に献上したと云う。後に、明の皇帝から、時の琉球王を通じて御礼の絹と石碑が送られてきたと云い、その記録が、琉球王府が編纂した史書「球陽」(1745年)にあるそうだ。 
 明の皇帝に献上されたと云う名馬は、そのころ、村を駆け巡り、穀物を食い荒らしていた荒馬で、健堅比屋は、村人を集めて何とか生け捕りに成功し、調教したようだ。全身真っ黒の駿馬で、漂着し庇護されていた明人は、その毛並みの良さを見抜いていたのだろう。
 健堅集落の小字に、駆原(かきばる)という地名がある。伝承から想像するに、野生の馬を捕獲し、飼い馴らした馬場だったのではなかろうか。琉球には、昔から在来馬がいて、明に輸出されていた記録がある。明朝では、モンゴルからの侵略に備え、軍馬の需要があったようで、多い時には、年間で千頭も輸出されたと云う。ただ、今では頭数が減り、見かけることは少ない。
 健堅比屋之墓と国道を隔てた反対側、海沿いの岩陰に、小さな墓碑があって、「シジマ乙樽本墓」と刻まれた拝所があった。仲昔今帰仁の時代に、王家の存続に重要な役割を果たした女性、「志慶真乙樽(しげまうとぅたる)」のことのようである。シジマはシゲマが変化したものだろう。以前、今帰仁村今泊集落の外れにある志慶真乙樽の墓を訪ねたことがある。本部半島の北と南に分かれて、墓の本家争いをしているように思える。
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(2018.5.12)
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部間権現 (ぶーまごんげん)・ 仏様の化身、万の神様が祀られている有難い神社です。

2018/05/17 17:08
 てくてくと、国道449号線を辿りながら、入り江を跨ぐ武間大橋までやって来た。砂浜の向こうに集落の家並みが見えるが、入って行く道が分からない。武間大橋を渡ってしまうと、集落を通り越してしまう。
 地図を確認しながら少し戻ったら、雑木の向こうに、並行して走る旧道が見えた。だが、旧道へ通じる道がない。行きつ戻りつしていると、雑木林の中に、なんとなく人が歩いたような隙間を見つけたので、ハブの恐怖に脅えつつも入って行った。窪地を飛び越えて、無事に旧道の土手へ渡り終える。事前に道筋を調べておいたメモには、「旧道を歩く」と書いているにも関わらず、まったく失念している。
 集落のはずれに、武間権現と彫られた立派な石碑が建っていた。昭和48年5月に、日本復帰記念として建てられたそうだ。部間権現のことを、地元では、「ぶーまごんげん」と呼んでいる。山手に向かって上って行く道は、コンクリートで綺麗に舗装されていた。正面に大きな鳥居があって、そこから通じる参道の両側には、見事な石灯籠が並んでいる。数えてみたら、片側に17基、左右合計で34基あった。
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 沖縄でも、それも首里から遠く離れた本部半島に、これほどまでの規模で、石灯籠が並んでいる神社があるなんて、想像もしなかった。一瞬、本土の神社に迷い込んだような錯覚を覚えた。それに、語彙の乏しい私には表現できないのだが、なんだか、わけの分からない違和感が、頭の中を過り始めていた。
 石灯篭の並ぶ参道を抜けた所にも、小さな鳥居がある。そこから更に、樹木が覆い被さって、狭くなった参道が続いていた。樹木のトンネルを抜け、視界が開けると、左手に拝殿が現れる。コンクリート造りの屋根は唐破風で、頑丈な柱で支えられている。両脇には、奉納されたシーサーが置かれていた。祭壇の中央に丸くて、大きな香炉が安置され、両側にはそれぞれに小振りの香炉が置かれている。
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 後方、一段と高くして、神殿が造られている。太い石柱が片側に三本、都合六本並んで、なんとなく西洋の神殿風だが、屋根は神明造りになっている。和洋折衷である。その奥には二基の石灯籠が建っていて、暗い洞窟が口を開けていた。鍾乳洞の全域が、ご神体だそうだ。
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 神社の名につけられた「権現」を広辞苑で調べると、「仏・菩薩が衆生を救うために、種々の身や物を権(かり)に現すこと。権化(ごんげ)。 本地垂迹(ほんじすいじゃく)説では、仏が化身して、わが国の神として現れること。また、その神の身。」、と説明されている。これまた、辞書で調べないと分からない文言が並んでいるが、仏教が渡来して興隆した時代に、八百万の神々は、実は様々な仏様が化身として現れた仮の姿(権現)である、とする考え方があった。この神仏習合思想を、本地垂迹説と云うそうで、この思想を頭の隅におかないと、部間権現に祀られている神々の由緒が理解できない。
 神殿には三基の香炉が安置され、それぞれに、権現(仮の姿)様の名前が記されている。向かって左側から、本尊を「アミダニョライの神様」として、一文字下げて、脇侍の様に、二神「大主ぬ神様」、「美女心母神」が、並列に記されている。同じように、中央には、主尊を「御天七神」として、「国主ぬ神様」、「土地七神」が並記され、右側には主尊を「御天十二支ぬ神様」として、「地主ぬ神様」、「土地十二方」と並記されていた。
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 アミダニョライの神様は、阿弥陀如来、そのままの名で、権現の名にはなっていない。本地垂迹説による仮の姿は、熊野権現・八幡神である。次の御天七神だが、最初は、日本国の開闢神話に現れる七神ではないかと思ったが、一般に知られている「七福神」のことだろうと思った。庶民に親しまれる、恵比寿、大国天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天、が祀られていると解釈したほうが、身近に感じられる。
 「御天十二支ぬ神様」は、干支の守り本尊、大日如来や勢至菩薩、普賢菩薩や文殊菩薩などの仏様を指しているのだろう。それとも、十二の方位を守護する天部の仏様を指しているのかも知れない。東西南北それぞれに、持国天、広目天、増長天、多聞天、ほかに毘沙門天や帝釈天の仏様もいらっしゃる。
 一方、本尊に並記されている神様、六体については、全く手掛かりが掴めない。地元に根付いた守護神の名前でもなさそうだ。それにしても、万の神様が集い、神在月の出雲大社にも負けてはいない。何とも有難い権現様である。

 石灯籠が並ぶ参道からの風景が、異様に映った。近くにあるセメント会社が、大規模に石灰岩の採掘を行い、神社のある西側から北側にかけての岩山は削り取られ、見る影もない。参道の整備を含めて、鳥居や石灯籠の多くは、セメント会社が奉納したようだが、自然破壊の詫び料なのかもしれない。
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 最初に鳥居を潜り、参道を歩き始めた時に感じた、違和感の正体が分かって来た。石灯籠が並び、現代風に整備された参道、その向こうに破壊された岩山の風景を眺めたら、静寂で厳かな、拝所の雰囲気が感じられなかったのだ。本来、沖縄の拝所には、時によれば、霊気さえ感じる尊厳がある。
 神殿の後ろにある鍾乳洞からは、15世紀ころの中国製青磁が出土したそうだ。古い時代には、神の住む国、ニライカナイに通じる洞窟として、自然発生的な信仰の場所であったろうと思う。素朴な拝所として崇められていた洞窟が、大きな鳥居が建ち、石灯籠が並ぶ権現様に変わってしまった。いつの頃からだろう。

 体力が残っていたので、もう少し先まで歩くことにした。名護市から本部町に入って最初の小さな集落に、塩川がある。道路沿いに「天然記念物・塩川」、と刻まれた石柱が建っていたので、雑草が茂る道に入って行った。
海から150mほども離れた内陸に在る湧き水だが、塩分が含まれているそうだ。手で掬って舐めてみたら、ほんとにしょっぱかった。説明されている文章を読むと、岩塩層によるものではなく、海水と陸水が混合したものだと云う。でも、海面よりも、かなり高い位置にある湧水だけど、地下は、どんなメカニズムになっているんだろう。
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 あっちこっち寄り道をしながら歩いてきたので、本日歩いた距離は、凡そ17q。まだまだ元気だ。(2018.4.28)

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安和のクバ御嶽 (あわのくばうたき)・厳かな雰囲気が漂っていた。

2018/05/13 16:37
 山入端(やまのは)集落から、安和集落へ入って行った。少し登り坂になって、家並みが途切れ、県道の両側から、緑の森が迫り出した場所があった。その昔の村境を思わせる風景である。村人は坂道を登り、掘割を抜けて峠道を越え、互いの集落を行き来していたのだろう。
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 クバ御嶽は安和集落の北はずれにある。住宅街の向こうに続く丘陵には、遠目にもクバの樹林が望め、御嶽の森であることが分かる。道は森に突き当り、そこから左右に分かれて、上り坂が続いている。右側にとって進むと、直ぐの左手に、「県指定民俗資料・安和のくばのうたき」と刻まれた石柱が建っていた。傍らに、青い下地に白文字で書かれた説明板もある。
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 濃緑の樹木に覆われた広場に入って行くと、奥の方に御嶽の森を背にして遥拝所が建っていた。小さな祠で、丸くて白い陶器の香炉が3基安置されている。祠の後ろには、聖木と云われるクバの木が群生していて、聖域と呼ぶにふさわしい、厳かな雰囲気が漂っていた。
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 遥拝所の背後に広がる標高40mの森全域が、安和集落の祖霊神を祀る御嶽である。貴重な民俗文化財で、イビ(神域)への遙拝所、イビ、墳墓などが昔のままに残っているそうで、御嶽の形式が、今に保存されていると云う。
 御嶽の名にある「クバ」とは、亜熱帯の植物で「蒲葵」と書き、学名を「ビロウ・檳榔」と呼ぶ樹木のことである。多くの御嶽では神木として、イビ(神域)の後ろにクバの高木を見ることがある。祖霊神は、祭祀、祭礼の呼びかけに応じて、このクバの木を足掛かりにして、降り立って来ると信じられている。
 琉球王府編纂の地誌、『琉球国由来記』(1713年)には、御嶽名や神名に、クバウノ嶽やコバノ森、コバツカサノオイベやコバウノオイベなど、クバを表す名称が69ヶ所も出てくるそうだ。クバ(蒲葵)は、日本本土でも、古式に則って行われる祭礼には、クバの葉で編んだ団扇が用いられている。今なお、沖縄では神木として扱われ、『吉野裕子全集・第一巻(扇・祭の原理)』の第五章、「御嶽と蒲葵」で、生命の根源を象徴する樹木として、詳しく考察されている。
 これまでに、何か所かクバ、あるいはクボウの名の付く御嶽を訪ねたことがある。今帰仁の「クバの御嶽」は、今帰仁城跡の西側に在って、二つの峰からなる山、すべてが聖域で、沖縄最大の広さを持つ御嶽だそうだ。琉球の国造り神話に、開闢神(かいびゃくしん)として登場する阿摩美久(あまみく)が降臨して、最初に造った七御嶽の一つであると伝承されている。
 久高島にある「クボー御嶽」も、七御嶽の一つである。男子禁制のみならず、今では聖域を犯す不埒な輩の侵入を防ぐために、何人も出入り禁止になっている。緑に覆われた聖域が深々と広がっていた。
 南風原町津嘉山集落にも「クボー御嶽」がある。場所が分からず、同じ所を何度も行き来した記憶がある。与那原町の与原区公民館の一角にある拝所、「久葉堂」の名も、御嶽の神木「クバ」と同じ音韻なので、気になっている。
 柔らかい木漏れ日を浴びながら、境内に座り込んで煎餅を齧っていたら、やぶ蚊の襲来にあってしまった。厳かな雰囲気に浸っていたにも関わらず、これでは台無しである。早々に退散する羽目になってしまった。
 御嶽の森、全容が望めるかも知れないと思い、境内の横に続く農道を上って行った。急な坂道が続くので、息切れが激しく、途中で諦めてしまった。まだまだ、体力があると思っているのに、歳には逆らえないようだ。
 バス通りに戻り、地図にある安和神社を探すことにした。住宅街に入って路地を行き来していたが、結局見当たらず、元の場所に戻ってきた。ところが、なんてことは無い、目の前にあるスーパーの駐車場に隣接して、鳥居が建っていた。
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 安和神社は昭和9年(1934)、今上天皇が誕生されたことを記念して、それまでの素朴で簡素だった祠を、神社に建て替えたそうだ。コンクリート造りの神殿には、ご神体は無い。神様の名も無い。四角い香炉が一基安置され、その後ろに何かを載せる台が置かれていた。祭礼の時に、ご祭神を安置する祭壇のようである。
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 神殿の横に、神を招き、祭事を行う神アシャギが造られている。比較的新しい建物で、軒に打ち付けられた金属プレートに、平成23年10月に安和区民一同によって改築された、とあった。
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 神殿が建て替えられた前年、昭和8年は、日本が国際連盟を脱退し、戦争の足跡が聞こえ始めた頃である。政府は、国家神道を唱え、その普及に努めていた。村人たちは、時代の流れに抗しきれず、素朴な祠だった拝所を、鳥居を構えた神社に変えざるを得なかったのだ。
 安和集落の古島(もとの場所・故地)は、今ある集落の北東、上座毛(うぃざもー)と呼ばれる丘陵地帯にあったと云う。建て替え前の素朴な祠には、今の地に移り住み、村を拓いたご先祖様が祀られていたに違いない。(2018.4.28)
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山入端神社 (やまのはじんじゃ)・集落を拓いた7戸の家族が祀られているのだと思う。

2018/05/09 19:37
 山入端御嶽(やまのはうたき)から集落に入って行くと、左手にバス通りに背を向けて山入端神社が建っている。鳥居を潜ると、左右に灯篭が立ち、その向こうに、何とも異形だが、黒塗りのシーサーが建っていた。本土の神社には狛犬さんが建っているが、私にはシーサーと狛犬さんの区別はつかない。もともとルーツは同じなのだから、そんなことはどうでもよいのかも知れない。
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 本殿は赤瓦で葺かれ、コンクリート造りで、回廊形式の手摺りで囲まれている。今ある神社は、昭和54年(1979)に再建されたものだそうで、神を招き、祭事を行う神アシャギも造られている。
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 昭和の初めごろまでは、村の守護神を祀る小さな祠だったそうだ。記録によると、昭和8年(1933)にセメント造りの社殿が建立されたと云う。昭和8年と云えば、日本が国際連盟を脱退し、戦争の足跡が聞こえ始めたころだ。政府は、国家神道を唱え、その普及に努め、神との結界を示す鳥居が、その手段にされてしまった。結果で、沖縄には「御嶽に鳥居」と云う、実に滑稽な風景が今に残ることになる。山入端神社も、小さな祠だったものが神社に変えられてしまった。そんな背景があってか、いくら調べて見ても、山入端神社の、ご神体の名が分からない。祭壇の何処を探しても、神の名は書かれていないし、ご神体らしき形は見当たらない。生花が供えられ、香炉が一基安置されているだけである。
 集落の人々にとっては、祖霊神を祀る祠なんだから、神の名前は要らないのだろう。1736年、琉球王府の政策によって、今の名護市中山の小字古山入端原(ふるやまのはばる)から、現在地に7戸の家族が移されたと云うが、その7家族が、集落を拓いた祖霊神として、祀られているのだと思う。山入端の集落で、催し物があった時に唄われる「山入端音頭」には、「七家族ぬ神ぬわが島造て、今や千年に村や栄えて」の文言がある。
 山入端の向かい側に、気になる看板を見つけたので立ち寄った。「名護按司奉納 世禮門中」とある。祭壇があって、中央に二幅の掛け軸が下がっていた。一つは馬に跨り、戦に向かう関帝王を描いた掛け軸だが、もう一幅は、何が描かれているのか分からない。関帝王は忠義と武勇の象徴で、琉球王府の維持、強化と云う視点から、誠に有り難い神様であったようで、家臣に対する褒美・恩賞として関帝王の図を下賜することがあったそうだ。いつの頃の名護按司(城主)だか分からないが、琉球王府から下賜された貴重な掛け軸なのかもしれない。名護按司の子孫である世禮門中が祀る拝所のようだ。頭を垂れて、手を合わせたて来た。
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(2018.4.28)
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山入端御嶽 (やまのはうたき)・鳥居の「山入端御嶽」と書いた扁額が裏側にある。なぜだ?

2018/05/09 14:59
 国道449号線、名護湾を望む絶景の地に、リゾネックスホテルがある。その向かい側から旧道に入ると、直ぐの右手に山入端御嶽の鳥居が建っていた。折悪しく道路工事中で、鳥居を潜って境内に入って行くことが出来ない。迂回しながら御嶽の森に入って行った。地元では「やんばーうたき」と呼んでいるそうだ。
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 これまでに何度も触れて来たが、御嶽に鳥居は要らない。明治以降、日本政府は国家神道を唱え、その普及に努めていた。特に、昭和の時代に入って、そうした動きが顕著になり、祖霊神を祀る御嶽を神社とみなし、鳥居の建立を半ば強制したようである。住民が反対できる時代背景にはなかった。その結果、御嶽に鳥居が建つと云う、実に滑稽な風景になってしまった。
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 ただ、鳥居の裏側に「山入端御嶽」と書いた扁額が掛かっていて、竣工・昭和53年1月とあった。戦前には無かった鳥居なのか、古くなったので、新しく建て替えたのか、そこらへんが分からない。でも、裏扁額の意味するところが気になってしまう。竣工銘板なら、門柱の下部に取り付けられる筈なんだが。
 広場の奥に小さな祠があって、鉄格子の向こうに、ご神体の石が祀られ、香炉が安置されていた。御嶽への遥拝所である。背面には比較的新しい板に、「裕光」と書いた文字が見えるが、何を意味するのか分からない。
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 祠の背後は小高い丘になっていて、この森の全域が祖霊神を祀る御嶽であることが分かる。祠の右側に石段があったので上って行ったら、雑木に埋もれる様にして祠が建っていた。神が来訪するイビである。祠の前に立ち、帽子をとって丁重に頭を下げて来た。
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 山入端村の発祥については、次のような記録がある。王府の三司官、蔡温(1682年〜1762)は、国頭地方の山林を巡視して、各地の村を移動させる農業政策を行った。その一環として、乾隆2年(中国清の年号で、1737年)に、今の名護市中山の小字古山入端原(ふるやまのはばる)から、現在地に7戸の家族が移されて、山入端村が形成されたと云う。明治41年(1908)に名護村に編入されるまで、山入端の村名が残っている。
 『琉球国由来記』(1713年・王府編纂の地誌)に、今の名護市中山の小字古山入端原に在ったとされる御嶽として、「セキカケナカモリノ嶽」の名があるそうだ。今の山入端御嶽は、移住して来た7戸の家族が祖霊神を祀る場所として、セキカケナカモリノ嶽を遷したのかもしれない。・・・が、これは、いつもの通り、私の想像である。(2018.4.28)
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凌雲院 (りょううんいん)・ 地元では屋部寺(やぶでら)と呼んでいる。

2018/05/06 10:21
 屋部(やぶ)集落は、名護市の西方、本部半島の付け根部分にあって、やって来たのは、今回で2度目である。3年ほど前、今帰仁城に関わりのある聖地を巡拝した際、臣下の謀反によって城を追われた按司一族を匿ったと云う「阿儀道屋(あじみちやー)」を訪ねた。今でも、今帰仁の聖地を巡る、「今帰仁上り(なちじんぬぶい)」の習俗は残っている。
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 凌雲院は、屋部集落の北はずれにあって、寺院に通じている道沿いのブロック塀に、左矢印で「屋部寺」と書いた道標が打ち付けられていた。地元では屋部寺(やぶでら)と呼んでいるようだ。
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 折から、拝み(うがみ)に訪れた二組の家族があった。先の家族が儀式を終えるあいだ、一方の家族は、脇のベンチに平御香(ひらうこー)を並べ、お餅や果物を盛った箱、「ビンシー」を置いて待っている。因みに、ビンシ―とは、携帯用の祈願道具箱のようなもので、御神酒が二つと、お酒を注ぐ酒杯を収め、仕切りがあって、お供え物をコンパクトに盛り付けた箱である。拝みに訪れる際の必携品で、沖縄の祈りは先祖崇拝が根底にあるので、神社や寺院、御嶽であっても、お参りに持参する道具は同じである。
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 祭壇には、左から「釈迦如来」、「地蔵菩薩」、「延命観音」、中央に一際大きい、ご本尊の「薬師如来」。続いて「聖観音菩薩」、「不動明王」、「子安地蔵菩薩」の像が安置され、それぞれに仏様の名前を書いた札が置かれていた。かなりの時を経たと思える仏像が並んでいる。
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 山門の脇に凌雲院と彫られた、、立派な石碑が建っていた。そこに、「開祖は凌雲和尚、西暦1692年、屋部邑に草庵を構結して、楽道安身の処となす。当時、大旱釈道周く通ぜし、和尚の昼夜の念経呪法により終に大雨降る。また、屋部村に多かりし火災をもなくせり。」と刻まれていた。同様の文言が、琉球王府が編纂した史書、『球陽』の附巻に記されているそうだ。
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 開祖凌雲の出自は、はっきりしないが、首里の円覚寺で修業し、本土に渡って研鑽を積み、『帰琉の後には、浦添に在ったとされる古刹、龍福寺の住職に就いたと云う。『球陽』の記述によると、1699年の条に、龍福寺の住僧凌雲が、屋部邑に草庵を構えて移り住む、と記されているそうだが、石碑にある1692年、屋部邑に草庵を構結して楽道安身の処となす、の記述とは、なぜだか、7年のずれがある。
 境内の隅に、「坊主御井戸(ぼうじうかー)」が復元されていた。湧き水は見られず、枯れ井戸の底に、お賽銭が重なっていた。
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(2018.4.28)
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宮里前之御嶽 (みやざとめーぬうたき)・神女(ノロ)の国、琉球に女人禁制の御嶽があった。驚き。

2018/05/01 15:09
 名護市役所から東へ凡そ500m、バス道路沿いに鳥居が建っていて、脇に「前之宮」と彫られた石碑が見える。地元では、メーウガミ(前拝み)、またはメーヌタキ(前の御嶽)と呼ぶそうだ。『琉球国由来記』(1713年、王府編纂の地誌)に、宮里村の御嶽として、「マキョガマノ嶽」の記述があるそうだが、それが前之宮を指しているのかどうかは不明だと云う。
 濃緑に覆われた森の中に、厳かな佇まいの社殿が、木漏れ日をうけて浮き上がる。神事に使われる左縄が張られ、鳥居から先に入って行くことは出来ない。社殿は、沖縄特有の赤瓦で葺かれているが、屋根に生えた雑草が気になる。軒に彫られた図柄は何を表しているのか分からないが、注連縄を連想させる。石造りの社殿で、拝殿は木製の扉で固く閉ざされていた。小さな社殿だが、回廊のように、石の手摺りで囲まれている。
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 前之宮は女人禁制だそうだ。琉球国には、聞得大君(きこえおおきみ)を最高神女とするノロ制度があって、神に仕えるのは女性であった。その琉球に女人禁制の御嶽があったなんて、驚きだ。当てにはならない伝承だが、前の宮には僧侶が祀られており、僧侶は妻帯できないので、女性は入ることが出来なかった、と云うことらしい。であれば、当然のこと、前之宮の祭祀を司るのは男性である。ホーニン(包人)と呼ばれ、集落の旧家、門中から選ばれた男性が神事を取り仕切るそうだ。
 「前之宮」があるからには、「後之宮」もある。宮里集落の北方にあるらしいのだが、場所が分からない。前之宮とは逆に、後之宮は男子禁制だそうだ。文献(角川日本地名大辞典)には、後之宮の記述に、「根神(にーがん)が祭祀に当たる。」と、説明されている。沖縄では、村を初めに拓いた家を根屋といい、祖霊神を祀るのは、代々と続く根屋の娘である。根神(にーがん)、あるいは根人(にっちゅ)と呼ばれている。
 鳥居から少し離れた所に、「県指定天然記念物・宮里前の御嶽のハスノハギリ林」と書かれた石柱があって、詳しく説明された掲示板が建っている。そこから森の中に入って行くことが出来たので、前之宮の社殿に近づいて、手を合わせて来た。ハスノハギリは熱帯の海岸に自生する常緑樹で、高さが15mから20mにもなり、沖永良部島が北限だそうだ。宮里前之御嶽のハスノハギリ樹林は、周辺の海浜が埋め立てられ、今では市街地に取り込まれている。難しい生育環境だろうが、大切に保存されているようで、街に潤いを与えている。
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(2018.4.18)
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護佐喜宮(ごさきぐう)・名護市街地の大中、大東、大西、大南、大北は、その昔大兼久村だった。

2018/04/26 15:58
 護佐喜宮は、名護市街地に在って、モダンな建物で、リゾートホテルを思わせる名護市庁舎に近い。町名にある、大中、大東、大西、大南、大北の市街地は、王府時代から、明治38年(1905年)に至るまで、大兼久村と呼ばれていたようだ。周辺の村と合併して名護村が形成されたときに、今の集落名が付けられたようである。それにしては、安易に名付けたものだが、大兼久村の大を頭に、東西南北に区分されているので、分かり易くて良い。護佐喜宮は、今の大中に在ることから、大兼久村の真ん中、高台の森に祀られた鎮守様で、村人の拠り所であった様子が伝わってくる。
 道路沿いから、急な石段が続いている。上り終えると狭い境内に拝殿があって、更に見上げるような急な石段が続き、天辺に祠が建っていた。神様の名前が分からない。あいにく社務所が閉まっていたので、縁起を尋ねることが出来なかった。
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 拝殿の柱に祈願の文言を書いた紙が、やたらと貼りつけてある。「無病息災」、「家内繁栄」、「家庭安寧」、「安産」、「商売繁盛」、「就職決定」とあって、何でも有りの神様のようである。鈴を鳴らし、柏手を打つ。独居老人の私には、無病息災の祈願が相応しい。
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 拝殿の脇から、上に向かって続く道が通じていたので登って行ったら、社殿の裏手に当たる高台に出た。特別に何かがあるわけでもないが、何だか気になる広場である。旧暦の8月10日には例祭が催されるそうだが、急斜面にある境内は狭いので、この広場に集落の人々が寄り集まって、祭祀の行事が行われるのかも知れない。道は、反対側へ下っていた。護佐喜宮のある場所は、そこだけが市街地に囲まれ、突出した丘になっているようだ。その昔、人家のまばらだった頃には、村中から望め、鎮守様を祀るに相応しい森の佇まいであったろう。
 地名の「兼久(かにく)」とは、海岸に近い砂地を指すそうで、沖縄には、兼久の名がつく集落名が、やたらと多い。地名辞典で探していくと、大兼久に止まらず、内兼久、前兼久や、その地の名を冠した兼久地名が随所にある。古地図を見ると、那覇にも内兼久の地名が見える。
 名護にあった大兼久村も、海沿いに拓かれた集落であった。今では、埋め立てが進んで、海岸からは離れた市街地に変貌している。その昔、航海から帰って来た海人は、高台に建つ護佐喜宮が見えてくると、安堵の吐息をついたのではあるまいか。でも、拝殿に張られていた祈願の文言には、航海安全や豊漁は無かったように思う。(2018.4.18)
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山原(やんばる)の峠を越えて来た。

2018/04/22 09:18
 名護市の東海岸、米軍施設キャンプシュワブのある辺野古から、やんばるの峠道を越えて、名護の市街地まで歩いてみようと思った。沖縄本島の横断道路、およそ10qの行程である。那覇から高速バスを利用して宜野座ICで下車し、そこからローカルバスに乗りかえて辺野古までやって来た。
 その昔、琉球王府は各地の間切(まぎり・行政区画で今の市町村)を結ぶ宿道を整備していた。沖縄本島の中部、北部、南部を東西のルートに分けで結び、一定の距離ごとに宿駅(宿場)を設け、王府からの文書を、各間切に、速やかに伝達するシステムが機能していたと云う。
 その宿道の一つに国頭方東海道(くにがみほうとうかいどう)がある。道筋は、首里から西原間切、宜野湾間切、越来間切、美里間切、金武間切、久志間切へと、東海岸沿いを北上し、今の名護市瀬嵩集落から山原(やんばる)の森林地帯を越えて、西海岸の羽地間切から大宜味間切、国頭間切へと通じていた。
 これまで拝所巡りをしながら、国頭方東海道の道筋に沿って歩き、先日には、金武間切から久志間切に入り、久志観音に詣でてきた。これから名護間切、羽地間切へ進むには、山原(やんばる)の森林地帯を横断しなければならない。国頭方東海道は、概ね今の県道18号線に沿って、やんばるを越えていたようだが、この日歩いたのは、その南側に並行して走る国道329号線である。
 辺野古のキャンプシュワブ第二ゲイトを過ぎると、亜熱帯特有の濃緑で、背の高い樹木が密集した山原(やんばる)の森に入って行く。もう、この先、西海岸の世冨慶(よふけ)集落まで人家は無いようだし、バス停が一か所、二見集落の入り口にあるだけである。
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 晴れ間が覗き、歩くには最適な陽気だが、キャンプシュワブの移設工事が続いていて、石材を運ぶダンプカーが、引きっきり無しに走り抜け、その騒音は凄まじい。静寂で、奥深い森林に浴する心地よさを味わうことは出来ない。一度ならず二度までも、疾走するダンプカーの風圧で、帽子が飛ばされ、慌てて拾いに走る始末である。
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 二見集落へ通じる331号線が分岐した先に、堆積地層がむき出しになった山肌があった。詳しいことは知らないが、数千万年以前、深海に堆積していた地層が、地殻変動によって隆起した場所で、このような地層は、沖縄本島の中部から、北部の東側に分布しているそうだ。一方、沖縄本島南部は、サンゴ礁が隆起した地層で、北部と南部では地層の創成過程が異なっている。沖縄本島は、地殻変動によって隆起した地層の異なる島が、ぶつかり合って繫がって出来たそうだ。その場所が、うるま市の北側、金武湾から、西海岸に線を引いた辺りで、沖縄本島で東西の幅が一番狭い場所になっている。
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 その先、地図で見ると、地図で見ると、二見入り口のバス停がある東側に「観光闘牛場」があるので、寄ってみることにした。ところが、闘牛場の看板は雑草に囲まれ、屋根にはぺんぺん草が生えている。入口は立派な門構えだが、縄が張られて通行止めになっていた。奥に続く道は、雑草が茂るに任せて放置されている。明らかに閉鎖されていことは分かるが、好奇心に駆られて、どんな施設があったのか、坂道を上って行った。
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 なんと、そこには、斜面を利用して太陽光発電のパネルが設置され、遠くまで広がっていた。「いちご名護二見ECO発電所」と書かれている。「いちご」とは、「一期一会」から採られた名のようだが、何で太陽光発電所と一期一会が繫がるのか、そこんところが分からない。
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 再び歩き始めた。見晴らしの良い場所に出たので、しばらく休憩した。やんばるの森は、波打って深々と続いている。亜熱帯ジャングルの向こうに、標高385mの多野岳が霞んで見える。静寂の中で、やんばるの森を眺めるのは、暇つぶし老人にとって、至上のひと時である。・・・のはずだが、連なって坂道を登ってくるダンプカーの爆音は凄まじく、気分が殺がれてしまった。
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 下り坂が続き、旧道の入り口に軽自動車が止まっていた。人影がするので近寄って見たら、虫取り網を持った老人が、大きなビニール袋を提げて立っていた。挨拶を交わして、ビニール袋の中身を尋ねたら、やんばるの森に棲む昆虫を採集しているのだと云う。3p位の大きさで、背中に赤い斑点のある綺麗な虫だった。虫篭に入れて眺め、楽しんでいるそうだ。虫の名前を伺ったけれども、忘れてしまった。しばらく会話を続けたが、移住して4年目、未だに老人の沖縄語は、その半分も理解できない。丁寧に話を続けてくれた老人に感謝し、多分、とんちんかんな受け答えをしいただろう、己の失礼を詫びねばならぬ。
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 道端に、「名護親方程順則(なごうえかたていじゅんそく)」と記した立派な説明板が建っていた。程順則(1663年〜1734)は、那覇の久米村に生まれ、近世の沖縄を代表する学者・文人で、教育者として人材の育成に努めた人物だそうだ。琉球で初めての学校「明倫堂」を建てたと云う。21歳の時に中国に留学して以来、琉球王府を代表する使節として、何度も中国に赴き、貴重な文物を持ち帰り、中国文化の普及に努めたそうだ。66歳の時に、それまでの功績によって、名護間切の総地頭(名護親方)に任命され、後には、その人格と素養、徳によって「名護聖人」と尊称されたと云う。
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 江戸期に道徳の書として用いられた「六論衍義(りくゆえんぎ)」は、程順則が中国より持ち帰り、翻訳して自費で出版し、薩摩藩を経由して八代将軍吉宗に献上されたと云う。因みに「六論」とは、孝順父母、尊敬長上、和睦郷里、教訓子孫、各安生理、母作非為で、寺子屋の教科書にも採用されていたそうだ。
 名護親方程順則の案内看板を建てたのは、名護市教育委員会・北部国道事務所である。普通だと、住居跡や役所があった場所に建てられるものだが、こんなにも市街地から外れ、人も歩かない峠道に建てられているのが奇妙に思われた。北部国道事務所の名があるところを見ると、この場所を起点(あるいは終点)として建設された「長堂橋」と関りがあるようだ。
 長堂橋は、世冨慶峡谷に覆い被さるように、緩やかなカーブを描いて下って行き、世冨慶集落の入り口まで、凡そ1qに亘って続いている。眼下には、谷間を縫うように蛇行する世冨慶川が流れていた。
 この、長堂橋の橋詰に名護親方の像が設置されている。どこを探してみても説明されたものは無いので、程順則と長堂橋が結びつかないのだが、明らかに名護親方の像である。橋の両詰、左右の都合四か所に設置されていた。
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 久志間切のあった名護市の東海岸に、久志の地名が残っている。山中襄太『地名語源辞典』1995年・校倉書房の記述に、久志は奄美から沖縄本島に分布する地名で、「くし」は「越す」の意味であり、古語の当て字だと解説されていた。また、沖縄語辞典(内間直仁・野原三義編著 2006年 研究社)で「くし」を見ると、@腰。背中。A後ろ。後方の意と説明されている。
 久志間切は、名護間切と、やんばるの森林地帯を挟んで、背中合わせに立地している。名護間切から、やんばる山地をくし(越え)た、くし(後ろ)に在るのが、久志間切である。
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 濃緑の森を縫うようにして続いた長堂橋を歩き終えると、視界が開けて、世冨慶集落の向こうに名護湾が広がり、遠くに本部半島が霞んで見えて来た。

(2018.4.18)

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久志観音堂(くしかんのんどう)・お寺のお爺さん、ティラヌタンメーの石像、こりゃ国宝だ。

2018/04/15 11:54
 久志若按司の墓から50mも山手に向かうと、左に折れる道があって、観音堂と書いた札が下がっていた。樹木が茂った奥の方に、大きな石灯籠と赤瓦のお堂が見えてくる。お堂に覆い被さるように、がじゅまるの巨木が広がっていた。かなり年月を経ているお堂で、古色蒼然とした佇まいである。久方ぶりに、般若心経を唱えた。
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 昭和48年(1973年)に修復されたそうで、建材は全てチャーギ(イヌマキ)が使われているそうだ。横道にそれるが、チャーギは湿度や、シロアリなどの害虫に強く、沖縄では建築用材や仏壇などに使用され、重宝されている。古くから貴重な樹木とされ、その枝は神に供える植物として、本土の榊(さかき)と同様に、大切に扱われている。沖縄に移住した当時、スーパーにチャーギの葉っぱが売られているのを見て、使用目的が分からず、不思議に思ったものだ。
 久志集落の人々は、この観音堂のことを「ティラ」と呼び、祀られている観音石像を、親しみを込めて「ティラヌタンメー」と呼んでいるそうだ。沖縄語で「タンメー」は、祖父、あるいは老爺を指すので、「お寺のお爺さん」と云うことになる。「山寺の和尚さん」と同義語だろう。
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 久志観音堂は、琉球王府が編纂した史書「球陽」の記事から、1688年に、この地の総地頭であった豊見城王子朝良と、久志親方助豊によって建立されたことが分かっているそうだ。この時に奉納されたのが「ティラヌタンメー」こと、観音石像であると云う。
 観音石像の由来について、名護市ホームページに記載されていたので、要約して記すと、「その昔、首里の役人が勤めで唐に渡り、そこで、美しい観音像に出会い、役務を終え、その観音様を船に積み、沖縄へ持ち帰って来た。首里に近い港で降ろそうとすると、観音様が『久志グヮーかい、久志グヮーかい』と喋ったと云う。そこで久志に観音堂を造って祀った。」そうだ。久志観音堂が建立された1688年と、中国・唐の時代とは整合性が取れないが、唐と云えば、中国の代名詞なのだろう。由来記なんだから、そんなことは、どうでもよいことにしよう。
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 観音石像の高さは1mほどである。経年変化が激しく摩耗しているので、観音様の造形は判別できるが、表情や衣、持ち物などは一切分からない。顔から頭部が長く伸び、その凹凸からして、なんとなく十一面観音を思わせる。左手で杓文字のような形をした何かを持ち上げているが、これも、何を意味するのか分からない。330年前に奉納された中国渡来の観音像が、今に至るまで、そのままに残されているのだろうか。だとすれば、国宝級だと思うのだが。(2018.3.28)
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久志若按司の墓(くしわかあじのはか)・組踊り、「久志の若按司」の主人公が祀られている。

2018/04/13 17:46
 按司とは、琉球古代における首長・豪族の呼称で、久志に居城を構えた久志按司の二代目が、久志若按司である。
 宜野座村から、国道329号線を北上して名護市に入ると、最初の集落が久志である。集落に通じる旧道の入り口に、「歴史の重み・久志の観音堂。組踊り・久志の若按司の里。子宝祈願・ドウドイ。」と書いた大きな看板が建っている。久志集落の見所のようだ。
 案内看板から凡そ1q、久志の集落を抜け、海沿いに出ると、直ぐ左手の石垣の上に、海を背にして祠が建っている。久志若按司の墓は、鳥居を潜って詣でるようになっていた。何度も触れて来たが、沖縄の拝所、それも按司墓に鳥居は似つかわしくない。
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 これまでに訪ねた多くの按司墓は、居城跡の間近にあって、ほとんどが岩の窪みや、洞窟を利用した岩陰墓か横穴墓である。祠に祀られる按司墓は珍しい。墓前に安置された香炉には平御香が焚かれ、煙が漂っていた。お参りに訪れた方があったようで、坂道を上って来る途中ですれ違ったご夫婦のようだ。久志若按司の血筋を引く子孫の方かも知れない。
 祠の屋根は、軒が反り返った唐破風で、方形になっている。石造りの墓室と一体になって、大きな御神輿が置かれた様である。傍らに「久志之若按司之墓」と刻んだ石碑が建っていた。
 境内の端に、詳しい系譜を記した墓誌、「久志若按司之系統・並ニ由来記」の碑が建っている。初っ端に刻まれている文字は、伝説の王統、「初代天孫氏後裔恵祖世主」で、英祖王の名があって、湧川王子の名があり、次々と、伝承で語られている支配者の名前が刻まれている。何とも仰々しく思えるのだが、墓誌なんだから、箔付けが必要なのは分かる。
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 久志若按司は、うるま市にあった安慶名城主の初代安慶名大川按司の孫に当たる人物のようだ。系図を遡ると、14世紀前半に伊波城を築いた初代伊波按司から、仲昔今帰仁按司第四代の丘春(?〜1322年)に辿り着く。
 墓誌は、昭和11年に建立されたとあるが、それにしては、良く保存されていて、何とか読める。ただ、難しい文章表現に出くわすと、憶測で読むしかない。伝承のご先祖様はとも角として、子孫について記されている文章に、「久志小村徳森屋ノ持チ崇メタル共徳森屋ノ跡目ナキ為メ一時ハ他血ヨリ入婿トナリテ元祖ヲ持チ崇メ是レヨリ後ハ若按司ノ子孫赤平屋(今ノ蔵ン当)ト云ウ家内ヨリ持チ崇メトナル」と、ある。先ほどすれ違ったご夫婦は、ここに記された若按司の子孫、赤平屋に関りのある方かも知れない。
 久志按司が居城とした久志城は、按司墓の背後に広がる「アタイ」と呼ばれる高台に在ったそうだが、今では、雑木が鬱蒼と生茂り、足を踏み入れることは出来そうにない。それに、城跡の痕跡は残っていないらしい。
 雲踊り、「久志の若按司」は、仇討物語の傑作とされる作品で、粗筋は次のようである。今の、うるま市にあった「具志川城主の天願按司は、配下の頭役であった謝名大主の騙し討ちにあい殺害される。遺児となった天願若按司と妹の乙鶴は、逃げ延びる途中で、謝名大主の臣下である富盛大主に捕らえられる。それを知った分家筋である久志若按司は、二人が幽閉された東恩納番所へ向かい、救出に成功する。久志若按司は、その時に捕らえた富盛大主に偽りの情報を流し、敵方同士を仲違いさせる罠を仕掛ける。罠とは知らずに、久志城に攻め入った謝名大主は捕えられ、天願若按司は、久志若按司と協力のもとに父の仇を討った。」と云う物語である。天願若按司と久志若按司は、従兄弟同士になる。
 久志若按司の墓から、久志集落の方へ150mも戻ると、通りの奥に「久志之若按司位牌安置所」が見える。石塀に囲まれ、赤瓦の社殿があって、境内は綺麗に掃き清められていた。祭壇には「歸真 久志按司 久志若按司 霊位」と書かれた朱塗りの位牌が祀られている。生けられたばかりの生花が並び、整えられた祭壇には、三基の丸い香炉が安置されていた。
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 位牌安置所の脇に、「祝女殿内(のろどぅんち)」があり、祭壇には位牌が安置されているが、暗くて法名の文字が読めない。右側には香炉が安置された拝殿が二つ並んでいた。火ぬ神のようでもあり、そうでもなさそうである。赤い箱が置かれていたが、賽銭箱のようなので、遠くから投げられるように、重みのある百円硬貨を取り出して納めて来た。うまく入った。
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 祝女(のろ)は、琉球王府の時代に、「聞得大君」を頂点とした神女組織に属し、集落の祭祀を取り仕切る神官で、今で云う国家公務員である。狭い沖縄だが、地域によっては「ヌール」、「ヌル」とも発音する。てくてく歩いている私の感じでは、「ヌル」と発音する集落の方が多いように思える。
 祝女殿内と小路を隔てて、祖霊神を招き、祭事を行う社殿、「カミアシャギ」が建っていた。この一帯は、久志集落の聖域のようである。首里から遠く離れた集落ほど、祖霊神を身近に感じる雰囲気が漂っている。(2018.3.28)
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惣慶宮 (そけいぐう)・戦前の日本は、祖霊神を祀るマチョウガマ御嶽を神社に変えてしまった。

2018/04/07 13:50
 タコライス発祥の地、金武町から国道329号線を、ひたすら宜野座村に向かって歩く。少し内陸に入ったようで、海が見えなくなった。再び海が望めるようになると、宜野座村の漢那集落に入る。道の駅「ぎのざ」で、しばらく休憩した。
 漢那集落を過ぎて、目指す惣慶宮へ通じる農道に入って行った。惣慶の集落は丘陵地帯に広がっていた。さて、惣慶宮の場所を尋ねようにも、人の姿が全く見えない。緑が茂る森を目指して歩いて行ったら、突然、左手奥に鳥居が現れた。
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 境内の全域が児童公園として整備されていた。鳥居を潜り、右手に続く遊歩道を辿って行くと、社に通じる石段の下に出る。社殿の軒に揚げられた注連縄と云い、祭壇に張られた幔幕と云い、佇まいは本土で見る村の鎮守様と何ら変わらない。ただ、屋根は沖縄独特の赤瓦で葺かれている。
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 通りに面して、縁起を記した案内板が建っていた。「惣慶のアガミ(お宮・マチョウガマノ嶽)」とあつて、由来が説明されている。目の前に広がる森全域が御嶽で、アガミ山と呼ばれ、惣慶集落の祖霊神が祀られていたと云う。アガミは「拝み」が変化したものだろう。惣慶の古い集落は、このアガミの森に祀られた御嶽を起点にして、海沿いに向かって扇状に広がっている。集落をしっかりと支える腰の位置に、守護神を祀ったようだ。
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 日本が第二次大戦に突入した翌年、昭和17年(1942)に、今の社殿が造られ、那覇市若狭の波上宮から分祀された神を祀ったそうだ。明治以降、日本には皇国史観なるものがあり、第二次世界大戦が勃発すると、小学校(国民学校)では、「日本は強い国、世界に一つの神の国・・・」と、教えられていた。政府は、国家神道を唱え、その普及に努め、その結果で「御嶽に鳥居」と云う、実に滑稽な風景になってしまった。祖霊神を祀る御嶽を神社とみなし、鳥居の建立を強制したようで、当時の時代背景は、住民が反対できる状況にはなかった。
 由来を記した文章に、「その後、アガミ山は、お宮と呼ばれるようになりました。」と、書かれていた。行間からは、深い悲しみと怒りが伝わってくる。それまでは、「マチョウガマ御嶽」と呼ばれ、入り口には香炉が並べられ、人の手を加えない自然のままの聖域として、深い森の中に祖霊神が祀られていたのである。
 帰り際、またまた方角が分からなくなってしまった。折よく通り合わせた男子中学生に宜野座ICまでの道順を尋ね、来た道とは反対側の坂道を下って行った。(2018.3.21)
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金武観音寺(きんかんのじ)・日秀上人は、薩摩藩の特命を受けた外交官ではなかったのか。

2018/03/31 15:27
 再び、金武観音寺を訪ねた。補陀落渡海を実践した捨身行者の日秀上人が、琉球金武の浜に漂着し、洞窟を霊場として金武宮を構え、洞窟の上に金武観音寺を建立したと云う伝承がある。
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 観音寺の境内は広々としている。本堂は古い建物だが、昭和17年(1942)に再建されたそうで、先の沖縄戦では焼失を免れている。祭壇の正面には、聖観音菩薩像、右側には阿弥陀如来像、左側には薬師如来像が祀られ、両脇の空間には曼荼羅図会が掛かっていた。さらに右側に設えられた祭壇には、大日如来像が祀られている。若い男女の三人組が、祭壇の前で手を合わせていた。
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 境内の隅に日秀洞の入り口がある。日秀上人が霊場を開き、熊野三所権現を祀ったと伝わる洞窟である。鍾乳洞は、地表から深い角度で下に向かって続いている。地下に向かって数メートルも進むと、左側に説明板があって、当山鎮守「金武権現」とあり、「仏教の観音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来を本地仏とした熊野三所権現、事解男尊(ことさかおのみこと)、伊勢冊尊(いざなみのみこと)、速玉男尊(はやたまおのみこと)が合祀されています。」と書かれていた。この金武権現宮を管理する別当寺が、金武観音寺である。洞窟は更に地下深く続いている。「大仏天蓋」と名付けられ、日傘を吊るしたような鍾乳石が垂れ下がっていた。布袋様が鎮座した拝所もある。
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 日秀上人は真言密教と観音信仰、熊野信仰を合わせ持ち、琉球に残した寺社の開基、加持祈祷の類を含め、数多くの事蹟を残している。多面的な日秀上人像から、本土で語られる弘法大師の行状伝承を思わせる。日秀上人については、これまでにも学ぶ機会があったが、私流の勝手な解釈(妄想?)を含め、もう一度整理しておくことにした。
 日秀上人(1503年〜1577)が琉球に漂着した時期は、1527年から、1534年の間と推定されている。薩摩に残されている日秀に関する史料からは、1528年であるとする説が有力だと云う。また、琉球に滞在した期間だが、1527年、もしくは1528年から、1545年迄の凡そ18年間ではなかったかと推定されている。
 日秀上人は、真言密教と観音信仰、熊野信仰を布教すると云う、明確な目的を持って、琉球に渡って来た僧侶だろうと思う。薩摩から島伝いに南下し、沖縄本島の東海岸に上陸したと考えた方が現実的である。
 日秀上人は、補陀落渡海を実践した捨身行者であったと伝わっているが、そのことを、多くの人が疑わず、今や定説になっているようだ。しかし、それは単なる伝承ではないかと思う。「補陀落渡海行者」と云う呼称は、今風に云えばキャッチコピーのようなもので、日秀上人が布教活動を行うときに自称し、煽り文句に使ったのではないかと思う。
 日秀上人の事績として実証できるのは、金峰山三所権現(金武観音寺・金武権現宮)の創建と、衰退していた波上宮と護国寺(いずれも那覇市若狭)再興の僅か二つに過ぎないと云う。語り継がれる事蹟の多くは、日本から渡来して来た、名もない遊行僧や隠遁僧、勧進僧たちの業績が、日秀上人の名のもとに語られていると思った方が良い。
 日秀上人が琉球に渡って来たとされる1527年は、尚真王が亡くなり、尚清が王位に就いた年である。尚真王は、琉球王国の基礎を固め、黄金時代を築いた国王であった。琉球が国家として着々と実力を蓄え、奄美諸島から八重山諸島に至るまで、確実に版図を広げた時代である。薩摩藩にとっては気になる存在であったはずだ。例によって、私の妄想だが、日秀上人は、薩摩と琉球を結ぶ鎖の役割を帯び、尚清が王位に就いた時期をとらえて、薩摩藩が送り込んだ隠密的な外交官ではなかったのか、と思う。
 金武の浜に上陸したと伝承される日秀上人は、金観音寺を創建し、布教活動を続け、近郷の村人たちに慈善を尽くしたようである。日秀上人の評判は、やがて琉球王府が知ることになり、首里に招致されたに違いない。この時、日秀上人の最初の目的は達成されたのである。
 日秀上人が携わった、波上宮、護国寺の再興は1544年とされているが、護国寺は、琉球国王代々の国家鎮護の祈願所である。このことから、琉球王府は、日秀上人を庇護し、宗教活動を側面から助成していたと考えられる。日秀上人は、地道な布教活動によって、琉球王府の信頼を得ていたのである。
 日秀上人は布教の目的をもって、かつ周到な準備のもとに琉球に渡って来たに違いない。薩摩に残された史料からは、波上宮、護国寺の再興がなった翌年の1545年(頃)には、薩摩に戻っている。日秀上人は、琉球に渡った目的が達成されたと判断したのだろう。琉球と薩摩の友好関係を結ぶことが、日秀上人の最終的な目的であったのかもしれない。
 ところが、ところが、日秀上人が琉球を去って、凡そ半世紀が過ぎた1609年に、薩摩軍が琉球に攻め入っている。琉球王府は和睦を求め、全面的な抵抗を試みてはいない。一方的な戦いに終わり、琉球王国は、この時から実質的に薩摩の属国としての歴史を歩むことになる。ここで、日秀上人の遺志は潰えたのである。・・・と、私は考える。(2018.3.21)
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伊芸の僧侶墓(いげいのそうりょばか)・補陀落渡海を実践した捨身行者かと・・・、妄想でした。

2018/03/25 11:03
 金武町(きんちょう)伊芸の集落に、僧侶が葬られた墓があると云うので訪ねることにした。金武町には16世紀の半ば、紀伊の国、那智から補陀落渡海を実践し、金武海岸に漂着した捨身行者、日秀上人が創建したと伝わる金武観音寺がある。そんな背景もあって、伊芸の僧侶墓には補陀落渡海に船出し、漂着した捨身行者が葬られているのではないか、と思ったからである。
 金武インターチェンジで高速バスを降り、歩き始めた。伊芸橋の東詰を山手に向かって入り、200mも歩くと道が二股に分かれ、その向こうに高台があって、手すりの付いた石段が見えてくる。・・・と、書いてしまえば簡単だが、この場所を探し当てるまでに、2時間近くも、集落の中を行き来していた。ろくに調べもせず、伊芸の集落に僧侶墓があるらしい、と云うだけで訪ねて来たのが間違いだった。
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 ノロ家の敷地内にある拝所で、拝みをされている二人組の老婦人に挨拶をして、僧侶墓の場所を伺ったが、分からないと云う。近くの「さくまつこうえん」をぐるりと一回りしたが、それらしき拝所は見当たらない。行ったり来たりを繰り返している私を見て、田植え中の婦人が声をかけてくれたが、やはり、僧侶墓は分からないと云う。
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 ついには諦めて、集落の中ほどにある「がじまる公園」で休憩することにした。金武町指定文化財で、推定樹齢300年と云うガシュマルの巨木があった。奥の方に自販機があったので、スポーツドリンクを買い求め、引き返す途中に目に付いたのが、伊芸エリアマップの掲示板である。風雨にさらされて消えかかっているが、かろうじて、「坊主森・山里和尚の墓」と書かれた文字が読めた。あぁ、そうなのか、僧侶墓ではなくて、「山里和尚の墓」、と尋ねるべきだったのだ。先ほど、道路工事中で、重機に行く手を阻まれ、引き返した先の高台にあることが分かった。
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 吹き抜けになった拝殿の向こうに、二基の墓碑が建っている。頂部が丸みを帯びた坊主墓である。無縫塔(むほうとう)と呼ぶそうで、これまでに見た坊主墓は、全体が卵型になっていた。左側に建っている石碑の上部中央に、梵字で「ア」の文字が彫られ、その下に「大清康熙五十九年 権大僧都法印頼宥□□ 庚子十月二十二日去」、と記されているのが読める。康熙五十九年は、中国清時代の年号で1720年に当たる。この年に、頼宥(らいゆう)和尚は入滅している。
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 梵字の「ア」だが、漢字の天に似て、右側に縦棒が入る。刻まれた文字が、梵字だろうと気付いたのは、那覇に帰る途中のバスの中である。もう、いつの事だったか忘れてしまったが、知人の法事に参加して、墓碑に刻まれた梵字の意味を住職に伺ったら、「アは、万物の本源を表す言葉です。」と、教えられた。私には理解不能である。そういえば、狛犬も沖縄のシーサーも、口を拓いた「阿(あ)」と、口を閉じた「吽(うん)」で一対になっている。「ア」が万物の根源で、「ウン」が一切の帰着を表す、と解釈するらしい。

 伊芸では、頼宥のことを山里和尚と呼んでいることが分かった。その昔、いつの頃か伊芸村にやって来た修行僧が、布教のかたわら農業を振興し、村落の開発に貢献したので、住民からの徳望を一身に集めたと伝承されている。山里家の娘を娶ったのか、子孫は伊芸集落の山里家だと云う。山里家には、明治に至るまで経文や僧衣、仏具が保存されていたそうだが、ユタ(巫女・霊媒者)の誣言によって、ことごとく焼き払われたと云う。
 インドの南端にあって、観音菩薩が降臨したと伝わる聖地、補陀落を目指して船出することを補陀落渡海と云い、密閉された船に閉じこもり、捨身の航海に出る。眞に究極の修行である。那智の浜、あるいは足摺岬の突端から船出し、黒潮の逆流に乗って南海の彼方を目指すのである。難破し、海の水雲と消えてしまうが、潮流に乘って、薩摩や琉球の海岸に漂着することがあっても、不思議では無かろう。
 琉球に漂着した補陀落渡海僧の伝承は、これまで知り得た知識では2例ある。一人は、仏教を始めて琉球に伝えたと伝わる禅鑑和尚で、13世紀の後半に、今の浦添城の北側に「極楽寺」を創建したと伝承されている。もう一人は、冒頭に書いた日秀上人で、琉球に真言密教と観音信仰、熊野信仰を伝えた僧で、琉球王府の施政にも影響を及ぼした人物である。
 残された記録によると、補陀落渡海を実行した僧は、40人ほど居たそうである。その内、那智の浜からは、平安時代の前期から、江戸時代の中期に至る850年余の間に、25人が補陀落を目指して船出したそうだ。
 伊芸の僧侶墓には、金武の浜辺に漂着した補陀落渡海僧が葬られているのでは、と思ったが、山里和尚こと、頼宥と紐付けする伝承は見当たらない。一説によると、頼宥和尚は、那覇港に在った臨海寺の住職で、任期を終えた後、伊芸の集落に移り住み、この地で妻帯し布教活動を行っていたと伝わっている。臨海寺は、那覇市曙に移り、現存している寺院だが、歴代住持の中に頼宥の名があるものの、伊芸の山里和尚とは結びつかないのである。
 それにしても、よく歩いたなぁ〜、この日の歩行距離、なんと18.2q、28,003歩。(2018.3.14)
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護佐丸(ごさまる)祖先の墓・道標が次々と現れ、道筋に不安なく訪ねることが出来た。

2018/03/19 10:20
 那覇から120系統のバスで、凡そ1時間15分、恩名村の山田バス停で下車した。通りを隔てた向かい側に、山田グスクへの道標が建っていた。58号線の信号を渡った所にも、「歴史の道」、「山田グスク・護佐丸父祖の墓」と記した道標が建っている。
 国道から山手に向かって100mも歩くと、また標識が現れる。道標に従って坂道を上り、突き当たった所にも標識があって、右折した先にも標識があり、その先に石段が現れる。そこから、急な山道を50mも上ると、護佐丸父祖の墓に行き着く。次々と標識があらわれ、道筋に不安を覚えることもなく、辿り着くことが出来た。恩名村教育委員会さんの、歴史を継承しようとする熱意が伝わってくる。感謝。
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  琉球戦国の武将、護佐丸の先祖墓は、山田城跡の中腹にあって、琉球石灰岩の岩穴に造られた横穴墓である。湿気を帯びた岩肌から湧き水が垂れ、古色蒼然とした雰囲気が伝わってくる。墳墓には、山田城を築いた護佐丸の曽祖父、祖父と父である三代の山田按司が葬られているようである。右側に、人一人が潜れる岩穴があって、一段下がった、その向こうにも墳墓がある。「をじゃなら(うなざら・妃)」墓のようで、護佐丸の祖母だと云う真加戸金(まかとかね)が祀られているのかもしれない。
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 墓誌が建てられているが、風雨に消されて全く読めない。墳墓の手前、坂道の途中に縁起を書いた説明板があって、墓誌の文章が記されていた。『往昔吾祖中城按司護佐丸盛春ハ元山田ノ城主ニ居給フ其後読谷山ノ城築構ヒ居住アルニヨリテ此ノ洞ニ墓所ヲ定メ内ハ屋形作リテ一族葬セルニ然処ニ幾年ノ春秋ヲ送リシカバ築石造材悉破壊ニ及ビ青苔ノミ墓ノロヲ閉セリ爰ニオヰテ康煕五十三年墓門修復石厨殿ニ造替シ遺骨ヲ奉納セリサテ永代子々孫々ニモ忘レズ祀ノ絶サランコトヲ思ヒ毎歳秋ノ彼岸ニ供物ヲササケマツル例トナリヌ仍エ石碑建立之也 大清乾隆五年庚申十月吉日 裔孫豊見城親雲上盛幸』と、ある。
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 墓誌が建立されたのは、清の元号で乾隆五年とあるから、1740年のことである。縁起の前文に、碑の建立が1750年とあったが、これは誤りだろう。この碑を建てたのは豊見城親雲上盛幸(とみぐすくべーちんもりゆき)で、護佐丸から数えて11世に当たる子孫である。文中にある康煕五十三年は1714年で、墓誌を建立した26年前のことで、「築石造材悉破壊ニ及」んだので、修復したとある。
 豊見城親雲上盛幸は、吾が祖先の護佐丸は、山田の城主であったが、その後、読谷山に城を構えたので、この洞を墓所として定め、中は屋形作りで一族を葬った、と説明している。「読谷山ノ城築構ヒ居住アルニ」、とあるのは、座喜味城の完成に伴い移住した、と解釈して良いだろう。
 初代の山田城主は、先達て訪ねた、「屋良後大川按司と一族の墓」に揚げられていた系図を見ると、怕尼芝(はにじ)に滅ぼされた仲昔今帰仁按司、第五代目の孫に当たる人物で、隣接する伊波の城主、初代伊波按司の兄である。伝承によると、初代山田按司は継子に恵まれず、初代伊波按司の息子、甥を婿養子に迎え、跡を継がせたと云う。護佐丸の祖父にあたることから、四代目の山田城主が、護佐丸と云うことになる。
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 もう一つの説によると、初代伊波按司の次男(又は9男)が、独立して山田城を築いたとも言われている。となると、護佐丸は三代目の山田城主と云うことになり、墳墓に祀られている人物は、曽祖父を含めた三代なのか、祖父と父の二代が祀られているのか、拘り屋の私にとっては、すっきりしない。恩名村の教育委員会が整備した標識には、「護佐丸父祖の墓」と記されているので、父祖二代の墳墓を指し、護佐丸は三代目山田城主の説を採っているように思える。
 1416年、尚巴志の率いる連合軍によって、今帰仁の後北山王で、怕尼芝の孫に当たる攀安知(はんあんち)が滅ぼされたが、この時、護佐丸は山田城主として連合軍に参加して、功績をあげている。これが、護佐丸が先祖の仇を討ったと云われる由縁である。
 ここを訪ねる途中から、気になっていたのが、「国頭方西海道」と書かれた標識である。琉球王府は各地の間切(まぎり・今の市町村)を結ぶ道を整備していた。三山を統一した尚巴志の時代から手掛けられたと云う宿道(しゅくみち)で、沖縄本島の中部、北部、南部を東西のルートに分けで結んでいた。一定の距離ごとに宿駅(宿場)を設け、王府からの文書を、各間切(行政区画・今で云う市町村)に、速やかに伝達するシステムが機能していたと云う。その宿道の一つが、国頭方西海道(くにがみほうせいかいどう)で、概ね、今の58号線に沿って続いている。
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 緑に覆われた古道は、石畳で舗装されていたり、土砂が流され、ごつごつとした石灰岩が剥き出しになっていたり、勾配も急で、変化に富んだ道筋が続いている。途中で渡った谷川に架かる石矼(いしばし)は、琉球石灰岩の野面積みで、桁部分がアーチ型に組まれた珍しい石橋である。僅かな時間だが、古琉球の雰囲気に浸って来た。急坂を下ったら、国道58号線に突き当たり、古道は、そこで途切れていた。(2018.3.7)

次々と現れた道標

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座喜味城跡(ざきみぐすくあと)覚書・城壁が美しい曲線を描いています。

2018/03/13 15:10
 1416年から1422年にかけて、戦国の武将、護佐丸が築いたとされる城である。2000年11月に、首里城跡、今帰仁城跡、中城城跡、勝連城跡、およびその他の文化遺産とともに、世界遺産に登録された。座喜味城の規模は小振りだが、切石積と相方積を組み合わせた城壁は、美しい曲線を描き、高度な設計技術を駆使して築き上げた城であることが分かる。
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                           リーフレットより

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 構造は、本丸と二の丸からなる二連郭式である。二の丸に通じる表門、二の丸から本丸に通じる本丸門、ともにアーチ型の石門で、沖縄の古城跡では、最も古いものだそうだ。城門には木製の扉が取り付けられていたようで、よく観ると、高い位置にクサビ石があって、鴨居を取り付ける穴が開いている。しかし、本丸門は先の大戦中に、日本軍が高射砲陣地を築いたことによって破壊され、後に復元されたものだと云う。城壁の一部も米軍の砲撃によって破壊されたそうだが、これも復元されている。
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                            表門

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                            本丸門

 二の丸は、独特な設計になっていて、西側に向かって狭くなった空間が続いている。城外に向かっているように思えるが、その先は北向きに折れ、下り坂になって城壁に突き当たり、行き止まりになる。防御のために工夫された空間のようで、表門を突破した敵兵を、本丸の城壁から攻撃して、逃げ惑う兵士を追い詰め、一網打尽にする袋小路である。ただ、幸いなことに敵兵が攻め入った記録は無いようだ。
 本丸跡の北側には、殿舎跡を示す礎石が保存されていた。発掘調査では、瓦が出土していないことから、屋根は板葺きか茅葺きの建物であったようだ。南側からも、城壁を造る以前の柱穴群が発見されたそうで、これらの建造物は、出土した遺物から、構築年代に、それほどの差はないと云う。本丸跡には、構築された時期は異なるが、二つの建物が存在していたことになる。
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 城壁に上ると、首里や那覇、東シナ海に浮かぶ慶良間諸島、久米島、そして本部半島から、伊江島、伊平屋諸島までが、霞んで見える。一段下に、二の丸を囲んで、幅広く造られた城壁が続いているが、危険なので進入禁止、「いっちぇ〜ならんど〜」の札が建っていた。
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 これまでに訪ねた中城城跡や勝連城跡、そのほか多くの城跡には、必ず守護神を祀る御嶽や、ガー(湧き水・井戸)の跡があった。奇妙なことに、座喜味城跡には、それらの拝所が全く見られない。城跡のある高台は、標高が127mで、読谷平地に突出した地形になっている。一帯は赤土台地(註:国頭マージ)だが、これまでに訪ねた城跡は、硬質な琉球石灰岩の台地上に建っていた。スポンジのように、水を蓄えた石灰岩台地とは異なり、赤土台地の土質では水を貯えることが出来ない。座喜味城は、居住空間に適さなかったようで、そんなことから、拝所跡が見られないのかもしれない。城塞ではなく、平和の訪れを象徴したグスクのように思えた。
 柔らかい土質の赤土台地に、堅牢な城壁を築くことは、当時の技術では不可能だと思われるが、護佐丸は、それを可能にしている。切石積と相方積の組み合わせや、曲線で繋いだ城壁、アーチ構造を取り入れた城門、これらは、地盤が弱いと云う欠陥を克服するために工夫されたものだと云う。護佐丸は、後に、中城城を築城することになるが、座喜味で培った技術を駆使したに違いない。後の世に、築城の天才護佐丸としても語り継がれている。
 護佐丸は、父祖以来、読谷山城を居城としていた。読谷山城は、読谷山村にあったが、読谷山間切(行政区画)と混同されやすいので、山田村に改称され、読谷山城も山田城と呼ばれるようになったという。座喜味城から直線距離にして4qほどの北東にある。
 1416年、尚巴志が率いる連合軍によって、今帰仁・北山王の攀安知(はんあんち)が滅ぼされたが、この時、護佐丸は山田城主として連合軍に参加している。護佐丸の祖先は、攀安知の祖父である怕尼芝(はにじ)によって滅ぼされ、北山を追われているので、先祖の仇を討ったことになる。
 護佐丸は、この時の功績によって、北山の監守を務め、今帰仁城に駐在するが、一方で座喜味城の造営に力を入れている。本来、山田城は、北山に対する中山の前進基地の役割を果たしていたようだが、北山が滅んだことにより、その役割は終わったのであろう。時代の変遷を敏感に読み取った護佐丸は、中山王の尚巴志に倣って、海外交易に力を注ぐようになる。良港を控え、農産物も豊富な読谷平地に目を付け、座喜味城を築く決断をしたのだろう。
 伝承だが、築城にあたって、山田城の石垣を壊し、座喜味城の石積みに利用したと云う。先にも書いたように、周辺には赤土台地が広がり、城壁を築くために必要な石材の調達が困難であったようだ。護佐丸は、今帰仁城に居住し、監守を務めていたので、山田城を解体することには差し支えなかったのだろう。
 また、当時、支配下にあった沖永良部島や与論島、奄美諸島から、多くの人夫を集めて来たと云う。かなり乱暴な手段を持って徴用したようで、護佐丸と云えば、乱暴者で、鬼みたいな人物の代名詞になっていたと云う。聞き分けのない子には、「護佐丸がチュンドー(来るぞ)」、と言って叱ったそうだ。後の世では、忠臣として評価の高い護佐丸だが、奄美諸島では怖れられた人物だったようである。
 築城に着手してから、凡そ6年の歳月を経て完成し、1422年、護佐丸は今帰仁から座喜味城に移っている。今帰仁監守の後任には、尚巴志の二男、尚忠が派遣された。
 護佐丸は、後に尚巴志の五男で、第一尚氏第6代の王、尚泰久の命により、1440年に中城城に移っているが、護佐丸にとっては、座喜味で暮らした18年間は、戦国の世が終わり、平和な環境が訪れた時代であったろう。この間、海外交易によって巨利を収めたようで、中城城を築城した際の資金に充てられたと考えられる。中城城に移った護佐丸は、その5年後に、勝連城の阿麻和利に滅ぼされた。この戦乱は護佐丸と阿麻和利の乱として後世に語り継がれている。
 1972年の本土復帰に伴って、国の史跡に指定され、翌年の10月から史跡整備事業が開始されている。遺構の発掘調査も行われ、出土遺物には、少量の須恵器、中国製陶磁器や古銭などがあり、その中でも、最も多かったのが中国製の青磁と陶器だそうで、15世紀から16世紀のものだと云う。このことから、座喜味城は、護佐丸が中城城に移ったあとも、貿易の拠点として使用されていたと考えられている。
 護佐丸が南方貿易に力を注いだ時代に、「読谷山花織」の技法が伝来したそうである。琉球王府時代には、王族士族階級のみに所有が許された高級織物だと云う。しかし、明治以降、その染色技法は次第に衰退し、沖縄戦後には技術を継承する人が全く居なくなったそうだ。幻の花織と云われた時代が続いたようだが、近年になって、関係者の努力により、読谷村の特産品としてよみがえっている。読谷村を歩いていると、足元に、その歴史を見ることが出来る。マンホールの蓋に、交易船と、読谷花織の図柄が描かれていた。
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 帰り際に振り返ったら、観光で訪れたらしい若い女性の二人組が、沖縄の民俗衣装で身を包み、城壁を背景に写真を撮っていた。本土に和装があるように、沖縄の伝統的な衣装に琉装がある。城壁の石積みには、琉装が映える。
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(2018.2.19)

(註)国頭マージとは、火山活動で噴出した溶岩が変成したもので、主に、沖縄本島北部に分布する地層である。対照的に、沖縄本島の南部には、サンゴ礁が隆起して形成された石灰岩の地層が分布している。
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喜名観音堂(きなかんのんどう)・ご本尊様は、プラスチックの容器に閉じ込められていた。

2018/03/09 10:58
 沖縄本島には、喜名、あるいは喜納 (きな)の地名が複数個所にある。焼畑を意味するそうで、古い時代、焼畑耕作によって拓かれた集落のようだ。読谷村喜名は、琉球王府が整備した宿道(しゅくみち)の重要な宿駅、宿場町として栄えた集落で、国道58号線沿いには、それらしく松並木が整備され、道の駅に喜名番所を模した建物が造られている。
 喜名番所から県道に入って100mも歩くと右手に公園があって、その奥の高台に観音堂がある。赤い屋根瓦のお堂が、緑と緋寒桜の間に浮かび上がってきた。折から、ご婦人二人連れの参拝者があって、拝み(うがみ)の準備をされていたので、お邪魔にならないように、少し離れた場所から祭壇を伺い、手を合わせた。
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  観音様が祀られているはずだが、御影が見えない。祭壇の中央に、透明でプラスチックの容器が固定され、その中にピンクの花びらが散りばめられ、なんとなく千手観音像と思われる御姿が見える。観音像は、これまでに何度も盗難に遭っているそうで、厳重に保管されているようだ。
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 縁起に、喜名観音堂は、1841年の旧暦9月18日に、金武の観音寺から勧請したものです、と書いてある。それまで、村人たちは無病息災や子孫繁栄祈願のために、遠く離れた金武観音寺(きんかんのんじ)まで出向いていたが、不便なので、千手観音を勧請し、観音堂を建立したと云う。
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 金武観音寺は、16世紀の半ば頃、紀伊の国、那智から補陀落(ふだらく)渡海を試み、沖縄の金武(きん)海岸に漂着した捨身行者、日秀上人により創建されたと伝承されている。日秀は、自ら熊野権現の化身仏(本地仏)、阿弥陀如来、薬師如来、聖観音菩薩の像を彫って安置したそうだ。因みに、補陀落とは、インドの南端にあって、観音菩薩が降臨したと伝わる聖地だそうだ。
 日秀上人は、琉球に真言密教と観音信仰、熊野信仰を伝えた僧で、琉球王府の施政にも影響を及ぼした人物である。沖縄各地には、日秀上人に由来する伝承が伝わっているが、史実と伝承がないまぜに語り継がれ、まるで、本土で語り継がれる弘法大師様のようである。
 観音堂の西側に、土帝君(とぅーてぃくー)の祠があった。土帝君は、沖縄各地に祀られているが、本土では見かけることは無い。中国から伝わった「土地公」のことで、現世で行いの優れた人物が、その死後に神として祀られている。その土地々々に根付いた神様で、農業神として祀られることが多いようだ。祠には、人物像が祀られているのが普通だが、喜名の土帝君は、先の沖縄戦で破壊されたと云い、台座らしき、石の塊だけが残されていた。
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(2018.2.13)
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尚巴志王の墓(しょうはしおうのはか)・隠し墓のようだ。人里離れた谷間に密かに祀られていた。

2018/03/06 13:47
 尚巴志(1372〜1439年)は、琉球で最初の統一王朝を樹立した国王である。墳墓は、読谷村の伊良皆集落にあり、前々から、是非に訪ねたいと思っていた。事前に情報を集め、地図で場所を確認したら、米軍施設の嘉手納弾薬庫地区に指定された中にある。それでも、民間人が入って行っても差し支えのない場所のようだ。
 国道58号線、伊良皆交差点に架かる歩道橋の北、50mも行った先に基地に向かって続く道がある。入口に英語と日本語で、「警告。4WD運転者、並びにバイク運転者へ。この地域は、娯楽行為は許可されていません。今日限り辞めてください。第18航空団・日本防衛省・読谷村・地主会伊良皆支部」と書いた看板が揚がっていた。サーキット族が集まってくる場所のようである。
 100m程も歩いたら、道が二又に分かれていて、ガイドブックに従って、左側に続く砂利道に入っていった。右手に、カー(湧き水、井戸)や、拝所の入り口を示す標識が、次々に現れるので、尚巴志の墓へも、難なく行きつけるだろうと考えたが、これが甘かった。
 随分、歩いたような気がする。行けども歩けども、尚巴志の墓を示す標識に出会わない。とうとう、道は「上ヌカー」に突き当って、行き止まりになってしまった。その先には、琉球石灰岩が突出した険しい山道が続いている。尚巴志の墓は、もっと先にあるのかもしれないと、望をかけて登って行ったが、民間の墓場が現れたので、諦めて引き返すことにした。
 足取り重く、上ヌカーから50mくらい戻ったところで、ひょいと山際を見たら、古い石碑が建っていた。覆いかぶさっている樹木を払ったら、なんと、「尚巴志王之墓」と彫られているではないか。来る途中、反対側ばかりを注視していたので、見落としてしまったのである。
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 落ち葉に覆われた山道に入って30mも進んだら、右手に「第一尚氏王統、第二代尚巴志王、第三代尚忠王、第四代尚志達王、陵墓」と刻まれた墓碑が建っていた。一段と高くなった所に、三代の王が祀られた墳墓がある。一度は、諦めかけた墳墓を探し当て、興奮の面持ちのまま黙祷した。
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 岩壁の洞窟をコンクリートブロック手塞いで、頑丈に造られた墳墓である。入り口はコンクリートで塗り固められているが、そこにも尚巴志王、尚忠王、尚志達王の名が書かれていた。墓前には、まだ新鮮なチャーギ(イヌマキ)が生けられている。伊良皆集落の、縁ある人々がお参りしているのだろう。それにしても、琉球を最初に統一した国王が祀られているには、あまりにも質素な墳墓だと思った。人里離れた山間に、ひっそりと祀られている。まるで、隠し墓のようだ。
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 拝みを終えて、山道から砂利道に出てしばらく歩いたら、向こうから車が徐行しながらやって来た。年配の男性が助手席から顔を出して、「尚巴志の墓を、ご存知ですか?」と、声をかけて来た。やっと捜し当て、先ほど詣でて来たばかりの私が、その場所を丁寧に説明している。あたかも、熟知していたかのように振舞っている自分が、可笑しかった。
 第一尚氏王統の初代国王は、尚巴志の父、尚思紹で、即位したのが1406年である。1469年、七代に亘って続いた王統は、臣下であった金丸、後の第二尚氏尚円王のクーデターにより、途切れている。
もともと、初代尚思紹から、第六代尚泰久の墓は、首里池端町の天山陵にあったと云う。クーデターによる騒乱のさなか、第一尚氏各王の旧臣、親族、子孫たちは、天山陵の破壊を恐れ、それぞれに遺骨を持ち出し、首里から遠く離れた地に葬ったとされている。
 初代尚思紹王の墓は、「佐敷ようどれ」と呼ばれ、航空自衛隊知念分屯基地の中にある。検問所で住所氏名を記帳し、身分を証明するものを提示して、入場が許可される。2015年11月、迷彩服を着た隊員さん監視の下で詣でている。
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 今回は、第二代尚巴志、第三代尚忠、第四代尚志達の墓を訪ねたが、何故こんなところに、と疑問を抱くほど、首里から遠く人里離れた山中にある。遺族たちは、首里王府の目が届かない場所を選び、この山間に辿り着いたのだろうか。
 第五代尚金福の墓は、何処にあるのか分かっていないが、浦添市の米軍施設・キャンプキンザーの中にあるらしい。遥拝所が浦添市城間の同人病院近くで、民家の庭先にあると云うので訪ねてみた。路地を行ったり来たりを繰り返したが、訪ね当てることが出来ず、城間公民館に立ち寄って伺ったら、那覇市仲井間小学校の近くに遷されたらしい、と云う応えが返ってきた。
 第六代尚泰久の墓は、南城市役所からほど近い、冨里集落にあって、2016年の5月に訪ねている。近年に子孫の方が改修されたようで、綺麗に整備されていた。もとは、うるま市の曙集落の崖下にあって、首里の天山陵から、密かに移葬されたと伝わっている。尚泰久の墓であることを隠すために、「クンチャー墓(乞食墓)」と呼ばれていたそうだ。時代が下がって、1908年(明治41年)に、第一尚氏に所縁のある子孫によって、今の地へ遷移されたと云う。
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 第七代尚徳王の陵蹟は、那覇市内の識名トンネルの上、マンションが立ち並ぶバス通り脇にある。他の各王の陵墓は、首里を遠く離れた地に、隠し墓のようにして祀られているのに、なぜ、尚徳は首里城と指呼の間にあり、識名の高台に葬られたのだろうか。尚徳王は、臣下により暗殺されたとの説もあるが、29歳で死去し、後継ぎを巡る争いから、金丸(第二尚氏初代尚円王)によるクーデターが発生して、ここで、第一尚氏王統は終わっている。
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 尚金福の陵墓が分からないのが心残りだが、これで第一尚氏王統、各王の陵墓を訪ねることが出来た。ところが、意外と知られていないようだが、第一尚氏歴代の王を、一堂に祀った神社、「月代宮(つきしろのみや)」が、南城市佐敷の佐敷城跡にある。
 佐敷城は、第一尚氏王統、初代の王尚思紹が築いたと云われ、尚巴志親子の居城であった。尚巴志は、佐敷の一角から興って、三山(今帰仁の北山、浦添、後に首里の中山、糸満の南山)統一の偉業を成し遂げたのである。
 国道331号線沿いに、佐敷小学校があり、その東側に大きな鳥居があって、「月代宮」と彫られた扁額が揚がっている。鳥居を抜けて、道なりに登って行くと、左側に広場があって、月代宮と彫られた石柱があり、石段を上った所に拝殿があり、その奥に本殿がある。
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 本殿は小さな祠だが、琉球第一尚氏王統(1406年〜1469)の初代尚思紹の父、佐銘川大主(さめかわうふぬし)に始まり、尚思紹、尚巴志から第一尚氏7代に亘る王が、神として祀られている。ただ、建立された歴史は浅く、第一尚氏に繋がる子孫、縁者によって、昭和13年(1936)に建立されたものだと云う。
 第二尚氏、歴代の王が祀られている陵墓、「玉陵(たまうどぅん)」が首里にあり、国指定重要文化財で、世界遺産の一つにもなっている。今にある大部分は、先の大戦後に復元されたものだと云うが、石塀に囲まれ、あたかも第二尚氏の権勢を誇るかのような、壮大な石造建造物である。
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 第二尚氏の陵墓と比較すべきもないが、第一尚氏、歴代王の遺骨は、首里の天山陵から持ち出され、それぞれに、旧臣、遺族、親族の手に渡り、首里を遠く離れた草深い山里に、ひっそりと葬られ、実に質素な陵墓である。
 第一尚氏は、琉球統一王朝を樹立し、海外交易ルートを拓き、琉球王国に莫大な富をもたらした王統である。様々な歴史的背景があって、今の状況があるのは分かるが、それにしても、尚巴志の墓は、ちょっと寂しすぎるんじゃないかなぁ〜、と思った。それと、第一尚氏歴代の王が祀られている月代宮は、建立の歴史が浅いけど、南城市さんは、もっとアピールしても良いのではなかろうか。まっ、物好き老人のたわ言ですが。(2018.2.13)
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赤犬子宮(あかぬくぐう)・沖縄の三線音楽の始祖として伝承される人物、赤犬子が祀られている。

2018/03/02 15:05
 読谷村、県道6号線の歩道脇に、入口を示す石碑が建っていて、歌が刻まれている。風雨に汚されて読みづらいが、赤犬子宮とあって、「歌と三味線のむかしはじま里や犬子祢阿がれ乃かみの美作」とあり、「歌と三味線の昔始まりや犬子ねあがりの神のみ作」と読める。赤犬子(あかぬく・あかぬくー・あかいんこ)は、簡単に言ってしまえば、オモロの歌唱者であって、琉球音楽の世界では、歌と三線の始祖として信仰されている人物である。読谷村楚辺集落の生まれだと云い、角川日本地名大辞典には、小字で赤犬子原(あかいんこばる)の名が見える。
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 オモロとは、沖縄や奄美に伝えられてきた琉球の古謡で、語源は「思い」の動詞形、「思う」から来ているそうだ。本来は、神の前でノロ(神女)が唱えた祝詞で、抒情的な叙事詩であり、琉球王府が編纂(1531年〜1623)した「おもろそうし」全22巻に採録され、今に伝えられている。
 拝殿は、コンクリートで丁寧な造りになっていて、佇まいが、どこか中国風である。壁に施された図柄も花や鳥であって、派手々々しさはないが、台湾の廟を連想させる。石の扉には三線の図柄が彫られており、錠が掛けられ、隙間から覗いたら、祭壇には四個の石が祀られていた。
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 鳥居の脇に縁起が記されていた。その一部を抜粋すると、「赤犬子は、今から凡そ500年前、尚真王(在位:1477年〜1527)の時代に活躍した人物で、王府編纂の『おもろそうし』には、偉業を讃える歌が40余首も記述されており、おもろ歌・音楽に卓越した吟遊詩人であったことが伺い知れる。」とある。
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 また、「楚辺集落の古老伝承よれば、大屋のカマーと屋嘉のチラーとの子で、長じては三線を携えて各地を巡り歩き、唄・三線を広めるとともに、先々の事を予言したとも云う。」とあり、放浪詩人で、預言者(沖縄ではユタと云う)であったことが伺われる。
 さらに、「唐から楚辺村に五穀(稲・麦・粟・豆・黍)を持ちかえった偉大なる人物と伝えられている。」と、あるが、赤犬子が活躍したとされる15世紀後半から、16世紀初頭までの時代と、五穀を持ち帰ったとある、唐の時代(7世紀初頭から、10世紀初頭)とは、数世紀の隔たりがあり、整合性が取れない。まっ、伝承なんだから、拘るのはよそう。
 続いて、赤犬子宮の地は、晩年を迎えた赤犬子が、「生まれじま、禰覇むら(現楚辺集落の一部)に辿り着き、杖、ダンチク(筮竹のことか?)を岩山に立て、聖なる光に導かれて昇天した聖地と言われています。」とあり、鳥居の左側には、「赤犬子終焉の地」と彫られた石碑が建っている。
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 沖縄学の父として知られる伊波普猷は、その著、『琉球音楽者の鼻祖・アカインコ』の冒頭で、「音楽は人類共通の言語であるとの言もあれば、琉球の音楽が琉球語を解せない人の心耳にも感通するということは、疑うべからざる事実である。実に聴いていてうんざりするような琉球の音楽は、琉球数百年の悲哀なる歴史を物語っているような気がする。私は之を辛抱して聴いていることの出来ない人には、琉球民族の心理はとても解せないと思う。」と、述べている。私にとっては、実に辛辣な言葉である。行きつけの床屋の主人は、琉球民謡の愛好家で、私が、頭を刈り、髭を剃ってもらう間、ずっと琉球民謡のBGMを流している。私は、それを聴きながら眠ってしまい、主人は、「琉球民謡のメロデーは、眠気を誘いますからね。」と、笑う。
 先の縁起に説明されていたが、「おもろそうし」に、赤犬子の偉業を讃える歌が40首余りあると云うので調べて見た。その第8巻、「首里天ぎやすへあんじおそいがなし、おもろねやがり・あかいんこがおもろ御双紙」に、神歌が83首収められていて、前半の43首が、「おもろ音揚(ねや)がり」の宣する歌であり、後半の40首は、阿嘉、阿嘉の子、阿嘉犬子の宣する歌になっている。因みに、「おもろ音揚がり」とは、「おもろ吟遊詩人」と訳すと分かり易い。
 縁起にある「赤犬子の偉業を讃える歌が40余首も記述されており、」の文言からすると、前半の「おもろ音揚(ねや)がり」が、赤犬子のことかもしれない。後半に収められている40首は、「阿嘉、阿嘉の子、阿嘉犬子」で、同一人物のようであり、赤犬子とは別人と思える。
 しかし、伊波普猷は、「おもろ音揚(ねや)がり」と、「阿嘉、阿嘉の子、阿嘉犬子」は同一人であると断定している。その検証過程を、「あまみや考」、「アカインコ考」、「アカインコ考−続考−」の中で詳しく述べているが、とても高度な研究論文なので、私には読解する能力はない。さらには、阿嘉犬子は、放浪詩人ではなく、第二尚氏・尚真王時代の宮廷詩人で、米次の領主 (こめす・今の、糸満市米須)であったと考察している。按司としての功績から、「米次世の主」と呼ばれ、「按司の又の按司」と称えられた人物だったと云う。
 伊波普猷の考証によると、按司の又の按司と称えられた阿嘉犬子(アカインコ)は、馬に跨って、大名行列さながらに、国中を巡り歩き、到る所でオモロを懇望された詩人按司(ゑいとてだ)であったと云う。一方、土木建築にも堪能で、水脈を発見する知識にも長けていたと云い、オモロ歌謡からも裏付けることが出来るそうだ。
 私には、犬子宮に祀られている赤犬子と、伊波普猷の論述にあるアカインコは、全く別人に思えるのだが、伊波普猷の考察では、そのあたりには触れていない。論文は、難解な文章が続くので、私が見落としているのかもしれない。いずれにしても、この時代には、複数のオモロ歌唱者が村々を訪ね、三線の音にのせてオモロを謡い聴かせていたに違いない。吟遊詩人には、ユタと呼ばれる預言者も居ただろう。

 赤犬子宮の参道を出ると、バス通りを隔てた斜め向かい側に、二連の大きな朱塗りの鳥居が建っていた。米軍基地、トリイステーションのゲートを示す目印である。なぜ、基地の名が「トリイ」で、入り口に鳥居を建てたのか、その経緯が分からない。
 楚辺集落の歴史は古く、禰覇之御嶽や楚辺ノロ火ぬ神、楚辺之殿など、楚辺七御嶽と呼ばれる多くの拝所があったそうだ。基地の中に収容されてしまい、基地外に在るのは、赤犬子宮だけだと云う。それに、沖縄大戦では楚辺の海岸に米軍が上陸し、多くの住民が犠牲になっている。朱塗りの鳥居は、基地に収容されてしまった拝所への遙拝場所(御通し・うとぅし)なのか、それとも犠牲になった多くの人々への鎮魂のために建てなのか。どっちにしても、安易に思えてならない。
 本来、神の住む領域と、俗界を区画 (結界)するための神聖な建造物が鳥居である。私には、基地の入り口に建っていることが驚きであり、相応しくないと思えた。神の住む領域でもない米軍基地と、民間の居住区との境界に鳥居を建てるなんて、何と云う了見なんだろう、と考えたら、だんだんと、臍が曲がって来た。
 と、思いつつも、目立つ場所だし、もの珍しさもあって、写真に収めていたら、守衛所から米兵が飛び出してきた。大きなゼスチャーで、撮影は禁止だと云う。その途端、怒りが込み上げて来た。鳥居の何たるかを教えてやろうかっ、と思ったが、私には英語が喋れない。
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(2018.2.13)
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