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沖縄拝所巡礼・ときどき寄り道
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 縁あって東京から沖縄・那覇へ移住した。ついに我が人生、第4コーナーを回ってしまった。正面にゴールが見える位置だけど、これまで、がむしゃらに歩き続けてきたので、これからはペースを落として、のんびり、ゆっくりとゴールに向かって歩くことにする。
 少しでも好奇心が残っているうちに、琉球王朝の歴史に想いを馳せながら、沖縄拝所の巡礼を続けたいと思う。
 ナイチャー(内地の人)の感性で、良き沖縄の日常をヤマトンチュウ(大和の人)に向けて発信して行きたいと考えている。
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徳武佐宮(とぅくぶさぐう)・鳥居の上に数個の小石が載っていた。子宝祈願の神社だそうです。

2018/02/24 14:48
 沖縄語の三母音法則に従うと、徳の「と」は「つ」になるが、実際に発音するときには、トでもなく、ツでもなく、トゥと発音する。
 読谷村、国道58号線の伊良皆交差点から県道16号線に入り、1qも歩くと、58号バイパスとの交差点がある。信号を渡って左折し、直ぐに右側に続く脇道に入って行ったら、徳武佐宮の裏手高台に出た。石段を降りると直接本殿の前に出てしまったので、一旦、広場に降りて、改めて鳥居を潜り、本殿に詣でた。辺りは落ち葉の一つもなく、綺麗に掃き清められていた。
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 徳武佐宮は、生まれた子の健康と、成長を祈願する拝所だと云う。祠は、背後の岩盤に直接くっついていて、屋根も柱も壁も、すべて御影石で造られていた。拝殿は金属製の格子戸で閉じられているが、隙間から覗いたら、背面は、ごつごつした岩肌が剥きだしになっていた。祭壇には数個の石が順序良く並べられ、子宝祈願の霊石のようである。そういえば、鳥居の上にも数個の小石が載っていたが、小石を投げ上げて、子授けの祈願をする風習があるようだ。
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 祠の左手に、樹木に囲まれて「徳武佐碑」が建っていて、縁起が記されている。「今から六百年前、三山戦国の時代中今帰仁按司戦に追れ此処に身を遁る。其の後当地方で過ごし帰城す。古来徳武佐御宮と稱し崇拝す。毎年旧九月一三日参拝。」とあるが、神様の名前がない。
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 縁起は、すこぶる簡潔に述べられているが、中今帰仁按司とは、臣下であった本部大主の謀反にあい、今帰仁を逃れた丘春按司のことだろう。さらに、「当地方で過ごし帰城す」とあるのは、雌伏18年、旧臣を集めて今帰仁城を奪い返し、中今帰仁第四代の王に就いたことを指している。北谷から嘉手納、読谷に及ぶ広い地域に、丘春按司の伝承があることに驚いている。
 想像するに、徳武佐の武佐(むさ)は、武者(むしゃ)のことではあるまいか。600年前、戦国の世に今帰仁を追われた一族が、この地に隠れ住んだのだろう。武者たちは、現地に溶け込み、住み着き、徳のある武者として尊崇された人物が、徳武佐宮に祀られたのかもしれない。まっ、例によって私の妄想なので、信用しないで欲しい。
 石碑に、毎年旧九月一三日参拝、と記されているが、旧暦9月13日には、集落の人々が集って、今年一年間の無病息災に感謝し、向こう一年間の健康と豊作を祈願すると云う。また、あわせて、今年生まれた子供の健康と成長を祈願するそうだ。私は、仁徳を積んだ武者が祀られていると信じ、頭を垂れ、手を合わせて来た。(2018.2.13)
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大湾按司之墓(おおわんあじのはか)・伝承だが初代大湾按司は仲昔今帰仁城主丘春の孫だと云う。

2018/02/21 10:09
 国道58号線を嘉手納町から北に向かって歩くと、読谷村との境界を流れる比謝川を渡る。直ぐに又、比謝川の支流になる長田川を渡ると、右手に緑に覆われた森がある。「ウフグスク」と呼ばれる丘で、ここに大湾按司の墓がある。森を過ぎると右に入って行く道があり、直ぐの右手高台に祠がある。注意して歩いていると、58号線の歩道からでも、祠の屋根が見えてくる。
 ブロック塀に囲まれた敷地の中に、コンクリート造りの祠が建っている。祠は、入り口から90度横向きで、西の方角を向いて建っていたが、これには、何か意味するものがあるのだろうか。正面は、透かしブロックで塞がれ、中は暗くて、ご神体は見えない。ファインダー越しに覗いたら、三基の厨子甕が納められていた。しばし、黙祷。
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 祠の脇に建てられた墓碑には、「御先 大湾按司之墓」と彫られていた。御先(うさち)とあることから、大湾按司の初代を指しているのだろうと思う。先日訪ねた、仲昔今帰仁城主丘春之墓の傍にも、何代目かの大湾按司の墓があった。初代の大湾按司は、中北山時代の今帰仁城主、五代目の子であると伝承されている。と云うことは、祖父は今帰仁按司丘春である。後の今帰仁城主、怕尼芝(はにじ・?〜1390年?)に追われ、逃げ延びて来た今帰仁按司丘春の孫が、大湾の領主として、一帯の支配者に成長したのだろう。
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 もう一つの説がある。怕尼芝(はにじ)に滅ぼされ、それまで支配していた一族は散り散りになって生き延びたが、その中の一人が伊波の地に逃れて伊波城を築き、その伊波按司の三男が大湾の地に築いたのが、大湾城であると云う伝承である。
 祠の脇に続く道を上って行ったら、「ウフグシク」と彫られた石碑があって、香炉が一基置かれていた。ウフグスクをそのまま読むと、「大きな城」と云うことになるが、ウフは大湾のことを指しているのかもしれない。この場所に大湾グスクがあったことを、伝えるための標石だろう。
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 来る途中、比謝橋を渡った袂に歌碑が建っていて、気になっていたので見に行って来た。「古屋チルー歌碑」とあって、『恨む比謝橋や情けないぬ人のわぬ渡さともてかけておきやら』と、彫られている。「恨めしい比謝橋は情けのない人が私を渡そうと思ってかけたのでしょうか」と、云う意味だそうだ。この歌は、古屋チルー(1650〜1668)が、8歳にして那覇仲島の遊郭に身売りされる時に詠んだとされ、身売りと云う不条理を背負い、やり場のない、絶望的な悲しみが伝わってくる。チルーが詠んだと伝わる歌が、20予首残されているそうだ。
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(2018.2.13)
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野國總管宮(のぐにそうかんぐう)・嘉手納は基地の町だけではない。甘藷の発祥地である。

2018/02/18 14:20
 神社には、食糧難で苦しんでいた琉球の人々を救った恩人、野國總管が祀られている。嘉手納小学校の向こうに社が見えるのだが、入って行く道が分からない。街中を迂回して嘉手納中学校に突き当ったら、校庭沿いに整備された遊歩道があって、鳥居の下に出ることが出来た。
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 沖縄は昔から台風や旱魃で苦しんできた土地である。農作物への被害が度重なり、慢性的な食料難に喘いでいた。そんな琉球の食糧事情を救ったのが、野國總管(?〜1615年?)である。中国・明への進貢船に事務方の責任者として乗り込んでいた野国總管は、1605年に当時「蕃薯(はんす)」と呼ばれていた甘藷の栽培方法を学び、その苗を持ち帰ってきた。そして、彼の郷里、現在の嘉手納町、当時の北谷間切野国村の村人に栽培法を伝えたのである。何しろ、甘藷は災害に強く収穫量が多いうえ美味しい。瞬く間に、村民の食糧難を救う貴重な食物になった。 
 「總管」とは役職名で、進貢船の運航事務方責任者を指すので、野國村の總管、つまり野國総官の名前で後世に伝えられている。本名を調べてみたが、諸説あるけど、結局は分からなかった。 
 この、野國村の甘藷の情報を聞きつけた琉球王府の役人、儀間真常(1557年〜1644年)が苗を貰い受け、琉球全土に普及させ、飢えに苦しむ琉球の人々を救ったと云う。甘藷は、後にウィリアム・アダムス(三浦按針)の手によって長崎の平戸へ、前田利左衛門(薩摩国の人物)によって薩摩へ伝わり、そして青木昆陽の手によって関東の地にまで広められていった。青木昆陽(1698〜1769年)は、江戸中期の儒学、蘭学者で、甘藷の栽培を勧めた「蕃藷考」を著し、巷間では甘藷先生と呼ばれている。
 このブログのどこかに書いているが、私が幼少年期を過ごした山陰の石見地方では、年寄りたちが薩摩芋の事を「琉球芋」と呼んでいた。琉球から長崎・平戸を経て伝来した食糧であったことが分かる。琉球からの交易船が長崎を経由して、山陰、北陸地方にまでやって来た証だろうと思う。
 那覇市の奥武山公園にある世持神社にも、野國總管が祀られている。世持は沖縄では「ユームチ」と発音するが、世を持たせる、つまり世の中を支えるということで、琉球の世を支えた野國總管のほか、儀間真常、蔡温(1682年〜1762年)の三偉人が祀られている。三人とも、沖縄産業の発展に功績のあった人物である。ただ、世持神社の創建が1937年(昭和12)であることを考えると、挙国一致で食糧増産に励んだ時代であり、そんな世情が絡んでの創建であったのかも知れない。
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 国道58号線を北谷町から北に向かって歩いた。嘉手納基地の金網フェンスに挟まれた道が、どこまでも続いている。西側のフェンスが途切れた所に、金色で彩色された文字で、「甘藷発祥の地・野国いも宣言」と書かれた、大きな石碑が建っていた。嘉手納町は基地の町としてのイメージが強いが、基地ばかりではない、甘藷発祥の地なのだ、と云う強力なアピールが読み取れる。2005年9月30日に開かれた野國總管甘藷伝来400年記念式典で、「野國いも宣言」がなされたと云う。
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 野國總管宮は、甘藷(薩摩芋・琉球芋)が伝来して350年を記念し、1955年に建立されたもので、神社としての歴史は新しい。参道の石段を挟んで灯篭が並び、鳥居を潜ると拝殿の前に出る。戦後の食糧難時代に、蒸かし芋、芋粥、芋きんとんで飢えをしのいだ我が身としては、深々と頭を垂れて感謝の気持ちを伝えねばならぬ。周辺は「野國總管公園」として整備されていた。芝生に腰を下ろし、パンと牛乳で遅い昼食をとっていたら、ジョギング中の若い女性が、頭を下げて通り過ぎて行った。
 本来の野國總管の墓所は、嘉手納町兼久の米軍基地内に在ると云う。角川地名大辞典に、1700年に、地頭であった野国親方正恒が、石壇・厨子を造って岩陰に安置した、と記されていた。1751年には、比嘉筑登之が顕彰碑「總管野國由来記」を建立し、1943年(昭和18年)には、「甘藷発祥之地」の碑が、県産業組合によって建てられたと云う。野國總管の墓地が、昔のままに嘉手納基地内に保存されているのかどうか、分からない。
 嘉手納市街地の中心部にある嘉手納ロータリーから、県道74号線を東に向かって1.5qほども歩くと、左側に道の駅「かでな」がある。そこに、野國總管の像が建てられていた。台座に略歴と、その偉業を記した銅板が嵌め込まれている。野國總管は、この地の人々から「芋大主(ウムウフスー)」と呼ばれていた、と書いてある。
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 道の駅から東に向かって500mも歩くと沖縄市に入る。嘉手納町の南側入り口には、甘藷発祥の地・野国いも宣言の碑が建っていたし、東側入り口には野國總管の像が建っている。町の中心部には野國總管宮があり、甘藷発祥の地であることを力強く宣言している。基地の町として知られていることに抵抗しているように思えた。今日は、嘉手納町の心地よい意気地を知ることになった。(2018.2.2)
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仲昔今帰仁城主丘春之墓(なかむかしなきじんじょうしゅおかはるのはか)・見つけたぞっ!!

2018/02/16 10:48
 今帰仁、中北山時代の第四代城主、丘春の墳墓を訪ねて、再び読谷村の泊城公園にやって来た。先日、探しあぐねて一旦は諦めたものの、心残りなので、もう一度探索することにしたのだ。
 公園内に渡具知城跡がある。今帰仁の中北山時代、五代目の城主今帰仁按司が、怕尼芝(はにじ・?〜1390年?)に滅ぼされ、逃げ延びた一族が隠れ住んだと伝わっている。城跡に記された縁起を要約すると、「今から600年前、三山戦国時代の中今帰仁城主は、臣下であった本部大主の謀反にあう。嗣子の千代松金、後の丘春は北谷間切砂辺村へ落延び、18年後に旧臣を集めて本部大主を討って、今帰仁城を奪い返した。しかるに、同族の怕尼芝(はにじ)に攻められ、中北山は滅んだ。隠居の身であった丘春は、住み慣れた北谷間切りに戻り、生涯を終える。丘春と臣下の遺骨は、此の地の東の方、『鷹の目洞窟』に葬られ、以後、此の地一帯を渡具知泊城と称す。」と、ある。縁起からして、丘春の墳墓は、泊城公園のどこかに、必ずや在るはずである。
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 先ずは、腹ごしらえ。高台にある「梵字碑」の脇に設けられたベンチに座り、途中のコンビニで買って来たアンパンと牛乳で昼食をとることにした。眼前の樹木の間から、比謝川を挟んで、仲昔今帰仁按司祖先之墓を示す石碑が望める。右手は、展望を遮るようにして琉球石灰岩の岩山が突き出していた。この時、何気なく目に留まったのが、岩肌に沿って崖下に続いている山道である。これが、幸運の始まりだった。
 岸壁を這うようにして続く山道に入って行った。落ち葉で厚く覆われた道には、人が歩いた痕跡はない。狭い山道は、直ぐに岸壁の窪みに突き当たってしまった。これまでの経験からして、この佇まいだと、そこに拝所が設けられているはずだが、何も無い。窪みの右側が凹んでいるので、香炉が安置されているのかと思い、覗いてみたら、なんと、そこは奥に降って行く洞窟の入り口だったのである。真っ暗で見通しが聞かない。微かだが、奥の方に日の光が差し込んでいるのが感じられた。あぁ、この洞窟は抜けられるのだな、と思い、真っ暗な足元を気遣いながら進んで行った。滑稽なことに、この時、これが縁起に書かれていた、鷹の目洞窟であることに、思いが至らなかったのである。
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 洞窟を抜けると、広場に出た。なんと、右手の岩の窪みに、今帰仁城主丘春の墓があったのだ。これまで探しあぐねて、もやもやしていた気分が、一気に吹っ飛んで行った。
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 墓碑によると、正しくは、「仲昔今帰仁 城主丘春 真玉津 臣下之墓」と呼ぶようだ。墳墓は、岩の窪みの奥にあって、コンクリートで固められ、塞がれていた。香炉が一基安置され、墓前の広場にも、数基の香炉が据えられている。人が訪れた気配は全く感じられない。そりゃ、そうだろう。人目に触れることのない、こんな洞窟を抜けた先に墳墓があるなんて、地元の、それもごく限られた人で、今帰仁城主丘春に所縁のある方にしか分かるはずがない。
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 比謝川の河口を挟んだ対岸には、丘春の先祖、三代に亘る今帰仁城主が葬られた「仲昔今帰仁按司祖先之墓」を望むことが出来る。丘春は父祖と向かい合った崖の中腹に葬られていたのである。墓碑に彫られたていた「真玉津(またまちぃ)」とは、丘春の妃で、丘春が今帰仁を追われ、逃げ延びた北谷間切砂辺村の豪農、砂辺家の娘であったと伝承されている。
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 隣り合わせに、ノロ墓があった。墓碑には、風化した文字を黒いペンキでなぞり、「今前昔 湾按司時代 ノロ之墓」とあった。湾按司は大湾按司のことで、大の文字が読み取れなかったのだろう。初代の大湾按司は、丘春の孫に当たる人物だと伝承されている。
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 ノロ墓の隣に、石板が建っていて、「洞窟 鷹の目いわやと称し、台上・タカミーバンタと呼称す」と書いてあった。
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 崖道は、その先へ続いていた。ごつごつとした石灰岩が並べられ、歩き辛いが、転落したら元も子もない。慎重に足を運んだ。崖の窪みをコンクリートで塞いだ墳墓が現れた。自然石に黒のペンキで、「渡具知大湾按司の墓」と書かれていた。渡具知集落の北東に大湾と呼ぶ字名があるが、この周辺一帯の地を、今帰仁城主丘春の血筋を引いた大湾按司が治めていたのだろう。さらに先に続く石段を上って行ったら、梵字碑のあった場所から、岩山を挟んだ反対側の広場に出た。
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 先日訪ねて来た時に、縁起の文章を良く確かめるべきだったのだ。丘春と臣下の遺骨は、この地の東の方、「鷹の目洞窟」に葬られたと書いてあった。その日は西側一帯を歩き回り、結局は探しあぐねて諦めたのである。今日は幸運であった。梵字碑を拝んだご利益なのかもしれない。

 今帰仁城の歴史を語るときには、四つの時代区分で解説されることが多い。資料による裏付けのない神話や、伝承で語られる前北山時代。英祖王統の初代英祖の次男で、湧川王子が城主に就いたとする1260年頃から、同族の怕尼芝(はにじ)に滅ぼされた1322年迄を、中(仲)北山時代。怕尼芝が城主に就いてから、三代目の攀安知(はんあんち)が、中山国尚巴志と、その連合軍に滅ぼされた1416年迄を後北山時代。その後、尚巴志は城主を置かずに監守を派遣して統治したが、これを監守時代と呼んでいる。
 今帰仁城主丘春は、五代に亘って続いた中北山時代の四代目按司である。波乱万丈の生涯を送ったようで、後の世に口碑として語り継がれた伝承が多い。
 今帰仁城跡の大庭に、志慶真乙樽(しげまうとぅたる)の歌碑があり、「今帰仁の城 しもなりの九年母 志慶真乙樽が ぬきゃいはきゃい」と、刻まれている。季節外れの九年母(柑橘)、つまりは城主が歳とってから子供を授かった慶びを歌ったものだと云う。「ぬきゃいはきゃい」は、子供のはしゃぐ声を表現しており、平和な様子を謡っているそうだ。正室に待望の後継者が誕生したが、病弱であったため、側室の志慶真乙樽が、我が子同然に慈しみ、育てたと云う。世継は千代松と名付けられ、後の今帰仁按司、丘春である。
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 ところが、琉歌に歌われた平和は束の間で、家臣本部大主の謀反により、幼い千代松は、臣下とともに、今の北谷町砂辺集落に逃げ延びている。乳母である志慶真乙樽と千代松の別れ、そして18年後、成長した丘春との再会、忠誠を尽くした志慶真乙樽は、戦国のヒロインとして、今に語り継がれている。
 北谷間切砂辺村に逃げ延びた千代松は、豪農、砂辺家に匿われ、成長して、この家の娘、真玉津(またまちぃ)と恋に落ちるが、横恋慕した「喜舎場の子」なる人物に素性を知られてしまう。喜舎場の子は、謀反を犯した本部大主の臣下であったと云い、丘春の身に危険が迫るが、この時、丘春にとって、お家再興の機会が訪れたのである。

 梵字碑の脇に座り込んで、アンパンを齧っていなかったら、見落としていた崖道である。そこに、今帰仁按司墓を案内する標識はない。後で確認したら、棒杭が一本立っていて、頭頂部に切り込みがあった。以前には案内板が揚がっていたのかもしれない。私のような物好きな老人には、是非とも欲しい案内標識だが、心無い人に、貴重な史跡であり、聖域を荒らされても困る。それに、崖道は危険である。敢えて、案内標識を撤去したのではないか、と余計なことを考えてしまった。
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(2018.2.12)
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寄り道・渡具知泊城(とぐちとまりぐすく)・今帰仁を追われ逃れて来た一族が隠れ住んだと云う。

2018/02/14 09:23
 今帰仁の中北山時代の末期、後北山時代の初代按司・怕尼芝(はにじ・?〜1390年?)に追われ、逃れて来た一族が隠れ住んだと伝わる城跡が、泊城公園として整備されている。嘉手納水釜集落にある、「仲昔今帰仁按司祖先之墓」の北西、比謝川の河口を挟んだ向かい側にあり、公園の高台に設けられた展望台が、すぐそこに望める。寄り道をすることにしたが、水上を渡って行く手段がない。もと来た道を戻り2q程の距離を大きく迂回することになる。 
 赤く塗られた比謝大橋を渡ると、読谷村古堅集落に入る。auショップに沿って左に折れ、渡具知集落に入って行った。道なりに歩いていくと突き当り、左に折れると泊城公園の裏口に行き着く。整備された遊歩道を下って行くと、途中から左に降りる歩道があって、広場の先に渡具知泊城、別称「トゥマイグシク」跡があった。琉球石灰岩の巨大な岩山で、海に向かって迫り出し、東シナ海の荒波に浸食された石灰岩が、凹凸の激しい複雑な造形を生み出している。
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 白塗りのコンクリートの板に手書きの文字で、渡具知泊城の縁起が説明されていた。これまでに知り得た伝承を踏まえて要約する。「今から600年前、三山戦国時代の中今帰仁城主は、臣下であった本部大主の謀反にあう。嗣子の千代松金、後の丘春は北谷間切砂辺村へ落延び、18年後に旧臣を集めて本部大主を討って、今帰仁城を奪い返した。しかるに、同族の怕尼芝(はにじ)に攻められ、中北山は滅んだ。隠居の身であった丘春は、住み慣れた北谷間切りの北に接する読谷山間切に戻り、生涯を終える。丘春と臣下の遺骨は、此の地の東の方、『鷹の目洞窟』に葬られ、以後、此の地一帯を渡具知泊城と称す。1979年12月22日。」とあった
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 縁起から推察すると、中北山時代の四代目の今帰仁按司、丘春の墳墓が近くに在るはずである。葬られたと云う鷹の目洞窟を探して、雑草に覆われた遊歩道を伝い、反対側の岩場に降りて行った。荒波に浸食された琉球石灰岩が複雑に入り組み、洞窟と岩の窪みは、あちこちに在るが、丘春を祀ったと云う墳墓は見当たらない。ただ一つ、竜宮神を祀った洞窟を見つけることが出来た。
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 丘春の按司墓を探すことは諦めて、後日、出直すことにした。もと来た道を戻る途中、公園の高台に梵字碑があったので立ち寄った。刻まれた文字は、古代インドのサンスクリット語で、「ア・ビ・ラ・ウン・ケン」と読み、漢字では「阿毘羅吽欠」と書くそうだ。これは大日如来の真言で、唱えることにより、魔障を退散させ、善福を招く力があると云う。元は、渡具知港が 見渡せる断崖上にあったそうで、航海の安全を祈願したものらしい。
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(2018.2.2)
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仲昔今帰仁按司祖先之墓(なかむかしなきじんそせんのはか)・仲昔今帰仁按司三代の墓です

2018/02/10 13:08
 屋良城跡を訪ねた後、城主であった御先大川按司(うさちおおかわあじ)のご先祖様が葬られていると云う「仲昔今帰仁按司祖先之墓」に詣でることにした。
 屋良城跡から58号線に戻り、さらに嘉手納の市街地を西へ向かって歩き、水釜の集落へ入って行った。比謝川に架かる、赤く塗られた比謝大橋の手前を左折し、坂道を下って行くと嘉手納漁港に付き当たる。道路の左側は丘陵で、右側には比謝川の河口に向かって防潮堤が続いている。すこぶる絶景である。防潮堤越しに釣り糸を垂れている人を何人か見かけた。比謝川河口近くの左手、崖の中腹に大きく口を開いた窪みがあって、その中に白い祠が見えて来た。
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 祠は、雑草に覆われた急坂な砂利道の上にある。石灰岩の岸壁が覆いかぶさるように張り出し、その下に二基の祠があった。正面にある祠の脇に、「仲昔今帰仁按司祖先之墓祠」と彫られた石碑が建っていて、昭和53年8月13日改修とあった。左手奥にある祠は、やや小振りに造られている。線香の焚かれた跡もなく、直近に詣でた人はいないようである。
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 伝承によると、仲昔今帰仁按司の初代湧川王子、二代目の湧川按司、その長男である三代目の今帰仁按司が葬られていると云う。墓を守護して来た屋良城主の初代御先大川按司は、三代目今帰仁按司の五男である。正面の祠には歴代の按司が祀られているのだろう。もう一つの小振りの祠には、一族か、忠臣が祀られているのかもしれない。ただ、それは説明が無いので分からない。
 仲昔とは、今帰仁城の歴史を、前北山時代、中(仲)北山時代、後北山時代、監守時代とした区分で、中(仲)北山時代を指している。一般的には、英祖王(1229?〜1299年?)の次男、湧川王子が統治した時代を始まりとしているが、伝承に基づいて推理していくと、それ以前に舜天王統の支配が続いている。ただ、王位をめぐる内紛が繰り返されていたようで、それに乗じた英祖が、次男の湧川王子を派遣して統治権を握ったと思われる。
 崖下の道路わきに、「仲昔今帰仁按司祖先之墓」と刻まれた大きな石碑が建っていて、台座に、英語と日本語で縁起を記した石板が嵌め込まれていた。分かり易く説明されているので、以下に写す。
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 「14世紀頃、今帰仁城第四代城主、仲昔今帰仁按司が家臣の反乱にあい、滅ぼされたとき、難を逃れてきた中北山の一族が、今帰仁城の一代目から三代目までの城主の遺骨を『水釜イリタケーサーガマ』に葬った。初代屋良大川按司は第三代今帰仁城主の五男にあたり、父祖の墓を大事に守ったと伝わっている。なお、この遺骨を運んできた今帰仁の遺族らは、敵地になっている今帰仁には帰らず、中頭の方々に隠れたので、本部・今帰仁では、仲昔今帰仁按司祖先の墓を知らないという伝説が残されている。」とあって、次のような系図が記されていた。なお、文中にある中頭(なかがみ)とは、沖縄本島の中部地方を云い、本部 (もとぶ)とは、今帰仁城跡のある本部半島一体を指している。
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 ここに云う第四代城主とは丘春のことを指していると思われる。家臣の反乱とは、後々まで語り継がれている北山騒動のことだろう。丘春は今帰仁城を追われた後、屋良グスクに近い、今の北谷町砂辺集落に落延びたと伝承されているが、雌伏18年、旧臣を集めて今帰仁城を取り戻し、城主に返り咲いている。 
 北山騒動のさなか、遺骨を水釜(嘉手納町)の地に運んできた今帰仁の遺族らは、比謝川を挟んだ対岸の地、読谷村渡具知にある岩穴に隠れ住んだと云う伝承が残っている。舟を操りながら、川向うに葬った先祖の墓守をしたに違いない。
 しかし、第四代今帰仁城主、丘春の代か、その次の代か定かではないが、一族の怕尼芝(はにじ)に攻め滅ぼされ、中北山時代は終焉を迎えている。先の系図を見ると分かるが、怕尼芝は丘春の従兄弟にあたる。戦国の世の習いとは云え、無慙である。怕尼芝に滅ぼされ、今帰仁を追われた一族が住んだと云う住居跡が、比謝川河口の北側に、泊城公園として整備されていると云うので、この後、寄り道をすることにした。
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(2018.2.2)

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屋良城(やらぐすく)跡の拝所・今帰仁城の中北山時代後半に築城されたグスクかも知れない。

2018/02/07 13:38
 屋良城跡は、嘉手納町に在り、別名を「屋良大川グスク」とも呼ぶそうだ。北谷町の北側に続く嘉手納町も基地の町で、地図を見ると米軍基地の隙間に市街地が続いている。町の総面積は15.04㎢で、その83%に当たる12.4㎢が米軍の嘉手納基地であると云う。
 嘉手納町と周辺の北谷町、読谷町の地域は、沖縄でも最も古くから開け、縄文時代(沖縄史では貝塚時代)以前から人々が住み着いていたと云う。今から6〜7千年前の貝塚が、比謝川河口周辺から海岸線に沿って分布しており、古代から豊かな自然環境であったことが伺われる。
 地図を頼りに74号線から屋良の住宅街に入って行った。城跡へは近い距離なので簡単に行き着くと思いきや、例によってまたまた方向感覚が狂ってしまった。庭木の手入れをされていた熟年男性に聞いたら、「あぁ城址公園ね。この道を真っすぐに行った左手にあるよ。」と教えられた。男性が指差したのは、私が向かっていた方向とは全く逆だった。
 公園入口に掲示された城跡の略図を記憶して、坂道を上って行った。歩道の右手に、木立に囲まれた二の曲輪跡があって、石段を上ると、大木の根元に祀られた「屋良城之嶽」の前に出た。石碑には「神名 笑司ノ御イベ」と刻まれ、香炉が二基安置されている。屋良城の守護神である。斜め前に、コンクリートで六角形に囲まれた窪みがあって、香炉が一基置かれていたが、これは、何を意味する拝所だろう。
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 屋良城跡は、小高い琉球石灰岩の丘陵上にあって、城址公園として整備されている。北側を流れる比謝川を天然の濠として利用し、南西側に半円状に外郭を巡らした輪郭式の城郭であったと云う。発掘調査では、敷石遺構と4か所の柱穴群が確認され、土器、須恵器、陶磁器、鉄製品、古銭、線刻画石板などが出土しており、これらの遺構や遺物から推して、有力な按司が統治していたのだろうと云われている。築城は13〜15世紀と考えられるそうだ。しかし、昔日の面影を伝える遺構は全く残っていない。
 伝承によれば、屋良城を築いたのは、初代の御先大川按司(うさちおおかわあじ)だと云い、城跡の東側崖下に、「屋良大川按司の墓」として祀られている。以前は崖の中腹にあったが、崖崩れにより墓が倒壊したため、散乱した遺骨を厨子甕に分納し、真下の横穴を利用して1991年に移築されたそうだ。墓室は石灰岩の石積みで塞がれており、香炉が一基置かれていた。素朴な形に造られた墳墓である。
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 城主であった大川按司には二つの系列がある。第五代御先大川按司の嗣子が早世したために、先祖を同じくする安慶名大川按司の二男を婿養子に迎えているが、ここから後の系列を、後大川按司(あとおおかわあじ)と呼んでいる。
 後大川按司の墳墓は、御先大川按司の墓から少し先に歩いた右側にあった。こちらは綺麗に整備された墳墓である。老朽化に伴って2010年に改築されたそうだ。薄黄色に塗られ、祠の軒下には、「屋良後大川按司と一族の墓」と書かれた石碑が揚がっている。
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 改築の際の調査では、35基の厨子甕が納められていたと云い、「屋良」、「大川」、「康煕50年(清の元号で1711年)」、「乾隆24年(清の元号で1759年) 」などの文字が確認されたそうだ。
 大川按司は、北山世の主と呼ばれた、今帰仁按司の家系を継いでいる。今帰仁城の興亡史について、いくつかの文献に目を通すと、四つの時代区分で解説されている。資料による裏付けのない神話や伝承で語られる前北山時代。英祖王統の初代、英祖の次男、湧川王子が城主に就いたとする1260年頃から、同族の怕尼芝(はにじ)に滅ぼされた1322年迄の凡そ60年間が、中(仲)北山時代。怕尼芝が城主に就いてから、三代目の攀安知「はんあんち」が、中山国尚巴志と、その連合軍に滅ぼされた1416年迄を後北山時代。その後、尚巴志は城主を置かずに監守を派遣して統治したが、これを監守時代と呼んでいる。
 屋良城を築いたとされる初代の御先大川按司は、中(仲)北山時代の初代湧川王子から数えて三代目の今帰仁按司の五男として生まれている。長兄であった丘春(幼名千代松)が、今帰仁按司四代目を継ぐに当たり、家臣の反乱に合い、屋良グスクに近い北谷町砂辺集落に落延びたと伝承され、近郷には丘春にまつわる伝承がいくつか残されている。
 丘春は雌伏18年、旧臣を集めて今帰仁城を取り戻し、城主に返り咲いたと云う。これが、今に語り継がれている「北山騒動」である。騒動のさなか、難を逃れた一族が、仲北山の初代から三代までの遺骨を抱き、安住の地を求めて、今の嘉手納町水釜集落に葬ったと伝わり、歴代の屋良城主、御先大川按司は、父祖が葬られた墓を守護していたと云う。
 余談だが、戦国の武将で勝連城按司であった阿麻和利(?〜1458年)は、屋良村の出身で、屋良城主後大川按司の婿養子であったと云う伝承が残っている。また、先祖を同じくする同族には護佐丸の名も見える。二人の戦国武将の争いは、護佐丸と阿麻和利の乱として、後世に語り継がれることになる。
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(2018.2.2)
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下勢頭(しもせいど)の合祀所・勢頭は琉球士族が帰農して形成した開拓集落(屋取)だった。

2018/02/03 13:41
 北谷町は基地の町である。先の大戦後、下勢頭は米軍施設カデナエアーベースに収容され、集落の形成は無い。集落を追われた住民が、点在していた拝所を上勢頭の集落へ遷移したのが、「下勢頭の合祀所」である。
 勢頭集落は、沖縄本島に点在する屋取集落の中でも代表的な集落の一つである。屋取(やどり・やーどぅい)とは、貧窮した琉球士族が帰農して形成した開拓集落のことである。今の、下勢頭・下勢頭に移った士族は、後に勢頭七組と呼ばれたそうだ。稲嶺組、勝連組、喜友名組、佐久川組、瑞慶覧組、田仲組、与那嶺組で、それぞれに小屋組を形成したと云う。七組には、最初に寄留した士族の家名が付けられていた。
 下勢頭の合祀所がどの辺りにあるのか、皆目見当がつかなかった。北谷町のホームページにあった、伊礼東原610番地からして、上勢頭610番地ではないかと見当をつけ、集落の詳しい地図で確認しておいたのが良かった。どんぴしゃり、迷うことなく予測した場所に拝所はあった。なれど、高台に上る入り口に、「拝所につき、関係者以外の立入りを禁ず・北谷町下勢頭郷友会」と書いた立て札があって、通行止めの鎖が張られていたのである。
 上り坂を少し進んで、振り返ると基壇の上に石碑が建っているのが見えた。ファインダー越しに覗いたら「南無諸大明神」と刻まれているのが読める。祈りの初めに唱える文言、「おすがり申し上げます。よろずの神々様」と解釈するが、沖縄の村々には、祖霊神の力強い援護を求める信仰の形がある。「南無諸大明神」の文言は、どこか安直に思えてならない。もっと沖縄の信仰に根付いた重厚な祈りの文言は無いものだろうか。
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 合祀所には、神の加護に感謝し、無病息災や豊穣、豊作を祈願する「あしびなーじー」の神。集落の守護神で、四か所に設けられていた「ゆしみぬ(四隅)」神。「はなぐすくぬめーぬかー(花城前の井戸)」、「みじぬ神(水の神)」が祀られているそうだ。石灰岩台地上に拓いた土地では、湧き水の井戸は、貴重な水源で、神の恵みであった。
 58号線へ戻る途中、近道をするつもりで桑江の集落に入って行った。いつものことだが、方向感観が狂ってしまい、住宅街の中をうろうろとした果てに、道は行き止まりになってしまった。引き返す途中で、車止めの向こうに降って行く石段を見つけ、車が行き交う市道に出ることが出来た。その先に、立派な北谷町役場が見えて来た。
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(2018.1.21)
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砂辺ヌ前(すなべぬめー)の合祀所と砂辺集落の拝所・砂辺は古代の歴史を色濃く残す集落だった。

2018/01/29 10:47
 浜川集落から北に向かって歩き、砂辺集落に入る。砂辺ヌ前の拝所は、マンションが立ち並ぶ街の中にあった。低いブロック塀に囲まれた空き地があって、その隅に合祀された拝所が並んでいる。入口は鉄製の格子戸で塞がれ戸惑ったが、手をかけると難なく開けることが出来た。
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 入口左手の植え込みの中に「砂辺の前・ビジュル神」と彫られた真新しい石碑が建っている。ビジュル神は、拝所に合祀されている神様の代表格のようである。祠は三基あって、中央の祠にビジュル神が祀られており、屋根からご神体の丸い先端が覗いていた。これまでにも、いくつかのビジュル神に詣でてきたが、これほどまでに、ユニークな形をした祠は初めてである。ビジュルとは、本土で云う鬢頭盧(びんずる)様のことのようで、信者が患部と同じ仏様の部位を撫ぜると病が治るとの俗信があり、「撫ぜ仏」とも呼ばれている。沖縄で伝承されるビジュル様は、子授け祈願の対象として崇められる霊石のことで、神様として祀られている。
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 ビジュル神の左側にある祠は三つに仕切られ、左から「上の井戸(うぃぬかー)」、「中の井戸(なかぬかー)」、「下の井戸(しちゃぬかー)」とあって、それぞれに香炉が安置されていた。前面には、井戸を模した丸い窪みが造られている。琉球石灰岩台地で、河川の少ない沖縄では、湧き水は貴重で、神様のお恵みであった。集落に点在した井戸(がー)を合祀したようである。
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 右側には竜宮神を祀った小さな祠があり、近年に設けられた拝所のようだ。沖縄の拝所巡りをしていると、至る所で竜宮神と出会う。遥か遠く、東の海の彼方に在って、神の住む「あの世」をニライカナイと云い、7代を遡るご先祖様は守護神となって、ニライカナイに住むと信じられている。竜宮はニライカナイを指し、竜宮神の祠は、ご先祖様に祈りを捧げる拝所なのである。
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 砂辺集落も古くから開けた土地である。琉球の歴史が随所に残されているので、あっちこっちと歩いてみたいと思った。でも、やみくもに歩く分けにもいかない。拝所巡りの参考資料を探して、砂辺公民館に立ち寄った。身分を明かし、砂辺集落を訪ねた経緯を説明したところ、女性職員の方が、『旧字砂辺部落拝所案内図』、と書かれた手作りの資料を探し出してくれた。いくつか説明があって、物好き老人の好奇心に付き合って頂いたことが嬉しかった。
 案内図には、29か所もの拝所が載せられている。とても、全てを巡るわけには行かないだろう。先ずは、ここに来る途中で「クマヤー洞穴」と書かれた案内標識を見かけ、気になっていたので訪ねることにした。クマヤーガマは、古くからの霊域とされており、先の沖縄戦で砂辺集落の住民が避難した洞窟である。発掘調査で出土した人骨は、今から3000年から2500年前の縄文時代(沖縄史では貝塚時代)のものだと云う。洞窟の上に先祖の霊を供養する拝殿が設けられている。洞穴の入り口は施錠され、入って行くことは出来ない。通りすがりの老婦人が、うろうろしている私を見かけて、「区民会館に行けば鍵を借りることが出来ますよ」と、声をかけてくれた。
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 もと来た道を戻る途中で、「天孫子按司の墓」と彫られた石板の揚がった拝所に出くわした。天孫子とは琉球神話に語られる王統だが、古い時代に集落を支配していた人物を祀ったものだと解釈できる。所縁は不明だが、天孫子の名からして、集落が拓かれる以前から、この場所に祀られていた墳墓であったのかもしれない。
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 区民会館の脇に、「踊神之墓」があるが所縁は分からない。向かい側には「獅子屋」の御堂がある。旧暦の8月15日に行われる豊穣感謝祭で演じる獅子舞の獅子頭が納められているそうだ。獅子頭は尚真王(在位・1477年〜1527)から賜ったとされ、獅子の額には「王」の文字が刻印されていると云う。
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 住宅街を東に向かって上って行くと、砂辺集落の「根屋」の前に出た。「御神屋根所」と彫られた真新しい石碑が揚がっている。根屋、あるいは根所とは、集落草創の家系を示す呼称で、表札に「知念」とあったように記憶している。別棟になって、立派な神屋が設けられていた。
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 拝所は、次々に続いている。御神屋根所の隣に「砂辺の殿」、坂を上った右手に「ヌール之墓」、坂を下って左手に歩いて行くと「ヌールガー」。その脇に、拝所「御嶽」と彫られた石碑が建っていていたので上って行ったら、拝みの準備をされている家族に出会った。拝所に近づくのは遠慮して、遠くから帽子をとって頭を下げて来た。
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 58号線に戻り、砂辺のバス停で次の那覇行きの時刻表を確認したら40分も待たねばならない。脚に余力を残していたので、那覇とは反対方向の嘉手納に向かい、次のバス停まで歩くことにした。10分ほども歩いて気付いたのだが、基地の金網フェンスに挟まれて続く58号線には、バス停が無いのだ。人家が無いのだから利用する人はいない。当たり前のことである。瞬時思案して、もとの砂辺バス停まで戻ろうかとろうかとも考えたが、そのまま、先に向かって歩き続けた。西側に続く金網フェンスが途切れて、やっと民家が見え、海浜公園前のバス停にたどり着いた。この間、凡そ2qの道程である。東側の金網フェンスは、その先、まだまだ続いていた。(2018.1.15)
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喜友名小屋取(ちゅんなーぐゎーやーどぅい)・孔蓮廟(こーしびょう)・平安山(はんざん)の拝所

2018/01/25 14:39
 浜川集落に入ったら、巨大な亀甲墓が並んでいた。沖縄では住宅街に亀甲墓があるのは珍しくはない。台地の下に続く岩盤を切り抜くようにして造られて、6基が連なり、さらに崩壊したのか、他の場所に移されたと思われる二か所の空域があった。
 その規模の大きさに驚いたが、奇異に感じたのは、台地の上に近代的なマンションが建っていたことである。ご先祖様を葬る領域に、住宅地が押し寄せている現実は理解できる。しかしだ、私には、墓所を、お尻の下にして眠ることは出来ない。
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 その亀甲墓が途切れた西の端に、喜友名小屋取(ちゅんなーぐゎーやーどぅい)・孔蓮廟(こーしびょう)・平安山(はんざん)の、三つの祠が並んでいた。由来を調べていくと、中央の孔蓮廟は、元々から、この場所にあった拝所で、喜友名小屋取と平安山の祠は、それぞれの集落から遷移されて、合祀された拝所であることが分かった。
 旧浜川村は、今の浜川集落と下勢頭(しもせいど)、伊平集落の一部を含めた地域で、北側の琉球石灰岩台地には平安山ヌ上(はんざんぬうぃー)・喜友名小(ちゅんなーぐー)・下勢頭(しゃしーどぅ)の、屋取(やどり・やーどぅい)集落があったと云う。
 屋取とは、大雑把に云うと、18世紀の初頭、貧窮した琉球士族が、帰農して形成した開拓集落のことである。語源は、田舎下りをした貧乏士族が、しばらく農家に身を寄せ、宿ったことから来ているそうだ。沖縄本島の凡そ600の村落のうち、138が屋取を起源にすると云う。在来の伝統を受け継ぐ本村(古村)に対して、屋取起源の村(新村)は、集落の立地や構造、運営方式に大きな違いがあったそうで、祭祀の歴史を継ぐノロ(神女)の存在がない。末尾に、沖縄大百科事典に解説されている屋取集落の項を抜粋した。
 三棟並んでいる左側の祠には、「喜友名小屋取」の表札が揚がっていた。「喜友名」とは、帰農した士族の家名で、「小」は複数の士族が拓いた屋取の一つを指しているそうだ。祠には、集落に点在していた三基の拝所が合祀されている。消えかかった文字もあるが、それぞれに、「うぶ井戸」、「ゆがふの神」、「ゆしみぬ神」と読める。
 所縁を調べてみたが、全く手掛かりが掴めないので、私流に勝手な解釈をしてみた。「うぶ井戸」は産湯、新年の若水に使われた井戸だろう。「ゆがふ」は、沖縄語では実りの多い年、豊年を指すようで、豊穣を祈願した農業神かもしれない。また、沖縄語では「四隅」を「ゆしみ」と発音するので、「ゆしみぬ神」は開拓集落の四隅に祀られた守護神だろう。
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 中央の祠には、「孔蓮廟」と彫られた石碑が建っている。「こうしびょう」と仮名が振られていた。祠の背面に格子があって裏側が覗けるようになっている。そこからガマ(洞窟)が見えるが、ご神体が祀られているのだろうか。
その名からして、中国と関りがありそうだと思った。伝承だが、浜川集落の創始者は、中国からの渡来人であったらしいと云う説がある。古い時代のこと、浜川の海岸に漂着した中国人が、このガマ(洞窟)に住み着いたが、亡くなったのを憐れんだ地元の住民が、丁重に葬った場所であったのかもしれない。
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 右隣に「字平安山拝所」がある。旧浜川村の西側に、旧平安山村(はんざんむら)があって、今の上勢頭(かみせいど)と下勢頭(しもせいど)集落、伊平集落の一部を含めた地域で形成されていた。今では、平安山の名は地図上から消えている。北谷町史を見ると、町制施行前の北谷村には、字名として平安山が見える。拝所名の頭に「字」の文字があるのは、そこからきているようだ。旧平安山集落の大部分は、先の大戦後に米軍施設カデナエアーベースに収容され、集落を追われた住民が、点在していた拝所を遷移して、この地に合祀したようである。
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 祠には三つの神様が合祀されていた。右側に祀られているのが「白露之神」である。白露とは太陽暦二十四節気の一つで、9月8日頃になる。その年の収穫に感謝し豊穣を祈願する農業の神様のようだ。中央に祀られているのが「殿之神」で、集落にあって、中心的な役割を担っていた守護神であろう。社殿では、戦後しばらくの間、盛大なウチマー行事が行われていたそうだが、今では平安山ノロの家系に繫がる家人らが、時折に訪れるだけだと云う。
 因みに、ウチマ―とは、沖縄ではポピュラーな祭事で、年に四回行われ、豊穣祈願や感謝、集落の繁栄、厄除けを祈願する行事である。2月ウチマーは麦の初穂の儀礼、3月ウチマーは麦の収穫儀礼、5月ウチマーは稲の初穂儀礼、6月ウチマーは稲の収穫儀礼で、「麦稲四祭」とも呼ばれている。
 左側に祀られているのは、「宇地川(うーちぬかー)之神」で、祖先たちが使用していたと伝わる井戸の神様である。雨乞い祈願も行われたていたようだ。
 次の機会に、「下勢頭集落の合祀所」を訪ねることにする。琉球王国のころ、勢頭集落には、大規模な屋取集落が形成されていたと云う。 (2018.1.15)

注釈:屋取集落について、沖縄大百科事典(沖縄タイムス社)には、次のように説明されている。
  『屋取集落(やどりしゅうらく)・士族の帰農によって沖縄本島の各地で形成された小村落。方音〈ヤードウイ〉。18世紀の初頭、政治・経済・文化の中心地域であった首里・那覇から沖縄本島の農村地域に、良人(ユカッチュ)と呼ばれる士族の人口移動がおこなわれた。これらの士族帰農の移住者は居住人と呼ばれて、旧来の地人(ジーンチュ)すなわち田舎百姓とは区別された。居住人は地人に配当された地割地(百姓地)に荒蕪地が生ずるとき、また請地・払請地が生じたとき、その耕地を叶掛け(小作のこと)して開墾耕作に従事するために寄留移住するもので、地人の住む古来の百姓村から遠く離れて、耕地のなかに点々と畑屋(はるや)式の宅地を構えるわけである。 
  屋取の語義は〈宿る〉ということで、貧乏士族が田舎下りをして、しばらく農家に身を寄せ、そこに宿ったことから来たものである。これらの士族たちは、一時的仮居・仮住まいのわびしい生活を余儀なくされていたが、いずれは再起して、もとの中心地域で一旗あげたいという信念が固かった。けれども時勢の流れは、かえって帰農士族を増加させ、ついに定着同化して集落化する方向へ進み、いわゆる屋取集落と称する集落形成をみるにいたる。沖縄本島の約600の村落のうち138が屋取起源の村落である。北谷間切、具志川間切、越来間切、などは、模式的な屋取集落の分布地域である。屋取には三つの類型がみられる。@独立屋取型;在来伝統の本村から独立して屋取だけで行政的単位村を構成するもの、A共存屋取型;本村と屋取が共存するもの、B従属屋取型;いまだ本村に従属する段階のもの、などである。在来伝統の本村(古村)と屋取起源の村(新村)とは、集落の立地・形態・内部構造の相違が大きい。』
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浜川御願(はまかわうがん)・古代の祭祀遺跡のようだが、全容が不明である。

2018/01/22 12:53
 北谷町は、総面積の半分以上が米軍キャンプで、北側に嘉手納基地、中央部から南側にかけてはキャンプ桑江、キャンプ瑞慶覧、キャンプ・フォスターの施設で占められている。海寄りの美浜地区には、アメリカンビレッジや、大規模なショッピングセンター・娯楽施設があり、観光客や若者、駐留米軍関係者の人気スポットになっている。
 華やかな美浜地区から浜川集落に入ると、街並みが一変し、昔日の雰囲気を残す沖縄の集落が現れる。この先に続く砂辺集落と共に、琉球の古い歴史が刻まれ、その面影を今に伝える地域である。
 国道58号線と、通称国体道路と呼ばれる県道23号線が交差する西側に、緑に覆われた小高い丘が見えてくる。この丘全体が「浜川ウガン(御願)」であり、『琉球国由来記』(1713年・琉球王府編纂の地誌)に出てくる「島森ヨリアゲノ嶽」ではないかと云われている。
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 オーディオショップ、「Music・Lab」の駐車場を抜けて入って行くことになる。近付くと、丘の全域が琉球石灰岩の巨大な塊であることが判る。麓の左手に、北谷町文化財指定第一号と記した「浜川ウガン遺跡」の説明板があって、その概要が記されていた。
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 東側に、ビルの外階段のような、岸壁に沿った石段が続いている。上って行くと中間程の岩肌に香炉が二基安置され、さらに上に向かうと、岩山の天辺近くに墓室が現れる。足場のない岸壁に造られた墳墓で、墓室と拝殿が上下二段に分かれた造りになっていた。先ほど目を通してきた説明プレートにある按司墓のようである。葬られている按司の経歴を知る手掛かりは全く無いが、地元の権力者であることには間違いない。墳墓の崩壊を防ぐように、ガジュマルの根が複雑に入り組み、張り付いていた。
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 麓の右寄りに、丘を背にして南向きにきに建っている祠がある。「浜川御願」の拝所で、部分的にコンクリートで補強されているが、石灰岩を積み上げて造られており、寄棟づくりを模した家型の祠である。三基の香炉が安置されていた。
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 駐車場を隔てた反対側に、「殿之神(どぅんぬかみ)」と「竜宮神」が祀られている。敷地の右手奥に四基の香炉が置かれていて、左から「拝所・カーシヌシー」、「拝所・アワグルン」、「拝所・トグチヌマタ」、「拝所・シリーン作」と書かれていた。拝所であることには間違いないが、所縁はさっぱり分からない、と云うか、どんな性格の神様なのか、想像すら出来ない。
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(2018.1.15)
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樹昌院(じゅしょういん)・開祖の南陽紹弘禅師は北谷長老と尊称され、教義が根付いている。

2018/01/18 21:13
 国道58号線、北谷バス停の先から県道130号線に入る。キャンプ・フォスター・ファイア・ステーションの交差点を左折して、米軍キャンプの中に続く県道を歩いて行くと、基地の金網フェンス越しに樹昌院の赤い屋根が見えてきた。左手高台に在って、樹木が茂った緑の中に赤瓦の屋根が突出しているので、遠くからでも目立つ。樹昌院は、1635年頃に開山されたと伝わっており、由緒のある寺院である。今から6年ほど前の2011年7月に、立派な本堂が北谷町大村の現在地に建立され、その歴史は途絶えることなく、今日まで続いている。
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 初めに訪ねたのは、北谷町のホームページを頼りに、今の場所に程近い吉原集落に在って、廃屋同然の樹昌院だった。障子は破れ、郵便ポストにはチラシが詰め込まれている。それでも、軒下には樹昌禅院の歴史を刻む扁額が掛かっていた。檀家制度のない沖縄では、維持管理に要する費用の捻出は重要な課題である。本土でも少子化や過疎化、核家族化などによる檀家信徒の減少によって廃寺になる例が多いと云うから、由緒ある樹昌院も同じ運命を辿ったのかと思い、寂しい気持を抱えながら帰路についた。
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 しかし、地元に根付いていた由緒ある寺院が、そんなに簡単に廃れるはずはない。翌日になって、ネット情報から樹昌院の電話番号を見つけ、疑問に思える幾つかを尋ねてみた。吉原集落にある廃屋同然の樹昌院は、元のご住職、瑞雲守禅和尚の住居跡で、1976年(昭和51)から、今の樹昌院が落慶した2011年(平成23)までの間、教義を広めるための仮寺院であったことが判った。
 早速、再興成ったと云う樹昌院を訪ねて見た。沖縄戦直前までは、今の米軍瑞慶覧キャンプの中に在ったそうだが、戦後に米軍のブルドーザーによって跡形もなく均されてしまったと云う。その後、長い年月に亘って地元有志等によって再興活動が続けられ、今の伽藍が落慶している。
 赤瓦で葺かれた山門を潜ると広々とした境内に入る。左手に鐘楼があり、正面の本堂は堂々とした佇まいである。本堂の入り口に揚げられた扁額には、「樹昌禅院」とあった。大広間には、多くの参列者が座れるように椅子が並んでいる。須弥壇があって仏壇中央には、ご本尊の千手観音菩薩が祀られていた。この日、訪れる人は誰もいなかった。静寂の中で、久方ぶりに般若心経を唱えた。
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 本堂の片隅に置かれたていたリーフレットから、その沿革を参考にして、樹昌院が辿って来た歴史をまとめてみる。宗派は臨済宗妙心寺派の観音禅寺で、ご本尊様は千手観音である。その妙心寺派を始めて琉球に伝えたのが南陽紹弘禅師と云われ、北谷町大村玉代勢原(たまよせばる)の生まれである。地元では北谷長老と尊称され、郷土の偉人として語り継がれているそうだ。余談だが吉原集落に北谷長老酒造工場があって、「北谷長老」と名付けられた泡盛が醸造、販売されていた。
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              北谷長老酒造のホームページから
 
 南陽紹弘禅師の生年は定かではないが、1580年頃だとされている。13歳にして出家、19歳の時に本土に渡り、多くの霊場、寺院を遍歴したのち、松島の瑞巌寺で修業して帰郷したと云う。一説には、瑞巌寺で修業したのち、江戸の東禅寺(港区高輪に現存する)で、江戸前期の僧、嶺南崇六(れいなんすうろく・1583年〜1643)の教えを受け継ぎ帰国したとある。琉球に戻った南陽紹弘禅師は、首里にあった建善寺(昭和初期に廃寺)に住持していたと伝わっているが、歴代住職の名には南陽紹弘の名はなく、寄寓の身であったのではないかとされている。
 世俗を嫌った南陽紹弘禅師は、生まれ故郷の北谷村玉代勢原に小庵を建て隠遁し、地元の人々に支えられながら、布教活動に努めたようだ。1652年に入滅しているが、リーフレットにある沿革にからは、1976年(昭和51)、瑞雲守禅和尚が吉原集落に住居を構え、仮寺院を設けるまでの凡そ320余年間の歴史が分からない。「承応元年(1652年)禅師遷化後、何人かの僧侶が樹昌院に住持しますが、いずれも正式な住職ではありませんでした。」と簡単に説明されていた。別の文献によると、大正2年に志佐鳳州が民家を当てて住持していたとあり、沖縄戦直前には、上江洲恵信が住職だったとの記録がある。
 想像するに、北谷長老と呼ばれた南陽紹弘禅師の教えは、長い年月に亘って語り継がれ、人々の心に深く刻み込まれて来たので、樹昌院と云う物理的な入れ物は必要としなかったようである。今の樹昌院のご住職は無弦了心和尚で、新本堂の落慶に、ご尽力されたと云う。
 例年、旧暦の9月15日には、北谷町主催の祭礼として、北谷長老祭が行われるそうだ。祭祀が行われる長老山は米軍キャンプ瑞慶覧の中にあって、そこには、南陽紹弘禅師を始め、樹昌院歴代の住職が葬られた墓所があると云う。一介の物好き老人が入っていける場所ではない。北谷長老祭りの際には、特別の許可を持って入場が許され、盛大な祭礼が行われると云う。
 それにしても、北谷町のホームページにある樹昌院の記述は、メンテナンスして欲しいと思う。また、廃屋状態の元の仮寺院の門前に、今の樹昌院への案内説明が欲しかった。でも、おかげで由緒ある樹昌院の歴史について知ることが出来たので、良かったなぁ〜と思う。(2018.1.16)
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本土の友人達へ・近況報告

2018/01/01 09:14
あけましておめでとうございます。
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 那覇市に移住して、三年半が経ちました。年老いて過ごす日々には、あっという間の時間でしかありません。
 つくづくと思うのですが、沖縄の気候が私の身体に合っているようで、東京の厳しい冬の暮らしで、あっちこっちが痛んでいた老体は健康を取り戻しています。夏の強い日差しは避けていますが、拝所巡りの、てくてく歩きは続けています。でも、歳を重ねるとともに、一日の歩行距離は明らかに短くなっています。これはやむをえないことです。
 実は、昨年の一月に上京し、厳しい寒さに遭遇して以来、体調を崩してしまいました。ひと月半ほど、てくてく歩きから遠ざかっていましたが、四月に入って元気を取り戻しました。湿度の高い沖縄の気候が幸いしているようです。沖縄は海に囲まれ湿度が高く、春を迎えても東京のような爽やかさを感じることがありません。高温多湿の気候が、干乾びてきた私の身体には都合よく作用しているようです。

 今でも、年に何度か上京して、旧友達と酒を飲み交わすことがあります。そこで、よく聞かれるのですが、本来の沖縄語は日本語なのか、それとも中国語に影響を受けた言語なのか、という疑問です。結論から言いますが、紛れものなく日本語です。それも大和言葉が色濃く残っています。
 三年ほど前、那覇市に移住して転入諸手続きのために市役所を訪れ、老人福祉を担当する「ちゃーがんじゅう課」と云う変わった名前の部署に行きました。沖縄語が部署名になっているので、その意味が分かりません。早速、好奇心の趣くままに、係の人に聞いたら、なんとも素っ気なく、「いつも元気」と云う意味だと応えてくれました。忙しい仕事中に、つまらん質問をした私が悪かったが、本土の人間にとっては、不思議な響きのある名前なのです。「ちゃー」が「いつも」で、「がんじゅう」が「元気」と云う意味のようだと納得して三年が過ぎました。
 沖縄の方言の事を「うちなー口(沖縄口)」と云いますが、未だに会話は理解できなません。それでも、沖縄語でa・i・u・e・oが、a・i・u・i・uに変化する三母音の法則と、口蓋化でkがchに変化する法則が分かってくると、紙に書いた言葉が理解できるようになってきました。
 そんなある日、那覇市の「ちゃーがんじゅう課」から送られてきた介護保険料決定通知書を眺めているうちに、そうかっ!「がんじゅう」は「がんじょう(頑丈)」のことなんだと唐突に気付いたのです。
 これには伏線もありました。私が幼少年時代に育った山陰・石見(いわみ)の片田舎では、年寄り同士が挨拶を交わすときに、「がんじょうしとんさるかねぇ〜」と云っていたのを思い出したのです。「元気にしてらっしゃいますか。」と云う意味で、「いつも元気に頑張って、良く働いていらっしゃいますね。」と云う、労りの気持ちを込めた挨拶です。
 石見の片田舎でも、那覇でも「元気」のことを「がんじょう・頑丈」と表現することに気付き不思議に思いましたが、もともとは中世から続いた大和言葉のようです。中央から伝播した言葉が、地方に残っているのだと思います。何方かに伺ったのですが、沖縄では左利きのことを「ぎっちょー」と云うそうです。私の育った石見でも「ぎっちょ」と云っていました。今では、差別用語だと思われていますが、それを聞いたときには驚きました。これもまた、大和の古い言葉が沖縄地方に伝わって、今に残っているのです。拾い上げていくと、たくさん見つかりますが、ここでは省きます。
 石見の片田舎から上京して初めての冬を迎えたある日、窓の外を眺めて「雪が降りよる」と叫んだら、下宿のおばさんに怪訝な顔をされた記憶があります。「降りよる」とは、継続進行形の表現で「降りつつある。」のことです。このような表現方法は標準語にはありません。因みに、雪が降って積もった状態を「降っとる」と云い、終止形の言葉を使います。石見地方では、進行形の「何々しよる」と。終止形の「何々しとる」を使い分けて表現します。
 うちなーぐち(沖縄語)でも同じように、「那覇へ行きおる」と云う継続進行形の表現方法と、「那覇へ行きおった」という終止形の言葉を使い分けているようです。沖縄には、大和の古い言葉だけではなく、古い時代の表現方法も残っていることを知りました。那覇と私の故郷、石見には共通する言語や表現方法が残っています。一見、何の繋がりもない、遠く離れた那覇と石見ですが、言葉の親戚同士であることが分かり、懐かしいような、くすぐったいような近親感が湧いてきました。
 そう云えば、年寄りたちは、薩摩芋の事を「琉球芋」と呼んでいました。琉球から長崎を経て伝来した食糧です。琉球からの交易船が長崎を経由して、山陰、北陸地方にまでやって来ていた証だろうと思います。古い時代から、琉球と我が故郷の石見は繋がっていました。
 沖縄語は、日本語と中国語の混成語なのかと聞く友人達にお願いです。そんな頼りないことを聞かないで欲しいと思います。紛れもなく日本語で、構文は日本語そのものなのです。沖縄語は大和の壮大なる方言だと云うことを知って欲しいと思います。
 
 話は変わりますが、本土の友人たちに見せたいのが、刻々と変化する沖縄の夕焼け空です。語彙の乏しい私には、その美しさを上手く表現することができません。夕日に映えた雲が創り出す造形は荘厳です。時には繊細であり、また荒々しい風景を見せてくれます。
 縁あって沖縄に嫁いだ娘が近くに住んでいますが、小学生の孫娘が、「お母さんは夕焼け空が広がると、夕飯の支度をほったらかして外に出て行ってしまう。」と云います。お爺ちゃんは、「東京の下町で生まれたお母さんは、こんなに美しい夕焼けを見たことが無かったんだよ。」と説明するけど、幼い孫には理解できないようで、ただ不思議そうに「ふぅ〜ん?」という返事が返ってくるだけです。孫娘にとっては、見慣れた風景が広がっているだけなのです。
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 昨年の暮れに傘寿を迎えました。友人、知人の鬼籍に入った知らせを受けるたびに、わが身に残された年月に思いを巡らせ、寂しく思う昨今です。中原中也の詩ではないけれど、「思えば遠くきたもんだ」の心境です。戦後の食糧難の時代に育ち、栄養失調気味で、クラスでも一番背丈の低かった私が、今日まで生きながら得ていることが不思議です。それに人生の終焉の地が、想像もしていなかった沖縄になってしまいました。本当に我が人生、「遠い所まで来てしまったなぁ〜」と云うのが、偽らざる今の気持ちです。

 これからも、足腰が何とかなっている間に、沖縄拝所巡礼を続けます。目標の沖縄本島200箇所巡礼は、今年中には達成できそうでが、頑丈(がんじゅう)が残っていれば、八重山諸島にも足を延ばして、島嶼に根差した信仰の形を訪ねたいと思います。ボケ防止を念じつつ、次なる目標300箇所巡礼に向かって、てくてく歩き続けたいと思います。

 この冊子(私家版の沖縄拝所巡礼)の題名は、これまで「ないちゃぁ〜の沖縄拝所巡礼」としていましたが、今回から「やまとぅんちゅの沖縄拝所巡礼」に変更しました。「ないちゃぁ〜」は内地の人という意味です。沖縄の人から見れば、北海道を除いて本土の人は内地の人です。因みに、北海道に住む人も本土のことを内地と呼んでいます。
 沖縄の歴史、習俗に全く無縁であった私が、琉球の歴史が刻まれた拝所(うがんじゅ)を巡りながら、無責任な雑記録を綴ることに後ろめたさがあったので「ないちゃ〜」の断り書きを冠していました。ところが、沖縄で暮らすようになって、この言葉には微妙な意味合いが含まれていることに気付きました。
 「やまとぅんちゅ」とは、「大和の人」と言う意味ですが、沖縄語辞典で牽くと、大和人、日本本土の「内地」の人。注釈として、ナイチャーは蔑称であるが、最近は普通の云い方として使われる、と書かれています。今では意識して使うことは無いと云うが、「ないちゃ〜」とは、本土の人間を呼ぶときの蔑称だったのです。
 薩摩侵攻、琉球処分は、琉球の人々にとって拭い去ることが出来ない重圧の歴史です。そこへもってきて、先の沖縄戦の苦しみが重なります。うちな〜んちゅう(沖縄の人)は、内地の人に痛めつけられた歴史がトラウマになって、内地人に対する否定的な精神構造になっているのです。そんなときの感情を表す言葉が「ないちゃ〜」なのです。沖縄を支配して来た内地人は、信頼出来ない存在だったのです。ただ、今の若年世代には、そのような感覚は残っていないと云います。
 沖縄の人の信条を知ることなく、耳に心地よく響いただけで「ないちゃ〜」の用語を使ってしまいましたが、今更ながら己の無知を反省しております。沖縄に住んで見て、沖縄の人々の複雑な心情が、少しずつ分かってくるようになりました。

 今回歩いたのは、沖縄本島中部の東側、太平洋岸に沿った地域です。何度かに分けて、那覇首里から北に続く西原町、中城村、北中城村、沖縄市、うるま市を歩きました。太平洋に突き出している勝連半島から、海中道路で繋がっている平安座島、浜比嘉島、宮城島、伊計島まで足を延ばしました。自動車で走れば、凡そ50qの距離ですが、あっちこっちの拝所に寄りながら歩いているので、優に100q以上は超えていると思います
ゆるりゆるりと、いつまでも歩き続けたいと思います。本年もお付き合いの程、宜しくお願いします。

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伊波按司の墓(いはあじのはか)・近年に遷移された墓所のようだ。元は何処にあったんだろう。

2017/12/29 19:38
 伊波按司の墓は、なぜか伊波城跡から少し離れた山城集落にある。按司墓は住居であった城跡の傍に在るものだと思っていたが、違った。伊波按司については、これまでに、あれこれ触れてきたので、この項では省略する。
 伊波小学校の反対側から、山城集落に向かって歩いた。石川バイパスを跨ぐ陸橋の手前を下り、バイパスに沿って南に向かう。左手の高台は住宅街になっており、バイパスの西側には、山城集落が広がっていた。10分ほど歩いたら、コンクリートの壁に、「伊波按司の墓」と記した標識が目についた。その脇から石段を上って行くと、按司墓の前に出る。自然に出来た岩盤の窪みを利用して造られた岩陰墓である。
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  いつの時代の伊波按司が葬られているのか分からない。初代の伊波按司なのか、五代に亘って続いたと云う歴代の按司が葬られているのか、説明されたものは無い。墓室の入り口が二つあるところを見ると、複数の按司が埋葬されていることが分かる。それぞれに香炉が置かれ、入口を塞いだ壁には四角い穴が開いていた。これまでにもいくつかの墳墓で見てきたが、空気孔のようである。死者の霊魂が出入りするための穴だとの言い伝えもある。
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 一段下がった所に、「伊覇按司之墓」(註:覇の文字が使われている)と彫られた石碑が建っているが、裏面に、「この新装の御墓、並びに参道は、全県下の伊波按司ゆかりの一門の御芳志によって建立されたものである。昭和57年旧7月7日」と、記されていた。今から35年前に、何らかの理由によって、他の場所から遷されたようである。
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 按司墓の下に、「伊波中門祖宗之墓」があるが、これには少し説明がいる。五代目の伊波按司は、第二尚氏三代目の王、尚眞王(在位:1477年〜1527)の中央集権化政策に伴って、首里に居宅を与えられ、移っている。士族に列せられ、伊波親雲上(いはべーちん)仲賢と名乗り、伊波地頭職を任じられたという記録もある。
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 伊波親雲上仲賢は、薫氏(とううじ)の始祖で、名乗り頭(名前の最初に付ける文字)は「仲」である。伊波按司直系の子孫と云われる島袋家が伊波集落に在って、屋号は仲門(なかじょう)と呼ばれ、神屋には、按司神、ウミナイビ(註:妃)の香炉の他に、稲の穂を運んだという伝説が残る鶴の香炉が祀られているそうだ。伊波按司の墓に来る前に訪ねたが、ごく普通の民家なので、許しもなく入って行くのは失礼であり、門前で手を合わせて来た。『伊波城跡を中心とした文化財マップ』には、「伊波仲門(いはなかじょう)」と、記されている。
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 「伊波中門祖宗の墓」(註:仲でなく中の文字が使われている)は、伊波親雲上仲賢を始祖とする先祖代々が祀られているのだろう。入口のコンクリート塀に、「昭和59年6月2日、公道布設により『くがちばんた』より遷移」と彫られた石板が嵌め込まれていた。「くがちばんだ」とは、場所を指すのだろうが、地元の方でないと、何処だか分からない。沖縄語で「ハンタ」とは崖、断崖を云うので、元は「くがち」と呼ばれた崖に祀られていたのだろう。
 按司墓に詣でた後、石川バイパスに沿って、さらに南に向かい、途中から栄野比集落に抜け、県道6号線に入って安慶名まで歩いた。栄野比集落で、「飼い喰い第一・食用うさぎ、ラパン・殖繁センター」の看板を見かけ、興味がわいたので寄り道をしようと思ったが、足に疲れがたまってきたので諦めた。
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  沖縄では食用にする山羊のことを「ヒージャー」と云うが、食用兎のことは何と言うのだろう。ラパンとはフランス語のようだが、看板にあるラパンは、兎の毛皮のことを指しているのかも知れない。商売になっているんだろうか。(2017.12.5)
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尚泰久の墳墓跡とウミナイ墓・1908年、所縁ある子孫により南城市玉城冨里へ遷移されている。

2017/12/26 14:59
 尚泰久の墳墓跡は、伊波小学校の脇から県道6号線を逸れて、石川消防署を通り過ぎ、国道329号線を横切った先の左側、住宅街の中にある。県道沿いに掲示されていた文化財マップを、しっかりと脳裏に覚え込ませて歩いて行った。
 尚泰久は、第一尚氏王統第六代の国王(在位:1454〜1460年)である。もともと、尚泰久王を含め、第一尚氏歴代王の墓は、首里池端町の天山陵にあった。七代目の王、尚徳の時代に重臣であった金丸、後の第二尚氏初代の国王尚円によるクーデターが起き、騒乱の最中、第一尚氏各王の近親者たちは、天山陵の破壊を恐れ、それぞれに遺骨を持ち出したと云う。その後、遺骨は旧臣から親族、子孫の間を転々としたようだ。
 泰久王の遺骨も天山陵かに、この場所へ密かに移葬されたと云われ、それを隠すために「クンチャー墓(乞食墓)」と呼ばれていたそうである。墳墓跡は、珊瑚石灰岩の岩肌にある洞窟で、薄く口を開いたような形をしている。説明板が無ければ、ただの岩の裂け目としか思えない。ただ、入口に並べられた石が、巨大な前歯を思わせ、不気味である。
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 金丸によるクーデターは、1470年のことだから、尚泰久の墳墓跡は550年に近い年月を経た遺構である。よくもまぁ、風雪に耐え、今日まで持ち堪えたもんだと思う。地元の人々によって語り継がれ、守護されて来たようだ。
 時代が下がって、1908年(明治41年)に、第一尚氏に所縁のある子孫によって、南城市玉城冨里へ遷移されている。以前、訪ねているが、崖の中腹をくり貫いて造った岩窟墓で、近年に子孫の方によって改修され、綺麗に整備されていた。同じ敷地内に屋良家先祖代々の墓所があったので、遷移に尽力された所縁のある人物とは、屋良家のご先祖様のことだろう。
 尚泰久の墳墓跡と隣り合わせに、「ウミナイ墓」があるが、こちらの墓所は、前庭がコンクリートの基壇で固められ、それらしい祭壇の設えもある。ウミナイとは、女性の神様のことで、尚泰久王の母か、あるいは乳母が葬られていると伝えられている。
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 1982年の発掘調査では石灰岩で造られた石厨子が3基あって、中央の石棺からは風化の進んだ人骨と、鳩目銭(註:琉球近世に流通した古銭)2枚、猪の第3臼歯が検出されたそうだ。ただ、尚泰久王の母が祀られていると云う確証は得られなかったと云う。清明祭には、伊波仲門(いはなかじょう)門中や泰久王に所縁のある人々が詣で、賑わうそうだ。(2017.12.5)
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伊波ヌル墓(いはのろばか)・茫々と茂った草叢に遮られ、詣でることは諦めた。

2017/12/23 17:45
 伊波城の入り口、鳥居の手前左側に、「伊波ヌンドゥンチ」の祠があって、火ぬ神が祀られていた。かつて、伊 波ノロ(神女)たちが、ロノグムイ(共同生活)をしていた「ヌール家(や)」があった場所だと伝わっている。
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 隣り合わせに、「神アシャギ」が建っている。地域によっては、「カンサジャー」とか、「カミハサギ」とも呼ぶが、ノロ(神女)を介して、祖霊神と集落の人々が交わる神聖な場所である。どちらも、平成3年12月1日に建立されたとあり、比較的新しい建物である。それ以前から、この場所に存在していた拝所なのかどうか、疑問が湧いたが、そこん所は分からない。
 道端の標識に、「伊波城跡」と「伊波ヌール墓」の案内板が並列して揚げられている。ヌール(ノロ)墓は、少し離れた場所にあるようだが、訪ねてみることにした。
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 標識に従って草の生茂った間道に入って行ったが、それらしき墳墓が見当たらない。標識には200mとあった筈だが、かなり歩いたような気がする。道は雑木林に遮られて途切れてしまった。
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 諦めて引き返す途中で、草叢の中に倒れている立看板に気付いた。黄色地に黒い文字が目についたので、雑草を踏み分けて引っ張り出してみたら、右矢印で「ヌール墓」と書かれている。なんだ、こんなに近くにあったのか、と思ったが、その先は、茫々と茂った草叢が続いていた。とても入って行ける場所ではない。この季節、ハブに噛みつかれる心配はないと思うが、諦めることにした。
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 墳墓には、伊波集落の祭祀を司った、歴代のノロ(神女)が葬られている。1994年(平成6年)の発掘調査では、琉球石灰岩の家形厨子甕、マンガン掛厨子甕のほか、生活雑器が見つかったそうで、甕からは2体分の遺骨が確認されたと云う。ただ、厨子甕には銘書は無く、埋葬者は分からないそうだ。墓の形式は、崖下の洞窟を利用した掘り込み墓で、1700年代に造られたものだろうと推定されている。
 墳墓の下には石川バイパスが通じているが、墳墓のある部分はトンネルになっている。伊波ヌール墓を保護するためだそうで、地元の人々にとっては、暮らしに密着した神聖な拝所である。今回は果たせなかったが、清明祭(本土のお盆に当たる年中行事)の折には、ヌール墓の周囲は地元の人によって草刈りが行われる筈である。もう一度、清明祭に合わせて訪ねてみたいものだと思う。(2017.12.5)
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伊波城 (いはぐすく)覚書・石積みの跡を辿ると、往時の面影が偲ばれる。

2017/12/13 15:57
 伊波城跡は沖縄本島中部、うるま市伊波集落の北東に続く丘陵上にある。城壁は、長い年月に亘って風雨にさらされ、崩壊が進んでいるが、それでも、石積みの痕跡を辿ると往時の面影を偲ぶことができる。自然の地形を生かし、野面積みで築いた城壁である。
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 城門の目印になっている鳥居を潜り、石段を上ると、左右から張り出している石積みが途切れた場所を通る。城門があったとされる場所で、その先は城郭が築かれていた本丸跡のようである。中央に祠があり、「中森城之嶽(ナカムイグスクノタキ)」と書いた標識が建っていた。拝所は北を背にして建っているので、伊波按司先祖の地、今帰仁への遥拝所なのかもしれない。
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 本丸の北東側が、琉球石灰岩に囲まれて一段高くなっている。上って行くと展望が開け、旧石川市の全貌が望め、金武湾を隔てた向こうには、与勝諸島が広がっている。おそらく物見台があった場所だろう。石灰岩が、ごつごつと突出した場所に、小さな祠があった。「三ツ森城之嶽(ミーチムイグスクノタキ)」と説明されているが、城の守護神であったのかも知れない。
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 本丸の東側に琉球石灰岩の塊を背にして、「森城嶽(ムイグスクノタキ)」がある。祠に並べられた石の様子からすると、火ぬ神のようである。その先には、東の城門跡が残っていた。
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 世紀の初頭、勢力を誇っていた北山の今帰仁世の主(なきじんよのぬし)が、後北山時代の初代の王、怕尼芝(はにじ)に滅ぼされる。1322年のことである。それまで支配していた一族は散り散りになって生き延びたが、その中の一人が伊波の地に逃れて築いたのが、伊波城であると伝わっている。
 伊波按司は次第に勢力圏を拡大し、子孫とその一族は、山田城主(恩名村山田)、大湾城主(読谷村大湾)、安慶名大川城主(うるま市安慶名)、勝連城主(うるま市勝連)、越来城主(沖縄市越来)、中城城主(中城村泊)など、地域の支配者として名を残している。伊波一族は、1320年代の半ばから凡そ一世紀の間、沖縄本島の中部で勢力を誇った按司一門であった。
 歴代の伊波按司は、折あらば、先祖の仇を討ち果たさんものと、時節到来を待っていたようだが、北山王国の権勢には叶わなかったようである。1416年のこと、怕尼芝(はにじ)・a(みん)・攀安知(はんあんち)と、三代に亘って続いた北山国は、中山国の尚巴志(しょうはし)と、その連合軍によって滅ぼされている。この戦には伊波按司一族も、尚巴志の軍勢に加わったと云い、仇敵を討って先祖供養を果たしている。
  伊波按司は、五代に亘って伊波城を居城としていたが、五代目の伊波按司のとき、第二尚氏三代目の尚眞王(在位:1477年〜1527)による中央集権化政策に伴って、首里に居宅を与えられ、首里城下に移っている。士族に列せられ、伊波親雲上(いはべーちん)仲賢と名乗り、伊波地頭職を任じられたと云う。
 城跡の発掘調査が1989年(平成元年)に行われているが、数回にわたって建て替えたと思われる無数の柱穴跡(ちゅうけつあと)が発見され、掘っ立て柱建物の存在が確認されたそうだ。大量の土器も発見され、その中には中国産の青磁や白磁、三彩陶器などが出土し、伊波按司の交易の広さを知ることができると云う。また、当時の人々が食べ残した貝殻や魚、猪の骨なども出土したそうだ。
 城跡の近くに伊波貝塚があるが、縄文時代後期、沖縄の時代区分では貝塚時代前期頃のもので、沖縄を代表する貝塚だと云う。大量の土器、石器、骨、貝製品が見つかっており、伊波城跡周辺に広がる丘陵は、3000年もの前から人々が住み着き、古代人にとっては重要な居住地であったようだ。(2017.12.5)
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伊波城跡(いはぐすくあと)の拝所・4か所あると云うのに、3か所しか拝めなかった。

2017/12/10 14:25
 嘉手苅観音堂を詣でてから、伊波集落に戻って来た。伊波城跡は、住宅街の向うに続く高台に在る。県道沿いに『伊波城跡を中心とした文化財マップ』が掲示されていた。それに、案内標識も建てられているので、上って行く道筋は直ぐに分かる。
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 14世紀の初頭まで、勢力を誇っていた北山の今帰仁世の主(なきじんよのぬし)が、1322年、後北山時代の初代の王、怕尼芝(はにじ)によって滅ぼされる。今帰仁を追われた一族郎党は、散り散りになって逃げ延び、その内の一人が伊波の地に築いたのが伊波城であると伝わっている。伊波按司の子孫一族は、次第に勢力圏を拡大し、沖縄本島中部を支配下に置いた時代があった。
 伊波城跡の登り口に鳥居が立っている。城跡に鳥居とは、なんとも不自然な取り合わせだが、今なお残る拝所との結界を意味するのだろう。それにしても沖縄の拝所に鳥居は相応しくない。戦前の日本には皇国史観なるものがあって、神である天皇が治める国だという理由から、神道の象徴である鳥居の設置が強制されたようだ。違和感を覚えるのは、私だけではないだろう。
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 鳥居を潜って石段を上って行くと、崩壊の進んだ城門を抜け、城郭跡の広場に出た。巨木の下に祠があって、脇に「中森城之嶽(ナカムイグスクノタキ)」と書いた標識が建っている。祠は、北を背にして建てられているので、今帰仁城への遥拝所であったのかもしれない。先祖を偲び、祈りを捧げた拝所だろう。
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 広場の東側には、琉球石灰岩の塊を背にして、「森城嶽(ムイグスクノタキ)」の祠がある。陶器製の白い香炉が一基安置されていた。ご神体を見ると、なんとなく「火ぬ神」のようである。
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 広場の北東側が、突出した琉球石灰岩に囲まれて一段と高くなっている。おそらく物見台があった場所だろうと思う。或いは、本丸があった場所なのかもしれない。その向こうは断崖になっていて、危なくて近寄れない。ごつごつした岩場に小さな祠があって、標識に「三ツ森城之嶽(ミーチムイグスクノタキ)」とあった。香炉が一基、あとは雑然と、砕かれた石灰岩が並べられている。ご神体にしてはお粗末だが、かつては、城の守護神が祀られていたのだろう。
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 上ってくる前に見て来た文化財マップには、4か所の拝所があると説明されていたが、あと一か所「カチヌハナ」が見当たらない。その名から察すると、「石垣の端」に在るのかもしれないが、足元の覚束ない年寄りには危険な場所で、探すのは諦めた。高台から眺める風景は素晴らしい。旧石川市の全貌が望め、金武湾を隔てた向こうには与勝諸島が広がっていた。
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(2017.1.5)
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嘉手苅観音堂(かでかるかんのんどう)・観音様の姿が見えない観音堂だった。

2017/12/07 15:52
 那覇から77系統のバスで1時間30分の旅、東恩納で下車して歩き始めた。いつものことだが、ローカルバスで、こんなに長い時間、座席に座っている乗客はいない。下車するときに運転手さんから、大きな声で「ありがとうございました。」と声をかけられた。伊波集落を抜けて、石川バイパスを横切り、嘉手苅集落に入った。嘉手苅観音堂は県道6号線に面しており、直ぐに分かる場所に在る。
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  お堂はコンクリート造りで、黄色く塗られている。屋根は赤瓦で葺かれ、本土の観音堂とは趣が異なる。祭壇の中央には、天井から大きなヘラのような形をした金属板が下がっていた。表面に観音像が彫られているのかも知れないが、薄暗くてよく見えない。祭壇の上に観音堂と書かれた扁額が掛かっていて、西暦1949年2月吉日再建立と書かれていた。今の観音堂は昭和24年に再建されたようである。
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 本堂の入り口に、嘉手苅観音堂の縁起を書いた説明板がある。そこには、『紀伊の国から金武の福蔵に漂着した僧(日秀上人)が、伊波按司に勧めて建立されたと伝わる。』と書いてある。日秀上人(1503年〜1577)については、これまでにも触れたことがあるが、補陀落渡海を実践した捨身行者で、沖縄本島の金武富花津海岸に漂着したと伝承される僧である。金武観音寺の開基と云われ、那覇市にある波上宮の別当寺、護国寺を再興した僧であったとも伝わっている。
 日秀上人が琉球に滞在したのは、1527年、もしくは1528年から1545年の凡そ18年間だと云われているので、嘉手苅観音堂の歴史は古い。ただ、この頃に日秀が建立を勧めたと云う五代目の伊波按司が、その領地を支配する権力者であったのかどうか疑問が残る。と云うのは、尚眞王(在位1477年〜1527)の時代には中央集権化が進み、伊波按司の居宅は首里に移されている。どこか曖昧だが、権威付けの後付け伝承だろうから、拘るのは止めておく。
  創建された場所は、伊波集落にあるノロ殿内の西側だったと説明されている。二度の火災にあって、伊波按司は嘉手苅集落の根人(二―チュ・村の創設者)に命じて、いま在るお堂の西側に移したと云うが、そこでも火災に遭って再移転したのが現在の場所だそうだ。観音堂の扁額には、1947年再建立の文字が読めるが、戦後間もない時期で、沖縄戦によって破壊され、再建されたのだろ。それにしても、何度も災難に遭いながら、今日まで生き延びてきた観音堂である。地元の人々が、長い年月に亘って護り伝えて来た観音信仰の力強さを感じるのである。(2017.12.5)
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「浜千鳥の歌碑」・何故浜千鳥の歌碑が具志川に? 聞くは一時の恥、教育委員会に尋ねてみた。

2017/11/29 10:41
 先日、うるま市の具志川集落を歩いていたら、県道わきに「浜千鳥の歌碑」と書いた標識を見かけたので、脇道に入って行った。浜千鳥の歌碑は、作詞者である鹿島鳴秋に所縁のある新潟県柏崎市と、千葉県南房総市に建立されている。「青い月夜の濱べには、親をさがして鳴く鳥が・・・」の詩が、弘田滝太郎の哀調ある曲にのせて歌い継がれている。その浜千鳥の歌碑が、どうして、遠く離れた具志川の海岸に建っているのか、不思議に思いながら砂利道を歩いて行った。歌碑は道の突き当りに、海の岩場を背にして建っている。
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 そこには、次のような琉歌が刻まれていた。
   
   たびやはまやどぅい  (旅や 浜宿り)
   くさぬふぁどぅまくら  (草の葉と枕)
   にてぃんわすぃららん  (寝ても忘らゝぬ)
   わやぬうすば  (我親のおそは)
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  この詩は、首里王府で汚職事件に巻き込まれた役人の伊波里主が、都を追われて具志川赤野の浜に身を隠し、首里に残した親を偲びながら詠んだ歌だと云う。石碑に刻まれた琉歌の何処にも千鳥はおろか、鳥の文字すら見られない。何故に浜千鳥の歌碑なのか、歌詞を目で追いながら疑問が沸き上がって来た。ただ、鹿島鳴秋が作詞した浜千鳥の詩とは、全く関わりのないことだけは分かった。
 歌碑の文言の中に「浜宿り」の文字がある。「はまやどり」をもじって、「はまちどり」としたのか。まさか、そんなことが在るはずはない。まっ、「や」と「ち」が異なるだけで、似ている文言ではある。
  気になるので、後日うるま市の教育委員会文化課に電話して歌碑の由来を尋ねてみた。琉球舞踊の定番に「浜千鳥」があり、歌詞の一番目に、この琉歌が謡われているそうだ。伊波里主が詠んだ琉歌に、民衆が歌詞とメロディを付け加え「浜千鳥節」として歌い継がれて来たと云う。
 1887年(明治20年)に琉球舞踊家の玉城盛重が、村芝居の演目として女性四人組の踊りに創作して演じ、評判をとったと云う。今では、沖縄の人にとって「浜千鳥」と云えば、琉球舞踊の浜千鳥を指し、実にポピュラーな存在なのだそうだ。説明した担当者の口調が、分かり切ったことを聞かないで欲しいなぁ、という雰囲気に変わって来た。年寄りの詰まらん疑問に付き合って頂いて、有難う御座いました。無知な己を恥じたが、聞くは一時の恥だ。(2017.11.20)
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