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沖縄拝所巡礼・ときどき寄り道
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 縁あって東京から沖縄・那覇へ移住した。ついに我が人生、第4コーナーを回ってしまった。正面にゴールが見える位置だけど、これまで、がむしゃらに歩き続けてきたので、これからはペースを落として、のんびり、ゆっくりとゴールに向かって歩くことにする。
 少しでも好奇心が残っているうちに、琉球王朝の歴史に想いを馳せながら、沖縄拝所の巡礼を続けたいと思う。
 ナイチャー(内地の人)の感性で、良き沖縄の日常をヤマトンチュウ(大和の人)に向けて発信して行きたいと考えている。
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山原(やんばる)の峠を越えて来た。

2018/04/22 09:18
 名護市の東海岸、米軍施設キャンプシュワブのある辺野古から、やんばるの峠道を越えて、名護の市街地まで歩いてみようと思った。沖縄本島の横断道路、およそ10qの行程である。那覇から高速バスを利用して宜野座ICで下車し、そこからローカルバスに乗りかえて辺野古までやって来た。
 その昔、琉球王府は各地の間切(まぎり・行政区画で今の市町村)を結ぶ宿道を整備していた。沖縄本島の中部、北部、南部を東西のルートに分けで結び、一定の距離ごとに宿駅(宿場)を設け、王府からの文書を、各間切に、速やかに伝達するシステムが機能していたと云う。
 その宿道の一つに国頭方東海道(くにがみほうとうかいどう)がある。道筋は、首里から西原間切、宜野湾間切、越来間切、美里間切、金武間切、久志間切へと、東海岸沿いを北上し、今の名護市瀬嵩集落から山原(やんばる)の森林地帯を越えて、西海岸の羽地間切から大宜味間切、国頭間切へと通じていた。
 これまで拝所巡りをしながら、国頭方東海道の道筋に沿って歩き、先日には、金武間切から久志間切に入り、久志観音に詣でてきた。これから名護間切、羽地間切へ進むには、山原(やんばる)の森林地帯を横断しなければならない。国頭方東海道は、概ね今の県道18号線に沿って、やんばるを越えていたようだが、この日歩いたのは、その南側に並行して走る国道329号線である。
 辺野古のキャンプシュワブ第二ゲイトを過ぎると、亜熱帯特有の濃緑で、背の高い樹木が密集した山原(やんばる)の森に入って行く。もう、この先、西海岸の世冨慶(よふけ)集落まで人家は無いようだし、バス停が一か所、二見集落の入り口にあるだけである。
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 晴れ間が覗き、歩くには最適な陽気だが、キャンプシュワブの拡張工事が続いていて、石材を運ぶダンプカーが、引きっきり無しに走り抜け、その騒音は凄まじい。静寂で、奥深い森林に浴する心地よさを味わうことは出来ない。一度ならず二度までも、疾走するダンプカーの風圧で、帽子が飛ばされ、慌てて拾いに走る始末である。
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 二見集落へ通じる331号線が分岐した先に、堆積地層がむき出しになった山肌があった。詳しいことは知らないが、数千万年以前、深海に堆積していた地層が、地殻変動によって隆起した場所で、このような地層は、沖縄本島の中部から、北部の東側に分布しているそうだ。一方、沖縄本島南部は、サンゴ礁が隆起した地層で、北部と南部では地層の創成過程が異なっている。沖縄本島は、地殻変動によって隆起した地層の異なる島が、ぶつかり合って繫がって出来たそうだ。その場所が、うるま市の北側、金武湾から、西海岸に線を引いた辺りで、沖縄本島で東西の幅が一番狭い場所になっている。
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 その先、地図で見ると、地図で見ると、二見入り口のバス停がある東側に「観光闘牛場」があるので、寄ってみることにした。ところが、闘牛場の看板は雑草に囲まれ、屋根にはぺんぺん草が生えている。入口は立派な門構えだが、縄が張られて通行止めになっていた。奥に続く道は、雑草が茂るに任せて放置されている。明らかに閉鎖されていことは分かるが、好奇心に駆られて、どんな施設があったのか、坂道を上って行った。
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 なんと、そこには、斜面を利用して太陽光発電のパネルが設置され、遠くまで広がっていた。「いちご名護二見ECO発電所」と書かれている。「いちご」とは、「一期一会」から採られた名のようだが、何で太陽光発電所と一期一会が繫がるのか、そこんところが分からない。
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 再び歩き始めた。見晴らしの良い場所に出たので、しばらく休憩した。やんばるの森は、波打って深々と続いている。亜熱帯ジャングルの向こうに、標高385mの多野岳が霞んで見える。静寂の中で、やんばるの森を眺めるのは、暇つぶし老人にとって、至上のひと時である。・・・のはずだが、連なって坂道を登ってくるダンプカーの爆音は凄まじく、気分が殺がれてしまった。
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 下り坂が続き、旧道の入り口に軽自動車が止まっていた。人影がするので近寄って見たら、虫取り網を持った老人が、大きなビニール袋を提げて立っていた。挨拶を交わして、ビニール袋の中身を尋ねたら、やんばるの森に棲む昆虫を採集しているのだと云う。3p位の大きさで、背中に赤い斑点のある綺麗な虫だった。虫篭に入れて眺め、楽しんでいるそうだ。虫の名前を伺ったけれども、忘れてしまった。しばらく会話を続けたが、移住して4年目、未だに老人の沖縄語は、その半分も理解できない。丁寧に話を続けてくれた老人に感謝し、多分、とんちんかんな受け答えをしいただろう、己の失礼を詫びねばならぬ。
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 道端に、「名護親方程順則(なごうえかたていじゅんそく)」と記した立派な説明板が建っていた。程順則(1663年〜1734)は、那覇の久米村に生まれ、近世の沖縄を代表する学者・文人で、教育者として人材の育成に努めた人物だそうだ。琉球で初めての学校「明倫堂」を建てたと云う。21歳の時に中国に留学して以来、琉球王府を代表する使節として、何度も中国に赴き、貴重な文物を持ち帰り、中国文化の普及に努めたそうだ。66歳の時に、それまでの功績によって、名護間切の総地頭(名護親方)に任命され、後には、その人格と素養、徳によって「名護聖人」と尊称されたと云う。
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 江戸期に道徳の書として用いられた「六論衍義(りくゆえんぎ)」は、程順則が中国より持ち帰り、翻訳して自費で出版し、薩摩藩を経由して八代将軍吉宗に献上されたと云う。因みに「六論」とは、孝順父母、尊敬長上、和睦郷里、教訓子孫、各安生理、母作非為で、寺子屋の教科書にも採用されていたそうだ。
 名護親方程順則の案内看板を建てたのは、名護市教育委員会・北部国道事務所である。普通だと、住居跡や役所があった場所に建てられるものだが、こんなにも市街地から外れ、人も歩かない峠道に建てられているのが奇妙に思われた。北部国道事務所の名があるところを見ると、この場所を起点(あるいは終点)として建設された「長堂橋」と関りがあるようだ。
 長堂橋は、世冨慶峡谷に覆い被さるように、緩やかなカーブを描いて下って行き、世冨慶集落の入り口まで、凡そ1qに亘って続いている。眼下には、谷間を縫うように蛇行する世冨慶川が流れていた。
 この、長堂橋の橋詰に名護親方の像が設置されている。どこを探してみても説明されたものは無いので、程順則と長堂橋が結びつかないのだが、明らかに名護親方の像である。橋の両詰、左右の都合四か所に設置されていた。
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 久志間切のあった名護市の東海岸に、久志の地名が残っている。山中襄太『地名語源辞典』1995年・校倉書房の記述に、久志は奄美から沖縄本島に分布する地名で、「くし」は「越す」の意味であり、古語の当て字だと解説されていた。また、沖縄語辞典(内間直仁・野原三義編著 2006年 研究社)で「くし」を見ると、@腰。背中。A後ろ。後方の意と説明されている。
 久志間切は、名護間切と、やんばるの森林地帯を挟んで、背中合わせに立地している。名護間切から、やんばる山地をくし(越え)た、くし(後ろ)に在るのが、久志間切である。
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 濃緑の森を縫うようにして続いた長堂橋を歩き終えると、視界が開けて、世冨慶集落の向こうに名護湾が広がり、遠くに本部半島が霞んで見えて来た。

(2018.4.18)

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久志観音堂(くしかんのんどう)・お寺のお爺さん、ティラヌタンメーの石像、こりゃ国宝だ。

2018/04/15 11:54
 久志若按司の墓から50mも山手に向かうと、左に折れる道があって、観音堂と書いた札が下がっていた。樹木が茂った奥の方に、大きな石灯籠と赤瓦のお堂が見えてくる。お堂に覆い被さるように、がじゅまるの巨木が広がっていた。かなり年月を経ているお堂で、古色蒼然とした佇まいである。久方ぶりに、般若心経を唱えた。
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 昭和48年(1973年)に修復されたそうで、建材は全てチャーギ(イヌマキ)が使われているそうだ。横道にそれるが、チャーギは湿度や、シロアリなどの害虫に強く、沖縄では建築用材や仏壇などに使用され、重宝されている。古くから貴重な樹木とされ、その枝は神に供える植物として、本土の榊(さかき)と同様に、大切に扱われている。沖縄に移住した当時、スーパーにチャーギの葉っぱが売られているのを見て、使用目的が分からず、不思議に思ったものだ。
 久志集落の人々は、この観音堂のことを「ティラ」と呼び、祀られている観音石像を、親しみを込めて「ティラヌタンメー」と呼んでいるそうだ。沖縄語で「タンメー」は、祖父、あるいは老爺を指すので、「お寺のお爺さん」と云うことになる。「山寺の和尚さん」と同義語だろう。
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 久志観音堂は、琉球王府が編纂した史書「球陽」の記事から、1688年に、この地の総地頭であった豊見城王子朝良と、久志親方助豊によって建立されたことが分かっているそうだ。この時に奉納されたのが「ティラヌタンメー」こと、観音石像であると云う。
 観音石像の由来について、名護市ホームページに記載されていたので、要約して記すと、「その昔、首里の役人が勤めで唐に渡り、そこで、美しい観音像に出会い、役務を終え、その観音様を船に積み、沖縄へ持ち帰って来た。首里に近い港で降ろそうとすると、観音様が『久志グヮーかい、久志グヮーかい』と喋ったと云う。そこで久志に観音堂を造って祀った。」そうだ。久志観音堂が建立された1688年と、中国・唐の時代とは整合性が取れないが、唐と云えば、中国の代名詞なのだろう。由来記なんだから、そんなことは、どうでもよいことにしよう。
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 観音石像の高さは1mほどである。経年変化が激しく摩耗しているので、観音様の造形は判別できるが、表情や衣、持ち物などは一切分からない。顔から頭部が長く伸び、その凹凸からして、なんとなく十一面観音を思わせる。左手で杓文字のような形をした何かを持ち上げているが、これも、何を意味するのか分からない。330年前に奉納された中国渡来の観音像が、今に至るまで、そのままに残されているのだろうか。だとすれば、国宝級だと思うのだが。(2018.3.28)
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久志若按司の墓(くしわかあじのはか)・組踊り、「久志の若按司」の主人公が祀られている。

2018/04/13 17:46
 按司とは、琉球古代における首長・豪族の呼称で、久志に居城を構えた久志按司の二代目が、久志若按司である。
 宜野座村から、国道329号線を北上して名護市に入ると、最初の集落が久志である。集落に通じる旧道の入り口に、「歴史の重み・久志の観音堂。組踊り・久志の若按司の里。子宝祈願・ドウドイ。」と書いた大きな看板が建っている。久志集落の見所のようだ。
 案内看板から凡そ1q、久志の集落を抜け、海沿いに出ると、直ぐ左手の石垣の上に、海を背にして祠が建っている。久志若按司の墓は、鳥居を潜って詣でるようになっていた。何度も触れて来たが、沖縄の拝所、それも按司墓に鳥居は似つかわしくない。
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 これまでに訪ねた多くの按司墓は、居城跡の間近にあって、ほとんどが岩の窪みや、洞窟を利用した岩陰墓か横穴墓である。祠に祀られる按司墓は珍しい。墓前に安置された香炉には平御香が焚かれ、煙が漂っていた。お参りに訪れた方があったようで、坂道を上って来る途中ですれ違ったご夫婦のようだ。久志若按司の血筋を引く子孫の方かも知れない。
 祠の屋根は、軒が反り返った唐破風で、方形になっている。石造りの墓室と一体になって、大きな御神輿が置かれた様である。傍らに「久志之若按司之墓」と刻んだ石碑が建っていた。
 境内の端に、詳しい系譜を記した墓誌、「久志若按司之系統・並ニ由来記」の碑が建っている。初っ端に刻まれている文字は、伝説の王統、「初代天孫氏後裔恵祖世主」で、英祖王の名があって、湧川王子の名があり、次々と、伝承で語られている支配者の名前が刻まれている。何とも仰々しく思えるのだが、墓誌なんだから、箔付けが必要なのは分かる。
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 久志若按司は、うるま市にあった安慶名城主の初代安慶名大川按司の孫に当たる人物のようだ。系図を遡ると、14世紀前半に伊波城を築いた初代伊波按司から、仲昔今帰仁按司第四代の丘春(?〜1322年)に辿り着く。
 墓誌は、昭和11年に建立されたとあるが、それにしては、良く保存されていて、何とか読める。ただ、難しい文章表現に出くわすと、憶測で読むしかない。伝承のご先祖様はとも角として、子孫について記されている文章に、「久志小村徳森屋ノ持チ崇メタル共徳森屋ノ跡目ナキ為メ一時ハ他血ヨリ入婿トナリテ元祖ヲ持チ崇メ是レヨリ後ハ若按司ノ子孫赤平屋(今ノ蔵ン当)ト云ウ家内ヨリ持チ崇メトナル」と、ある。先ほどすれ違ったご夫婦は、ここに記された若按司の子孫、赤平屋に関りのある方かも知れない。
 久志按司が居城とした久志城は、按司墓の背後に広がる「アタイ」と呼ばれる高台に在ったそうだが、今では、雑木が鬱蒼と生茂り、足を踏み入れることは出来そうにない。それに、城跡の痕跡は残っていないらしい。
 雲踊り、「久志の若按司」は、仇討物語の傑作とされる作品で、粗筋は次のようである。今の、うるま市にあった「具志川城主の天願按司は、配下の頭役であった謝名大主の騙し討ちにあい殺害される。遺児となった天願若按司と妹の乙鶴は、逃げ延びる途中で、謝名大主の臣下である富盛大主に捕らえられる。それを知った分家筋である久志若按司は、二人が幽閉された東恩納番所へ向かい、救出に成功する。久志若按司は、その時に捕らえた富盛大主に偽りの情報を流し、敵方同士を仲違いさせる罠を仕掛ける。罠とは知らずに、久志城に攻め入った謝名大主は捕えられ、天願若按司は、久志若按司と協力のもとに父の仇を討った。」と云う物語である。天願若按司と久志若按司は、従兄弟同士になる。
 久志若按司の墓から、久志集落の方へ150mも戻ると、通りの奥に「久志之若按司位牌安置所」が見える。石塀に囲まれ、赤瓦の社殿があって、境内は綺麗に掃き清められていた。祭壇には「歸真 久志按司 久志若按司 霊位」と書かれた朱塗りの位牌が祀られている。生けられたばかりの生花が並び、整えられた祭壇には、三基の丸い香炉が安置されていた。
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 位牌安置所の脇に、「祝女殿内(のろどぅんち)」があり、祭壇には位牌が安置されているが、暗くて法名の文字が読めない。右側には香炉が安置された拝殿が二つ並んでいた。火ぬ神のようでもあり、そうでもなさそうである。赤い箱が置かれていたが、賽銭箱のようなので、遠くから投げられるように、重みのある百円硬貨を取り出して納めて来た。うまく入った。
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 祝女(のろ)は、琉球王府の時代に、「聞得大君」を頂点とした神女組織に属し、集落の祭祀を取り仕切る神官で、今で云う国家公務員である。狭い沖縄だが、地域によっては「ヌール」、「ヌル」とも発音する。てくてく歩いている私の感じでは、「ヌル」と発音する集落の方が多いように思える。
 祝女殿内と小路を隔てて、祖霊神を招き、祭事を行う社殿、「カミアシャギ」が建っていた。この一帯は、久志集落の聖域のようである。首里から遠く離れた集落ほど、祖霊神を身近に感じる雰囲気が漂っている。(2018.3.28)
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惣慶宮 (そけいぐう)・戦前の日本は、祖霊神を祀るマチョウガマ御嶽を神社に変えてしまった。

2018/04/07 13:50
 タコライス発祥の地、金武町から国道329号線を、ひたすら宜野座村に向かって歩く。少し内陸に入ったようで、海が見えなくなった。再び海が望めるようになると、宜野座村の漢那集落に入る。道の駅「ぎのざ」で、しばらく休憩した。
 漢那集落を過ぎて、目指す惣慶宮へ通じる農道に入って行った。惣慶の集落は丘陵地帯に広がっていた。さて、惣慶宮の場所を尋ねようにも、人の姿が全く見えない。緑が茂る森を目指して歩いて行ったら、突然、左手奥に鳥居が現れた。
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 境内の全域が児童公園として整備されていた。鳥居を潜り、右手に続く遊歩道を辿って行くと、社に通じる石段の下に出る。社殿の軒に揚げられた注連縄と云い、祭壇に張られた幔幕と云い、佇まいは本土で見る村の鎮守様と何ら変わらない。ただ、屋根は沖縄独特の赤瓦で葺かれている。
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 通りに面して、縁起を記した案内板が建っていた。「惣慶のアガミ(お宮・マチョウガマノ嶽)」とあつて、由来が説明されている。目の前に広がる森全域が御嶽で、アガミ山と呼ばれ、惣慶集落の祖霊神が祀られていたと云う。アガミは「拝み」が変化したものだろう。惣慶の古い集落は、このアガミの森に祀られた御嶽を起点にして、海沿いに向かって扇状に広がっている。集落をしっかりと支える腰の位置に、守護神を祀ったようだ。
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 日本が第二次大戦に突入した翌年、昭和17年(1942)に、今の社殿が造られ、那覇市若狭の波上宮から分祀された神を祀ったそうだ。明治以降、日本には皇国史観なるものがあり、第二次世界大戦が勃発すると、小学校(国民学校)では、「日本は強い国、世界に一つの神の国・・・」と、教えられていた。政府は、国家神道を唱え、その普及に努め、その結果で「御嶽に鳥居」と云う、実に滑稽な風景になってしまった。祖霊神を祀る御嶽を神社とみなし、鳥居の建立を強制したようで、当時の時代背景は、住民が反対できる状況にはなかった。
 由来を記した文章に、「その後、アガミ山は、お宮と呼ばれるようになりました。」と、書かれていた。行間からは、深い悲しみと怒りが伝わってくる。それまでは、「マチョウガマ御嶽」と呼ばれ、入り口には香炉が並べられ、人の手を加えない自然のままの聖域として、深い森の中に祖霊神が祀られていたのである。
 帰り際、またまた方角が分からなくなってしまった。折よく通り合わせた男子中学生に宜野座ICまでの道順を尋ね、来た道とは反対側の坂道を下って行った。(2018.3.21)
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金武観音寺(きんかんのじ)・日秀上人は、薩摩藩の特命を受けた外交官ではなかったのか。

2018/03/31 15:27
 再び、金武観音寺を訪ねた。補陀落渡海を実践した捨身行者の日秀上人が、琉球金武の浜に漂着し、洞窟を霊場として金武宮を構え、洞窟の上に金武観音寺を建立したと云う伝承がある。
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 観音寺の境内は広々としている。本堂は古い建物だが、昭和17年(1942)に再建されたそうで、先の沖縄戦では焼失を免れている。祭壇の正面には、聖観音菩薩像、右側には阿弥陀如来像、左側には薬師如来像が祀られ、両脇の空間には曼荼羅図会が掛かっていた。さらに右側に設えられた祭壇には、大日如来像が祀られている。若い男女の三人組が、祭壇の前で手を合わせていた。
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 境内の隅に日秀洞の入り口がある。日秀上人が霊場を開き、熊野三所権現を祀ったと伝わる洞窟である。鍾乳洞は、地表から深い角度で下に向かって続いている。地下に向かって数メートルも進むと、左側に説明板があって、当山鎮守「金武権現」とあり、「仏教の観音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来を本地仏とした熊野三所権現、事解男尊(ことさかおのみこと)、伊勢冊尊(いざなみのみこと)、速玉男尊(はやたまおのみこと)が合祀されています。」と書かれていた。この金武権現宮を管理する別当寺が、金武観音寺である。洞窟は更に地下深く続いている。「大仏天蓋」と名付けられ、日傘を吊るしたような鍾乳石が垂れ下がっていた。布袋様が鎮座した拝所もある。
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 日秀上人は真言密教と観音信仰、熊野信仰を合わせ持ち、琉球に残した寺社の開基、加持祈祷の類を含め、数多くの事蹟を残している。多面的な日秀上人像から、本土で語られる弘法大師の行状伝承を思わせる。日秀上人については、これまでにも学ぶ機会があったが、私流の勝手な解釈(妄想?)を含め、もう一度整理しておくことにした。
 日秀上人(1503年〜1577)が琉球に漂着した時期は、1527年から、1534年の間と推定されている。薩摩に残されている日秀に関する史料からは、1528年であるとする説が有力だと云う。また、琉球に滞在した期間だが、1527年、もしくは1528年から、1545年迄の凡そ18年間ではなかったかと推定されている。
 日秀上人は、真言密教と観音信仰、熊野信仰を布教すると云う、明確な目的を持って、琉球に渡って来た僧侶だろうと思う。薩摩から島伝いに南下し、沖縄本島の東海岸に上陸したと考えた方が現実的である。
 日秀上人は、補陀落渡海を実践した捨身行者であったと伝わっているが、そのことを、多くの人が疑わず、今や定説になっているようだ。しかし、それは単なる伝承ではないかと思う。「補陀落渡海行者」と云う呼称は、今風に云えばキャッチコピーのようなもので、日秀上人が布教活動を行うときに自称し、煽り文句に使ったのではないかと思う。
 日秀上人の事績として実証できるのは、金峰山三所権現(金武観音寺・金武権現宮)の創建と、衰退していた波上宮と護国寺(いずれも那覇市若狭)再興の僅か二つに過ぎないと云う。語り継がれる事蹟の多くは、日本から渡来して来た、名もない遊行僧や隠遁僧、勧進僧たちの業績が、日秀上人の名のもとに語られていると思った方が良い。
 日秀上人が琉球に渡って来たとされる1527年は、尚真王が亡くなり、尚清が王位に就いた年である。尚真王は、琉球王国の基礎を固め、黄金時代を築いた国王であった。琉球が国家として着々と実力を蓄え、奄美諸島から八重山諸島に至るまで、確実に版図を広げた時代である。薩摩藩にとっては気になる存在であったはずだ。例によって、私の妄想だが、日秀上人は、薩摩と琉球を結ぶ鎖の役割を帯び、尚清が王位に就いた時期をとらえて、薩摩藩が送り込んだ隠密的な外交官ではなかったのか、と思う。
 金武の浜に上陸したと伝承される日秀上人は、金観音寺を創建し、布教活動を続け、近郷の村人たちに慈善を尽くしたようである。日秀上人の評判は、やがて琉球王府が知ることになり、首里に招致されたに違いない。この時、日秀上人の最初の目的は達成されたのである。
 日秀上人が携わった、波上宮、護国寺の再興は1544年とされているが、護国寺は、琉球国王代々の国家鎮護の祈願所である。このことから、琉球王府は、日秀上人を庇護し、宗教活動を側面から助成していたと考えられる。日秀上人は、地道な布教活動によって、琉球王府の信頼を得ていたのである。
 日秀上人は布教の目的をもって、かつ周到な準備のもとに琉球に渡って来たに違いない。薩摩に残された史料からは、波上宮、護国寺の再興がなった翌年の1545年(頃)には、薩摩に戻っている。日秀上人は、琉球に渡った目的が達成されたと判断したのだろう。琉球と薩摩の友好関係を結ぶことが、日秀上人の最終的な目的であったのかもしれない。
 ところが、ところが、日秀上人が琉球を去って、凡そ半世紀が過ぎた1609年に、薩摩軍が琉球に攻め入っている。琉球王府は和睦を求め、全面的な抵抗を試みてはいない。一方的な戦いに終わり、琉球王国は、この時から実質的に薩摩の属国としての歴史を歩むことになる。ここで、日秀上人の遺志は潰えたのである。・・・と、私は考える。(2018.3.21)
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伊芸の僧侶墓(いげいのそうりょばか)・補陀落渡海を実践した捨身行者かと・・・、妄想でした。

2018/03/25 11:03
 金武町(きんちょう)伊芸の集落に、僧侶が葬られた墓があると云うので訪ねることにした。金武町には16世紀の半ば、紀伊の国、那智から補陀落渡海を実践し、金武海岸に漂着した捨身行者、日秀上人が創建したと伝わる金武観音寺がある。そんな背景もあって、伊芸の僧侶墓には補陀落渡海に船出し、漂着した捨身行者が葬られているのではないか、と思ったからである。
 金武インターチェンジで高速バスを降り、歩き始めた。伊芸橋の東詰を山手に向かって入り、200mも歩くと道が二股に分かれ、その向こうに高台があって、手すりの付いた石段が見えてくる。・・・と、書いてしまえば簡単だが、この場所を探し当てるまでに、2時間近くも、集落の中を行き来していた。ろくに調べもせず、伊芸の集落に僧侶墓があるらしい、と云うだけで訪ねて来たのが間違いだった。
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 ノロ家の敷地内にある拝所で、拝みをされている二人組の老婦人に挨拶をして、僧侶墓の場所を伺ったが、分からないと云う。近くの「さくまつこうえん」をぐるりと一回りしたが、それらしき拝所は見当たらない。行ったり来たりを繰り返している私を見て、田植え中の婦人が声をかけてくれたが、やはり、僧侶墓は分からないと云う。
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 ついには諦めて、集落の中ほどにある「がじまる公園」で休憩することにした。金武町指定文化財で、推定樹齢300年と云うガシュマルの巨木があった。奥の方に自販機があったので、スポーツドリンクを買い求め、引き返す途中に目に付いたのが、伊芸エリアマップの掲示板である。風雨にさらされて消えかかっているが、かろうじて、「坊主森・山里和尚の墓」と書かれた文字が読めた。あぁ、そうなのか、僧侶墓ではなくて、「山里和尚の墓」、と尋ねるべきだったのだ。先ほど、道路工事中で、重機に行く手を阻まれ、引き返した先の高台にあることが分かった。
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 吹き抜けになった拝殿の向こうに、二基の墓碑が建っている。頂部が丸みを帯びた坊主墓である。無縫塔(むほうとう)と呼ぶそうで、これまでに見た坊主墓は、全体が卵型になっていた。左側に建っている石碑の上部中央に、梵字で「ア」の文字が彫られ、その下に「大清康熙五十九年 権大僧都法印頼宥□□ 庚子十月二十二日去」、と記されているのが読める。康熙五十九年は、中国清時代の年号で1720年に当たる。この年に、頼宥(らいゆう)和尚は入滅している。
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 梵字の「ア」だが、漢字の天に似て、右側に縦棒が入る。刻まれた文字が、梵字だろうと気付いたのは、那覇に帰る途中のバスの中である。もう、いつの事だったか忘れてしまったが、知人の法事に参加して、墓碑に刻まれた梵字の意味を住職に伺ったら、「アは、万物の本源を表す言葉です。」と、教えられた。私には理解不能である。そういえば、狛犬も沖縄のシーサーも、口を拓いた「阿(あ)」と、口を閉じた「吽(うん)」で一対になっている。「ア」が万物の根源で、「ウン」が一切の帰着を表す、と解釈するらしい。

 伊芸では、頼宥のことを山里和尚と呼んでいることが分かった。その昔、いつの頃か伊芸村にやって来た修行僧が、布教のかたわら農業を振興し、村落の開発に貢献したので、住民からの徳望を一身に集めたと伝承されている。山里家の娘を娶ったのか、子孫は伊芸集落の山里家だと云う。山里家には、明治に至るまで経文や僧衣、仏具が保存されていたそうだが、ユタ(巫女・霊媒者)の誣言によって、ことごとく焼き払われたと云う。
 インドの南端にあって、観音菩薩が降臨したと伝わる聖地、補陀落を目指して船出することを補陀落渡海と云い、密閉された船に閉じこもり、捨身の航海に出る。眞に究極の修行である。那智の浜、あるいは足摺岬の突端から船出し、黒潮の逆流に乗って南海の彼方を目指すのである。難破し、海の水雲と消えてしまうが、潮流に乘って、薩摩や琉球の海岸に漂着することがあっても、不思議では無かろう。
 琉球に漂着した補陀落渡海僧の伝承は、これまで知り得た知識では2例ある。一人は、仏教を始めて琉球に伝えたと伝わる禅鑑和尚で、13世紀の後半に、今の浦添城の北側に「極楽寺」を創建したと伝承されている。もう一人は、冒頭に書いた日秀上人で、琉球に真言密教と観音信仰、熊野信仰を伝えた僧で、琉球王府の施政にも影響を及ぼした人物である。
 残された記録によると、補陀落渡海を実行した僧は、40人ほど居たそうである。その内、那智の浜からは、平安時代の前期から、江戸時代の中期に至る850年余の間に、25人が補陀落を目指して船出したそうだ。
 伊芸の僧侶墓には、金武の浜辺に漂着した補陀落渡海僧が葬られているのでは、と思ったが、山里和尚こと、頼宥と紐付けする伝承は見当たらない。一説によると、頼宥和尚は、那覇港に在った臨海寺の住職で、任期を終えた後、伊芸の集落に移り住み、この地で妻帯し布教活動を行っていたと伝わっている。臨海寺は、那覇市曙に移り、現存している寺院だが、歴代住持の中に頼宥の名があるものの、伊芸の山里和尚とは結びつかないのである。
 それにしても、よく歩いたなぁ〜、この日の歩行距離、なんと18.2q、28,003歩。(2018.3.14)
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護佐丸(ごさまる)祖先の墓・道標が次々と現れ、道筋に不安なく訪ねることが出来た。

2018/03/19 10:20
 那覇から120系統のバスで、凡そ1時間15分、恩名村の山田バス停で下車した。通りを隔てた向かい側に、山田グスクへの道標が建っていた。58号線の信号を渡った所にも、「歴史の道」、「山田グスク・護佐丸父祖の墓」と記した道標が建っている。
 国道から山手に向かって100mも歩くと、また標識が現れる。道標に従って坂道を上り、突き当たった所にも標識があって、右折した先にも標識があり、その先に石段が現れる。そこから、急な山道を50mも上ると、護佐丸父祖の墓に行き着く。次々と標識があらわれ、道筋に不安を覚えることもなく、辿り着くことが出来た。恩名村教育委員会さんの、歴史を継承しようとする熱意が伝わってくる。感謝。
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  琉球戦国の武将、護佐丸の先祖墓は、山田城跡の中腹にあって、琉球石灰岩の岩穴に造られた横穴墓である。湿気を帯びた岩肌から湧き水が垂れ、古色蒼然とした雰囲気が伝わってくる。墳墓には、山田城を築いた護佐丸の曽祖父、祖父と父である三代の山田按司が葬られているようである。右側に、人一人が潜れる岩穴があって、一段下がった、その向こうにも墳墓がある。「をじゃなら(うなざら・妃)」墓のようで、護佐丸の祖母だと云う真加戸金(まかとかね)が祀られているのかもしれない。
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 墓誌が建てられているが、風雨に消されて全く読めない。墳墓の手前、坂道の途中に縁起を書いた説明板があって、墓誌の文章が記されていた。『往昔吾祖中城按司護佐丸盛春ハ元山田ノ城主ニ居給フ其後読谷山ノ城築構ヒ居住アルニヨリテ此ノ洞ニ墓所ヲ定メ内ハ屋形作リテ一族葬セルニ然処ニ幾年ノ春秋ヲ送リシカバ築石造材悉破壊ニ及ビ青苔ノミ墓ノロヲ閉セリ爰ニオヰテ康煕五十三年墓門修復石厨殿ニ造替シ遺骨ヲ奉納セリサテ永代子々孫々ニモ忘レズ祀ノ絶サランコトヲ思ヒ毎歳秋ノ彼岸ニ供物ヲササケマツル例トナリヌ仍エ石碑建立之也 大清乾隆五年庚申十月吉日 裔孫豊見城親雲上盛幸』と、ある。
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 墓誌が建立されたのは、清の元号で乾隆五年とあるから、1740年のことである。縁起の前文に、碑の建立が1750年とあったが、これは誤りだろう。この碑を建てたのは豊見城親雲上盛幸(とみぐすくべーちんもりゆき)で、護佐丸から数えて11世に当たる子孫である。文中にある康煕五十三年は1714年で、墓誌を建立した26年前のことで、「築石造材悉破壊ニ及」んだので、修復したとある。
 豊見城親雲上盛幸は、吾が祖先の護佐丸は、山田の城主であったが、その後、読谷山に城を構えたので、この洞を墓所として定め、中は屋形作りで一族を葬った、と説明している。「読谷山ノ城築構ヒ居住アルニ」、とあるのは、座喜味城の完成に伴い移住した、と解釈して良いだろう。
 初代の山田城主は、先達て訪ねた、「屋良後大川按司と一族の墓」に揚げられていた系図を見ると、怕尼芝(はにじ)に滅ぼされた仲昔今帰仁按司、第五代目の孫に当たる人物で、隣接する伊波の城主、初代伊波按司の兄である。伝承によると、初代山田按司は継子に恵まれず、初代伊波按司の息子、甥を婿養子に迎え、跡を継がせたと云う。護佐丸の祖父にあたることから、四代目の山田城主が、護佐丸と云うことになる。
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 もう一つの説によると、初代伊波按司の次男(又は9男)が、独立して山田城を築いたとも言われている。となると、護佐丸は三代目の山田城主と云うことになり、墳墓に祀られている人物は、曽祖父を含めた三代なのか、祖父と父の二代が祀られているのか、拘り屋の私にとっては、すっきりしない。恩名村の教育委員会が整備した標識には、「護佐丸父祖の墓」と記されているので、父祖二代の墳墓を指し、護佐丸は三代目山田城主の説を採っているように思える。
 1416年、尚巴志の率いる連合軍によって、今帰仁の後北山王で、怕尼芝の孫に当たる攀安知(はんあんち)が滅ぼされたが、この時、護佐丸は山田城主として連合軍に参加して、功績をあげている。これが、護佐丸が先祖の仇を討ったと云われる由縁である。
 ここを訪ねる途中から、気になっていたのが、「国頭方西海道」と書かれた標識である。琉球王府は各地の間切(まぎり・今の市町村)を結ぶ道を整備していた。三山を統一した尚巴志の時代から手掛けられたと云う宿道(しゅくみち)で、沖縄本島の中部、北部、南部を東西のルートに分けで結んでいた。一定の距離ごとに宿駅(宿場)を設け、王府からの文書を、各間切(行政区画・今で云う市町村)に、速やかに伝達するシステムが機能していたと云う。その宿道の一つが、国頭方西海道(くにがみほうせいかいどう)で、概ね、今の58号線に沿って続いている。
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 緑に覆われた古道は、石畳で舗装されていたり、土砂が流され、ごつごつとした石灰岩が剥き出しになっていたり、勾配も急で、変化に富んだ道筋が続いている。途中で渡った谷川に架かる石矼(いしばし)は、琉球石灰岩の野面積みで、桁部分がアーチ型に組まれた珍しい石橋である。僅かな時間だが、古琉球の雰囲気に浸って来た。急坂を下ったら、国道58号線に突き当たり、古道は、そこで途切れていた。(2018.3.7)

次々と現れた道標

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座喜味城跡(ざきみぐすくあと)覚書・城壁が美しい曲線を描いています。

2018/03/13 15:10
 1416年から1422年にかけて、戦国の武将、護佐丸が築いたとされる城である。2000年11月に、首里城跡、今帰仁城跡、中城城跡、勝連城跡、およびその他の文化遺産とともに、世界遺産に登録された。座喜味城の規模は小振りだが、切石積と相方積を組み合わせた城壁は、美しい曲線を描き、高度な設計技術を駆使して築き上げた城であることが分かる。
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                           リーフレットより

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 構造は、本丸と二の丸からなる二連郭式である。二の丸に通じる表門、二の丸から本丸に通じる本丸門、ともにアーチ型の石門で、沖縄の古城跡では、最も古いものだそうだ。城門には木製の扉が取り付けられていたようで、よく観ると、高い位置にクサビ石があって、鴨居を取り付ける穴が開いている。しかし、本丸門は先の大戦中に、日本軍が高射砲陣地を築いたことによって破壊され、後に復元されたものだと云う。城壁の一部も米軍の砲撃によって破壊されたそうだが、これも復元されている。
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                            表門

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                            本丸門

 二の丸は、独特な設計になっていて、西側に向かって狭くなった空間が続いている。城外に向かっているように思えるが、その先は北向きに折れ、下り坂になって城壁に突き当たり、行き止まりになる。防御のために工夫された空間のようで、表門を突破した敵兵を、本丸の城壁から攻撃して、逃げ惑う兵士を追い詰め、一網打尽にする袋小路である。ただ、幸いなことに敵兵が攻め入った記録は無いようだ。
 本丸跡の北側には、殿舎跡を示す礎石が保存されていた。発掘調査では、瓦が出土していないことから、屋根は板葺きか茅葺きの建物であったようだ。南側からも、城壁を造る以前の柱穴群が発見されたそうで、これらの建造物は、出土した遺物から、構築年代に、それほどの差はないと云う。本丸跡には、構築された時期は異なるが、二つの建物が存在していたことになる。
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 城壁に上ると、首里や那覇、東シナ海に浮かぶ慶良間諸島、久米島、そして本部半島から、伊江島、伊平屋諸島までが、霞んで見える。一段下に、二の丸を囲んで、幅広く造られた城壁が続いているが、危険なので進入禁止、「いっちぇ〜ならんど〜」の札が建っていた。
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 これまでに訪ねた中城城跡や勝連城跡、そのほか多くの城跡には、必ず守護神を祀る御嶽や、ガー(湧き水・井戸)の跡があった。奇妙なことに、座喜味城跡には、それらの拝所が全く見られない。城跡のある高台は、標高が127mで、読谷平地に突出した地形になっている。一帯は赤土台地(註:国頭マージ)だが、これまでに訪ねた城跡は、硬質な琉球石灰岩の台地上に建っていた。スポンジのように、水を蓄えた石灰岩台地とは異なり、赤土台地の土質では水を貯えることが出来ない。座喜味城は、居住空間に適さなかったようで、そんなことから、拝所跡が見られないのかもしれない。城塞ではなく、平和の訪れを象徴したグスクのように思えた。
 柔らかい土質の赤土台地に、堅牢な城壁を築くことは、当時の技術では不可能だと思われるが、護佐丸は、それを可能にしている。切石積と相方積の組み合わせや、曲線で繋いだ城壁、アーチ構造を取り入れた城門、これらは、地盤が弱いと云う欠陥を克服するために工夫されたものだと云う。護佐丸は、後に、中城城を築城することになるが、座喜味で培った技術を駆使したに違いない。後の世に、築城の天才護佐丸としても語り継がれている。
 護佐丸は、父祖以来、読谷山城を居城としていた。読谷山城は、読谷山村にあったが、読谷山間切(行政区画)と混同されやすいので、山田村に改称され、読谷山城も山田城と呼ばれるようになったという。座喜味城から直線距離にして4qほどの北東にある。
 1416年、尚巴志が率いる連合軍によって、今帰仁・北山王の攀安知(はんあんち)が滅ぼされたが、この時、護佐丸は山田城主として連合軍に参加している。護佐丸の祖先は、攀安知の祖父である怕尼芝(はにじ)によって滅ぼされ、北山を追われているので、先祖の仇を討ったことになる。
 護佐丸は、この時の功績によって、北山の監守を務め、今帰仁城に駐在するが、一方で座喜味城の造営に力を入れている。本来、山田城は、北山に対する中山の前進基地の役割を果たしていたようだが、北山が滅んだことにより、その役割は終わったのであろう。時代の変遷を敏感に読み取った護佐丸は、中山王の尚巴志に倣って、海外交易に力を注ぐようになる。良港を控え、農産物も豊富な読谷平地に目を付け、座喜味城を築く決断をしたのだろう。
 伝承だが、築城にあたって、山田城の石垣を壊し、座喜味城の石積みに利用したと云う。先にも書いたように、周辺には赤土台地が広がり、城壁を築くために必要な石材の調達が困難であったようだ。護佐丸は、今帰仁城に居住し、監守を務めていたので、山田城を解体することには差し支えなかったのだろう。
 また、当時、支配下にあった沖永良部島や与論島、奄美諸島から、多くの人夫を集めて来たと云う。かなり乱暴な手段を持って徴用したようで、護佐丸と云えば、乱暴者で、鬼みたいな人物の代名詞になっていたと云う。聞き分けのない子には、「護佐丸がチュンドー(来るぞ)」、と言って叱ったそうだ。後の世では、忠臣として評価の高い護佐丸だが、奄美諸島では怖れられた人物だったようである。
 築城に着手してから、凡そ6年の歳月を経て完成し、1422年、護佐丸は今帰仁から座喜味城に移っている。今帰仁監守の後任には、尚巴志の二男、尚忠が派遣された。
 護佐丸は、後に尚巴志の五男で、第一尚氏第6代の王、尚泰久の命により、1440年に中城城に移っているが、護佐丸にとっては、座喜味で暮らした18年間は、戦国の世が終わり、平和な環境が訪れた時代であったろう。この間、海外交易によって巨利を収めたようで、中城城を築城した際の資金に充てられたと考えられる。中城城に移った護佐丸は、その5年後に、勝連城の阿麻和利に滅ぼされた。この戦乱は護佐丸と阿麻和利の乱として後世に語り継がれている。
 1972年の本土復帰に伴って、国の史跡に指定され、翌年の10月から史跡整備事業が開始されている。遺構の発掘調査も行われ、出土遺物には、少量の須恵器、中国製陶磁器や古銭などがあり、その中でも、最も多かったのが中国製の青磁と陶器だそうで、15世紀から16世紀のものだと云う。このことから、座喜味城は、護佐丸が中城城に移ったあとも、貿易の拠点として使用されていたと考えられている。
 護佐丸が南方貿易に力を注いだ時代に、「読谷山花織」の技法が伝来したそうである。琉球王府時代には、王族士族階級のみに所有が許された高級織物だと云う。しかし、明治以降、その染色技法は次第に衰退し、沖縄戦後には技術を継承する人が全く居なくなったそうだ。幻の花織と云われた時代が続いたようだが、近年になって、関係者の努力により、読谷村の特産品としてよみがえっている。読谷村を歩いていると、足元に、その歴史を見ることが出来る。マンホールの蓋に、交易船と、読谷花織の図柄が描かれていた。
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 帰り際に振り返ったら、観光で訪れたらしい若い女性の二人組が、沖縄の民俗衣装で身を包み、城壁を背景に写真を撮っていた。本土に和装があるように、沖縄の伝統的な衣装に琉装がある。城壁の石積みには、琉装が映える。
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(2018.2.19)

(註)国頭マージとは、火山活動で噴出した溶岩が変成したもので、主に、沖縄本島北部に分布する地層である。対照的に、沖縄本島の南部には、サンゴ礁が隆起して形成された石灰岩の地層が分布している。
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喜名観音堂(きなかんのんどう)・ご本尊様は、プラスチックの容器に閉じ込められていた。

2018/03/09 10:58
 沖縄本島には、喜名、あるいは喜納 (きな)の地名が複数個所にある。焼畑を意味するそうで、古い時代、焼畑耕作によって拓かれた集落のようだ。読谷村喜名は、琉球王府が整備した宿道(しゅくみち)の重要な宿駅、宿場町として栄えた集落で、国道58号線沿いには、それらしく松並木が整備され、道の駅に喜名番所を模した建物が造られている。
 喜名番所から県道に入って100mも歩くと右手に公園があって、その奥の高台に観音堂がある。赤い屋根瓦のお堂が、緑と緋寒桜の間に浮かび上がってきた。折から、ご婦人二人連れの参拝者があって、拝み(うがみ)の準備をされていたので、お邪魔にならないように、少し離れた場所から祭壇を伺い、手を合わせた。
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  観音様が祀られているはずだが、御影が見えない。祭壇の中央に、透明でプラスチックの容器が固定され、その中にピンクの花びらが散りばめられ、なんとなく千手観音像と思われる御姿が見える。観音像は、これまでに何度も盗難に遭っているそうで、厳重に保管されているようだ。
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 縁起に、喜名観音堂は、1841年の旧暦9月18日に、金武の観音寺から勧請したものです、と書いてある。それまで、村人たちは無病息災や子孫繁栄祈願のために、遠く離れた金武観音寺(きんかんのんじ)まで出向いていたが、不便なので、千手観音を勧請し、観音堂を建立したと云う。
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 金武観音寺は、16世紀の半ば頃、紀伊の国、那智から補陀落(ふだらく)渡海を試み、沖縄の金武(きん)海岸に漂着した捨身行者、日秀上人により創建されたと伝承されている。日秀は、自ら熊野権現の化身仏(本地仏)、阿弥陀如来、薬師如来、聖観音菩薩の像を彫って安置したそうだ。因みに、補陀落とは、インドの南端にあって、観音菩薩が降臨したと伝わる聖地だそうだ。
 日秀上人は、琉球に真言密教と観音信仰、熊野信仰を伝えた僧で、琉球王府の施政にも影響を及ぼした人物である。沖縄各地には、日秀上人に由来する伝承が伝わっているが、史実と伝承がないまぜに語り継がれ、まるで、本土で語り継がれる弘法大師様のようである。
 観音堂の西側に、土帝君(とぅーてぃくー)の祠があった。土帝君は、沖縄各地に祀られているが、本土では見かけることは無い。中国から伝わった「土地公」のことで、現世で行いの優れた人物が、その死後に神として祀られている。その土地々々に根付いた神様で、農業神として祀られることが多いようだ。祠には、人物像が祀られているのが普通だが、喜名の土帝君は、先の沖縄戦で破壊されたと云い、台座らしき、石の塊だけが残されていた。
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(2018.2.13)
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尚巴志王の墓(しょうはしおうのはか)・隠し墓のようだ。人里離れた谷間に密かに祀られていた。

2018/03/06 13:47
 尚巴志(1372〜1439年)は、琉球で最初の統一王朝を樹立した国王である。墳墓は、読谷村の伊良皆集落にあり、前々から、是非に訪ねたいと思っていた。事前に情報を集め、地図で場所を確認したら、米軍施設の嘉手納弾薬庫地区に指定された中にある。それでも、民間人が入って行っても差し支えのない場所のようだ。
 国道58号線、伊良皆交差点に架かる歩道橋の北、50mも行った先に基地に向かって続く道がある。入口に英語と日本語で、「警告。4WD運転者、並びにバイク運転者へ。この地域は、娯楽行為は許可されていません。今日限り辞めてください。第18航空団・日本防衛省・読谷村・地主会伊良皆支部」と書いた看板が揚がっていた。サーキット族が集まってくる場所のようである。
 100m程も歩いたら、道が二又に分かれていて、ガイドブックに従って、左側に続く砂利道に入っていった。右手に、カー(湧き水、井戸)や、拝所の入り口を示す標識が、次々に現れるので、尚巴志の墓へも、難なく行きつけるだろうと考えたが、これが甘かった。
 随分、歩いたような気がする。行けども歩けども、尚巴志の墓を示す標識に出会わない。とうとう、道は「上ヌカー」に突き当って、行き止まりになってしまった。その先には、琉球石灰岩が突出した険しい山道が続いている。尚巴志の墓は、もっと先にあるのかもしれないと、望をかけて登って行ったが、民間の墓場が現れたので、諦めて引き返すことにした。
 足取り重く、上ヌカーから50mくらい戻ったところで、ひょいと山際を見たら、古い石碑が建っていた。覆いかぶさっている樹木を払ったら、なんと、「尚巴志王之墓」と彫られているではないか。来る途中、反対側ばかりを注視していたので、見落としてしまったのである。
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 落ち葉に覆われた山道に入って30mも進んだら、右手に「第一尚氏王統、第二代尚巴志王、第三代尚忠王、第四代尚志達王、陵墓」と刻まれた墓碑が建っていた。一段と高くなった所に、三代の王が祀られた墳墓がある。一度は、諦めかけた墳墓を探し当て、興奮の面持ちのまま黙祷した。
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 岩壁の洞窟をコンクリートブロック手塞いで、頑丈に造られた墳墓である。入り口はコンクリートで塗り固められているが、そこにも尚巴志王、尚忠王、尚志達王の名が書かれていた。墓前には、まだ新鮮なチャーギ(イヌマキ)が生けられている。伊良皆集落の、縁ある人々がお参りしているのだろう。それにしても、琉球を最初に統一した国王が祀られているには、あまりにも質素な墳墓だと思った。人里離れた山間に、ひっそりと祀られている。まるで、隠し墓のようだ。
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 拝みを終えて、山道から砂利道に出てしばらく歩いたら、向こうから車が徐行しながらやって来た。年配の男性が助手席から顔を出して、「尚巴志の墓を、ご存知ですか?」と、声をかけて来た。やっと捜し当て、先ほど詣でて来たばかりの私が、その場所を丁寧に説明している。あたかも、熟知していたかのように振舞っている自分が、可笑しかった。
 第一尚氏王統の初代国王は、尚巴志の父、尚思紹で、即位したのが1406年である。1469年、七代に亘って続いた王統は、臣下であった金丸、後の第二尚氏尚円王のクーデターにより、途切れている。
もともと、初代尚思紹から、第六代尚泰久の墓は、首里池端町の天山陵にあったと云う。クーデターによる騒乱のさなか、第一尚氏各王の旧臣、親族、子孫たちは、天山陵の破壊を恐れ、それぞれに遺骨を持ち出し、首里から遠く離れた地に葬ったとされている。
 初代尚思紹王の墓は、「佐敷ようどれ」と呼ばれ、航空自衛隊知念分屯基地の中にある。検問所で住所氏名を記帳し、身分を証明するものを提示して、入場が許可される。2015年11月、迷彩服を着た隊員さん監視の下で詣でている。
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 今回は、第二代尚巴志、第三代尚忠、第四代尚志達の墓を訪ねたが、何故こんなところに、と疑問を抱くほど、首里から遠く人里離れた山中にある。遺族たちは、首里王府の目が届かない場所を選び、この山間に辿り着いたのだろうか。
 第五代尚金福の墓は、何処にあるのか分かっていないが、浦添市の米軍施設・キャンプキンザーの中にあるらしい。遥拝所が浦添市城間の同人病院近くで、民家の庭先にあると云うので訪ねてみた。路地を行ったり来たりを繰り返したが、訪ね当てることが出来ず、城間公民館に立ち寄って伺ったら、那覇市仲井間小学校の近くに遷されたらしい、と云う応えが返ってきた。
 第六代尚泰久の墓は、南城市役所からほど近い、冨里集落にあって、2016年の5月に訪ねている。近年に子孫の方が改修されたようで、綺麗に整備されていた。もとは、うるま市の曙集落の崖下にあって、首里の天山陵から、密かに移葬されたと伝わっている。尚泰久の墓であることを隠すために、「クンチャー墓(乞食墓)」と呼ばれていたそうだ。時代が下がって、1908年(明治41年)に、第一尚氏に所縁のある子孫によって、今の地へ遷移されたと云う。
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 第七代尚徳王の陵蹟は、那覇市内の識名トンネルの上、マンションが立ち並ぶバス通り脇にある。他の各王の陵墓は、首里を遠く離れた地に、隠し墓のようにして祀られているのに、なぜ、尚徳は首里城と指呼の間にあり、識名の高台に葬られたのだろうか。尚徳王は、臣下により暗殺されたとの説もあるが、29歳で死去し、後継ぎを巡る争いから、金丸(第二尚氏初代尚円王)によるクーデターが発生して、ここで、第一尚氏王統は終わっている。
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 尚金福の陵墓が分からないのが心残りだが、これで第一尚氏王統、各王の陵墓を訪ねることが出来た。ところが、意外と知られていないようだが、第一尚氏歴代の王を、一堂に祀った神社、「月代宮(つきしろのみや)」が、南城市佐敷の佐敷城跡にある。
 佐敷城は、第一尚氏王統、初代の王尚思紹が築いたと云われ、尚巴志親子の居城であった。尚巴志は、佐敷の一角から興って、三山(今帰仁の北山、浦添、後に首里の中山、糸満の南山)統一の偉業を成し遂げたのである。
 国道331号線沿いに、佐敷小学校があり、その東側に大きな鳥居があって、「月代宮」と彫られた扁額が揚がっている。鳥居を抜けて、道なりに登って行くと、左側に広場があって、月代宮と彫られた石柱があり、石段を上った所に拝殿があり、その奥に本殿がある。
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 本殿は小さな祠だが、琉球第一尚氏王統(1406年〜1469)の初代尚思紹の父、佐銘川大主(さめかわうふぬし)に始まり、尚思紹、尚巴志から第一尚氏7代に亘る王が、神として祀られている。ただ、建立された歴史は浅く、第一尚氏に繋がる子孫、縁者によって、昭和13年(1936)に建立されたものだと云う。
 第二尚氏、歴代の王が祀られている陵墓、「玉陵(たまうどぅん)」が首里にあり、国指定重要文化財で、世界遺産の一つにもなっている。今にある大部分は、先の大戦後に復元されたものだと云うが、石塀に囲まれ、あたかも第二尚氏の権勢を誇るかのような、壮大な石造建造物である。
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 第二尚氏の陵墓と比較すべきもないが、第一尚氏、歴代王の遺骨は、首里の天山陵から持ち出され、それぞれに、旧臣、遺族、親族の手に渡り、首里を遠く離れた草深い山里に、ひっそりと葬られ、実に質素な陵墓である。
 第一尚氏は、琉球統一王朝を樹立し、海外交易ルートを拓き、琉球王国に莫大な富をもたらした王統である。様々な歴史的背景があって、今の状況があるのは分かるが、それにしても、尚巴志の墓は、ちょっと寂しすぎるんじゃないかなぁ〜、と思った。それと、第一尚氏歴代の王が祀られている月代宮は、建立の歴史が浅いけど、南城市さんは、もっとアピールしても良いのではなかろうか。まっ、物好き老人のたわ言ですが。(2018.2.13)
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赤犬子宮(あかぬくぐう)・沖縄の三線音楽の始祖として伝承される人物、赤犬子が祀られている。

2018/03/02 15:05
 読谷村、県道6号線の歩道脇に、入口を示す石碑が建っていて、歌が刻まれている。風雨に汚されて読みづらいが、赤犬子宮とあって、「歌と三味線のむかしはじま里や犬子祢阿がれ乃かみの美作」とあり、「歌と三味線の昔始まりや犬子ねあがりの神のみ作」と読める。赤犬子(あかぬく・あかぬくー・あかいんこ)は、簡単に言ってしまえば、オモロの歌唱者であって、琉球音楽の世界では、歌と三線の始祖として信仰されている人物である。読谷村楚辺集落の生まれだと云い、角川日本地名大辞典には、小字で赤犬子原(あかいんこばる)の名が見える。
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 オモロとは、沖縄や奄美に伝えられてきた琉球の古謡で、語源は「思い」の動詞形、「思う」から来ているそうだ。本来は、神の前でノロ(神女)が唱えた祝詞で、抒情的な叙事詩であり、琉球王府が編纂(1531年〜1623)した「おもろそうし」全22巻に採録され、今に伝えられている。
 拝殿は、コンクリートで丁寧な造りになっていて、佇まいが、どこか中国風である。壁に施された図柄も花や鳥であって、派手々々しさはないが、台湾の廟を連想させる。石の扉には三線の図柄が彫られており、錠が掛けられ、隙間から覗いたら、祭壇には四個の石が祀られていた。
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 鳥居の脇に縁起が記されていた。その一部を抜粋すると、「赤犬子は、今から凡そ500年前、尚真王(在位:1477年〜1527)の時代に活躍した人物で、王府編纂の『おもろそうし』には、偉業を讃える歌が40余首も記述されており、おもろ歌・音楽に卓越した吟遊詩人であったことが伺い知れる。」とある。
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 また、「楚辺集落の古老伝承よれば、大屋のカマーと屋嘉のチラーとの子で、長じては三線を携えて各地を巡り歩き、唄・三線を広めるとともに、先々の事を予言したとも云う。」とあり、放浪詩人で、預言者(沖縄ではユタと云う)であったことが伺われる。
 さらに、「唐から楚辺村に五穀(稲・麦・粟・豆・黍)を持ちかえった偉大なる人物と伝えられている。」と、あるが、赤犬子が活躍したとされる15世紀後半から、16世紀初頭までの時代と、五穀を持ち帰ったとある、唐の時代(7世紀初頭から、10世紀初頭)とは、数世紀の隔たりがあり、整合性が取れない。まっ、伝承なんだから、拘るのはよそう。
 続いて、赤犬子宮の地は、晩年を迎えた赤犬子が、「生まれじま、禰覇むら(現楚辺集落の一部)に辿り着き、杖、ダンチク(筮竹のことか?)を岩山に立て、聖なる光に導かれて昇天した聖地と言われています。」とあり、鳥居の左側には、「赤犬子終焉の地」と彫られた石碑が建っている。
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 沖縄学の父として知られる伊波普猷は、その著、『琉球音楽者の鼻祖・アカインコ』の冒頭で、「音楽は人類共通の言語であるとの言もあれば、琉球の音楽が琉球語を解せない人の心耳にも感通するということは、疑うべからざる事実である。実に聴いていてうんざりするような琉球の音楽は、琉球数百年の悲哀なる歴史を物語っているような気がする。私は之を辛抱して聴いていることの出来ない人には、琉球民族の心理はとても解せないと思う。」と、述べている。私にとっては、実に辛辣な言葉である。行きつけの床屋の主人は、琉球民謡の愛好家で、私が、頭を刈り、髭を剃ってもらう間、ずっと琉球民謡のBGMを流している。私は、それを聴きながら眠ってしまい、主人は、「琉球民謡のメロデーは、眠気を誘いますからね。」と、笑う。
 先の縁起に説明されていたが、「おもろそうし」に、赤犬子の偉業を讃える歌が40首余りあると云うので調べて見た。その第8巻、「首里天ぎやすへあんじおそいがなし、おもろねやがり・あかいんこがおもろ御双紙」に、神歌が83首収められていて、前半の43首が、「おもろ音揚(ねや)がり」の宣する歌であり、後半の40首は、阿嘉、阿嘉の子、阿嘉犬子の宣する歌になっている。因みに、「おもろ音揚がり」とは、「おもろ吟遊詩人」と訳すと分かり易い。
 縁起にある「赤犬子の偉業を讃える歌が40余首も記述されており、」の文言からすると、前半の「おもろ音揚(ねや)がり」が、赤犬子のことかもしれない。後半に収められている40首は、「阿嘉、阿嘉の子、阿嘉犬子」で、同一人物のようであり、赤犬子とは別人と思える。
 しかし、伊波普猷は、「おもろ音揚(ねや)がり」と、「阿嘉、阿嘉の子、阿嘉犬子」は同一人であると断定している。その検証過程を、「あまみや考」、「アカインコ考」、「アカインコ考−続考−」の中で詳しく述べているが、とても高度な研究論文なので、私には読解する能力はない。さらには、阿嘉犬子は、放浪詩人ではなく、第二尚氏・尚真王時代の宮廷詩人で、米次の領主 (こめす・今の、糸満市米須)であったと考察している。按司としての功績から、「米次世の主」と呼ばれ、「按司の又の按司」と称えられた人物だったと云う。
 伊波普猷の考証によると、按司の又の按司と称えられた阿嘉犬子(アカインコ)は、馬に跨って、大名行列さながらに、国中を巡り歩き、到る所でオモロを懇望された詩人按司(ゑいとてだ)であったと云う。一方、土木建築にも堪能で、水脈を発見する知識にも長けていたと云い、オモロ歌謡からも裏付けることが出来るそうだ。
 私には、犬子宮に祀られている赤犬子と、伊波普猷の論述にあるアカインコは、全く別人に思えるのだが、伊波普猷の考察では、そのあたりには触れていない。論文は、難解な文章が続くので、私が見落としているのかもしれない。いずれにしても、この時代には、複数のオモロ歌唱者が村々を訪ね、三線の音にのせてオモロを謡い聴かせていたに違いない。吟遊詩人には、ユタと呼ばれる預言者も居ただろう。

 赤犬子宮の参道を出ると、バス通りを隔てた斜め向かい側に、二連の大きな朱塗りの鳥居が建っていた。米軍基地、トリイステーションのゲートを示す目印である。なぜ、基地の名が「トリイ」で、入り口に鳥居を建てたのか、その経緯が分からない。
 楚辺集落の歴史は古く、禰覇之御嶽や楚辺ノロ火ぬ神、楚辺之殿など、楚辺七御嶽と呼ばれる多くの拝所があったそうだ。基地の中に収容されてしまい、基地外に在るのは、赤犬子宮だけだと云う。それに、沖縄大戦では楚辺の海岸に米軍が上陸し、多くの住民が犠牲になっている。朱塗りの鳥居は、基地に収容されてしまった拝所への遙拝場所(御通し・うとぅし)なのか、それとも犠牲になった多くの人々への鎮魂のために建てなのか。どっちにしても、安易に思えてならない。
 本来、神の住む領域と、俗界を区画 (結界)するための神聖な建造物が鳥居である。私には、基地の入り口に建っていることが驚きであり、相応しくないと思えた。神の住む領域でもない米軍基地と、民間の居住区との境界に鳥居を建てるなんて、何と云う了見なんだろう、と考えたら、だんだんと、臍が曲がって来た。
 と、思いつつも、目立つ場所だし、もの珍しさもあって、写真に収めていたら、守衛所から米兵が飛び出してきた。大きなゼスチャーで、撮影は禁止だと云う。その途端、怒りが込み上げて来た。鳥居の何たるかを教えてやろうかっ、と思ったが、私には英語が喋れない。
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(2018.2.13)
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阿麻和利の墓(あまわりのはか)・すぐ近くに「酒場・護佐○」があった。一瞬、ニヤリ。

2018/02/27 16:05
 事前にガイドブックで調べたら、古堅小学校の北方50mの所にあると書いてあった。古堅小学校の場所は楚辺集落で、古堅集落ではない。てくてく歩きながら、地図を頼りに拝所を巡っている身には、何とも紛らわしい。楚辺集落と古堅集落との間に、米軍施設が広がっている。そんなことが背景にあって、元の境界が入り乱れてしまったのかもしれない。
 阿麻和利は、琉球の戦国時代を代表する武将である。「護佐丸と阿麻和利の乱」(註:末尾参照)は、沖縄では、今に語り継がれ、誰もが知っている伝承で、忠臣の護佐丸(?〜1458年)に対して、阿麻和利(?〜1458年)は逆臣として語られている。阿麻和利について書かれた史料は殆ど見当たらないが、王府が編纂した中山世譜(1701年)巻之三、尚泰久王の項に、阿麻和利の反乱が記されている。このことから、逆臣のイメージが定着したようである。しかし、勝連城主としての阿麻和利は、治政に優れた業績を残し、琉球王府が編纂した歌謡集、『おもろそうし』には、その人徳を讃えて詠まれた歌が、数首採録されている。
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 阿麻和利の墓は、崖下の岩穴をコンクリートブロックで塞いだだけの、質素な墳墓だった。以前に、護佐丸の墓を訪ねたが、その形や規模に雲泥の差がある。逆臣だったとしても、この落差は酷すぎる。傍らにコンクリート製の粗末な墓碑があって、阿麻和利之墓と彫られていた。整備された年月らしき文字も見られるが、風化が激しくて、殆ど読めない。墓前には、古いジュースの缶や、ペットボトルが並んでいたが、塩が入って、まだ新しい大きな袋が二つ供えてあった。ごく最近に、拝みに見えた方があったようで、なんだか救われた気分になった。
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 阿麻和利は、北谷間切の屋良村、今の嘉手納町屋良の出身だと云い、ここからは近い。幼名を加那といい、幼児の頃から病弱で、家業の農作業を手伝うことも無かったそうだ。一方、神童であったという説があり、村の人々は、天上から地上に降ってきた人と云う意味で、「天降加那(あまりかな)」と呼んでいたと云う。長じてからは、村人のために尽くし、信望の厚い人物だったそうだ。
 阿麻和利は(アマワリ)の名は、天降加那(アマリカナ)が変化したのだと云う説がある。因みに「加那」は、琉球ではごく普通の名前で、本土でいう「太郎」に当たるそうだ。尊敬と親しみをもって、「天降りの太郎」と呼ばれていたようである。
 先日訪ねた屋良城の城主、大川按司墓に揚げられていた系図には、後大川按司の婿養子で、母親は、屋良村林堂屋の娘、「ウサ」と記されていた。村人からの信望が厚い人物だったので、大川按司の婿養子に迎えられたのだろう。
 琉球王府に謀反を企て、勝連城を追われた阿麻和利は、この地に追い詰められ、討たれたと云う。遺体が打ち捨てられた岩陰に、遺族の手によって、密かに葬られたと伝わっている。
 阿麻和利の墓を詣でて、坂道を上り、バス通りに出たら、信号の向こうに大きな文字で、「護佐○(ごさまる)」と書かれた酒場の看板が見えた。この屋のご主人のユーモアで名付けたのか、はたまた偶然なのか、なんだか気になる酒場の看板だった。
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(2014.2.13)

註:伝承「護佐丸と阿麻和利の乱」
『中山世譜』(1701年)の巻之三、尚泰久王のところに、次のような記述がある。(原田禹雄訳注「蔡鐸本・中山世譜」榕樹書林、から引用)
 「勝連按司の阿麻和利(あまわり)という者がいた。元来、君主を無視する気持ちがあり、反乱しようとしたが、護佐丸(ごさまる)が中城にいて要路をおさえており、そのたくらみは果たせなかった。そこで、護佐丸を王に讒言した。王は阿麻和利に命じて、護佐丸を討伐させた。阿麻和利はその後、得意になって反乱しようとした。阿麻和利の夫人の百度踏揚(ももとふみあがり)の従者に鬼大城(おにおほぐすく)がおり、かねてその謀反を知り、人目をしのんで夫人を背負って逃走し、三更(午前一時)になって王城に着き、門をたたいて王に知らせた。王は鬼大城に銘じて、兵を率いてこれを討たせた。鬼大城は阿麻和利を伐って功をあげた。その日、神が出現して、国家の太平を祝われた。」とある。
 これは、1458年に起きた中城按司の護佐丸と、勝連按司の阿麻和利との争いである。勢力を誇っていた阿麻和利の野心に、うすうす気付いていた尚泰久王(在位:1454〜1460年)は、長女の百度踏揚(ももとふみあがり)を阿麻和利に嫁がせ、さらに忠臣の護佐丸に命じて牽制していた。これに対して阿麻和利は、護佐丸が兵馬を訓練し、城壁を固めて王府に反逆を企てていると讒言したのである。しかし、護佐丸が武装し、兵馬を訓練していたのは、阿麻和利を牽制するためで、王府に対する謀反心ではなかったようだ。護佐丸は何の抵抗もせず、王旗に逆らってはならぬと、夫人と長男、次男を共にして自刃したという。
 一方、阿麻和利は勢いに乗じて首里城を攻撃しようとしたが、妻の百度踏揚と、その付き人大城賢雄(おおぐすくけんゆう・鬼大城)に計画を悟られ、王府軍の反撃に合い敗れ去ったのである。
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徳武佐宮(とぅくぶさぐう)・鳥居の上に数個の小石が載っていた。子宝祈願の神社だそうです。

2018/02/24 14:48
 沖縄語の三母音法則に従うと、徳の「と」は「つ」になるが、実際に発音するときには、トでもなく、ツでもなく、トゥと発音する。
 読谷村、国道58号線の伊良皆交差点から県道16号線に入り、1qも歩くと、58号バイパスとの交差点がある。信号を渡って左折し、直ぐに右側に続く脇道に入って行ったら、徳武佐宮の裏手高台に出た。石段を降りると直接本殿の前に出てしまったので、一旦、広場に降りて、改めて鳥居を潜り、本殿に詣でた。辺りは落ち葉の一つもなく、綺麗に掃き清められていた。
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 徳武佐宮は、生まれた子の健康と、成長を祈願する拝所だと云う。祠は、背後の岩盤に直接くっついていて、屋根も柱も壁も、すべて御影石で造られていた。拝殿は金属製の格子戸で閉じられているが、隙間から覗いたら、背面は、ごつごつした岩肌が剥きだしになっていた。祭壇には数個の石が順序良く並べられ、子宝祈願の霊石のようである。そういえば、鳥居の上にも数個の小石が載っていたが、小石を投げ上げて、子授けの祈願をする風習があるようだ。
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 祠の左手に、樹木に囲まれて「徳武佐碑」が建っていて、縁起が記されている。「今から六百年前、三山戦国の時代中今帰仁按司戦に追れ此処に身を遁る。其の後当地方で過ごし帰城す。古来徳武佐御宮と稱し崇拝す。毎年旧九月一三日参拝。」とあるが、神様の名前がない。
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 縁起は、すこぶる簡潔に述べられているが、中今帰仁按司とは、臣下であった本部大主の謀反にあい、今帰仁を逃れた丘春按司のことだろう。さらに、「当地方で過ごし帰城す」とあるのは、雌伏18年、旧臣を集めて今帰仁城を奪い返し、中今帰仁第四代の王に就いたことを指している。北谷から嘉手納、読谷に及ぶ広い地域に、丘春按司の伝承があることに驚いている。
 想像するに、徳武佐の武佐(むさ)は、武者(むしゃ)のことではあるまいか。600年前、戦国の世に今帰仁を追われた一族が、この地に隠れ住んだのだろう。武者たちは、現地に溶け込み、住み着き、徳のある武者として尊崇された人物が、徳武佐宮に祀られたのかもしれない。まっ、例によって私の妄想なので、信用しないで欲しい。
 石碑に、毎年旧九月一三日参拝、と記されているが、旧暦9月13日には、集落の人々が集って、今年一年間の無病息災に感謝し、向こう一年間の健康と豊作を祈願すると云う。また、あわせて、今年生まれた子供の健康と成長を祈願するそうだ。私は、仁徳を積んだ武者が祀られていると信じ、頭を垂れ、手を合わせて来た。(2018.2.13)
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大湾按司之墓(おおわんあじのはか)・伝承だが初代大湾按司は仲昔今帰仁城主丘春の孫だと云う。

2018/02/21 10:09
 国道58号線を嘉手納町から北に向かって歩くと、読谷村との境界を流れる比謝川を渡る。直ぐに又、比謝川の支流になる長田川を渡ると、右手に緑に覆われた森がある。「ウフグスク」と呼ばれる丘で、ここに大湾按司の墓がある。森を過ぎると右に入って行く道があり、直ぐの右手高台に祠がある。注意して歩いていると、58号線の歩道からでも、祠の屋根が見えてくる。
 ブロック塀に囲まれた敷地の中に、コンクリート造りの祠が建っている。祠は、入り口から90度横向きで、西の方角を向いて建っていたが、これには、何か意味するものがあるのだろうか。正面は、透かしブロックで塞がれ、中は暗くて、ご神体は見えない。ファインダー越しに覗いたら、三基の厨子甕が納められていた。しばし、黙祷。
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 祠の脇に建てられた墓碑には、「御先 大湾按司之墓」と彫られていた。御先(うさち)とあることから、大湾按司の初代を指しているのだろうと思う。先日訪ねた、仲昔今帰仁城主丘春之墓の傍にも、何代目かの大湾按司の墓があった。初代の大湾按司は、中北山時代の今帰仁城主、五代目の子であると伝承されている。と云うことは、祖父は今帰仁按司丘春である。後の今帰仁城主、怕尼芝(はにじ・?〜1390年?)に追われ、逃げ延びて来た今帰仁按司丘春の孫が、大湾の領主として、一帯の支配者に成長したのだろう。
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 もう一つの説がある。怕尼芝(はにじ)に滅ぼされ、それまで支配していた一族は散り散りになって生き延びたが、その中の一人が伊波の地に逃れて伊波城を築き、その伊波按司の三男が大湾の地に築いたのが、大湾城であると云う伝承である。
 祠の脇に続く道を上って行ったら、「ウフグシク」と彫られた石碑があって、香炉が一基置かれていた。ウフグスクをそのまま読むと、「大きな城」と云うことになるが、ウフは大湾のことを指しているのかもしれない。この場所に大湾グスクがあったことを、伝えるための標石だろう。
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 来る途中、比謝橋を渡った袂に歌碑が建っていて、気になっていたので見に行って来た。「古屋チルー歌碑」とあって、『恨む比謝橋や情けないぬ人のわぬ渡さともてかけておきやら』と、彫られている。「恨めしい比謝橋は情けのない人が私を渡そうと思ってかけたのでしょうか」と、云う意味だそうだ。この歌は、古屋チルー(1650〜1668)が、8歳にして那覇仲島の遊郭に身売りされる時に詠んだとされ、身売りと云う不条理を背負い、やり場のない、絶望的な悲しみが伝わってくる。チルーが詠んだと伝わる歌が、20予首残されているそうだ。
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(2018.2.13)
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野國總管宮(のぐにそうかんぐう)・嘉手納は基地の町だけではない。甘藷の発祥地である。

2018/02/18 14:20
 神社には、食糧難で苦しんでいた琉球の人々を救った恩人、野國總管が祀られている。嘉手納小学校の向こうに社が見えるのだが、入って行く道が分からない。街中を迂回して嘉手納中学校に突き当ったら、校庭沿いに整備された遊歩道があって、鳥居の下に出ることが出来た。
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 沖縄は昔から台風や旱魃で苦しんできた土地である。農作物への被害が度重なり、慢性的な食料難に喘いでいた。そんな琉球の食糧事情を救ったのが、野國總管(?〜1615年?)である。中国・明への進貢船に事務方の責任者として乗り込んでいた野国總管は、1605年に当時「蕃薯(はんす)」と呼ばれていた甘藷の栽培方法を学び、その苗を持ち帰ってきた。そして、彼の郷里、現在の嘉手納町、当時の北谷間切野国村の村人に栽培法を伝えたのである。何しろ、甘藷は災害に強く収穫量が多いうえ美味しい。瞬く間に、村民の食糧難を救う貴重な食物になった。 
 「總管」とは役職名で、進貢船の運航事務方責任者を指すので、野國村の總管、つまり野國総官の名前で後世に伝えられている。本名を調べてみたが、諸説あるけど、結局は分からなかった。 
 この、野國村の甘藷の情報を聞きつけた琉球王府の役人、儀間真常(1557年〜1644年)が苗を貰い受け、琉球全土に普及させ、飢えに苦しむ琉球の人々を救ったと云う。甘藷は、後にウィリアム・アダムス(三浦按針)の手によって長崎の平戸へ、前田利左衛門(薩摩国の人物)によって薩摩へ伝わり、そして青木昆陽の手によって関東の地にまで広められていった。青木昆陽(1698〜1769年)は、江戸中期の儒学、蘭学者で、甘藷の栽培を勧めた「蕃藷考」を著し、巷間では甘藷先生と呼ばれている。
 このブログのどこかに書いているが、私が幼少年期を過ごした山陰の石見地方では、年寄りたちが薩摩芋の事を「琉球芋」と呼んでいた。琉球から長崎・平戸を経て伝来した食糧であったことが分かる。琉球からの交易船が長崎を経由して、山陰、北陸地方にまでやって来た証だろうと思う。
 那覇市の奥武山公園にある世持神社にも、野國總管が祀られている。世持は沖縄では「ユームチ」と発音するが、世を持たせる、つまり世の中を支えるということで、琉球の世を支えた野國總管のほか、儀間真常、蔡温(1682年〜1762年)の三偉人が祀られている。三人とも、沖縄産業の発展に功績のあった人物である。ただ、世持神社の創建が1937年(昭和12)であることを考えると、挙国一致で食糧増産に励んだ時代であり、そんな世情が絡んでの創建であったのかも知れない。
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 国道58号線を北谷町から北に向かって歩いた。嘉手納基地の金網フェンスに挟まれた道が、どこまでも続いている。西側のフェンスが途切れた所に、金色で彩色された文字で、「甘藷発祥の地・野国いも宣言」と書かれた、大きな石碑が建っていた。嘉手納町は基地の町としてのイメージが強いが、基地ばかりではない、甘藷発祥の地なのだ、と云う強力なアピールが読み取れる。2005年9月30日に開かれた野國總管甘藷伝来400年記念式典で、「野國いも宣言」がなされたと云う。
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 野國總管宮は、甘藷(薩摩芋・琉球芋)が伝来して350年を記念し、1955年に建立されたもので、神社としての歴史は新しい。参道の石段を挟んで灯篭が並び、鳥居を潜ると拝殿の前に出る。戦後の食糧難時代に、蒸かし芋、芋粥、芋きんとんで飢えをしのいだ我が身としては、深々と頭を垂れて感謝の気持ちを伝えねばならぬ。周辺は「野國總管公園」として整備されていた。芝生に腰を下ろし、パンと牛乳で遅い昼食をとっていたら、ジョギング中の若い女性が、頭を下げて通り過ぎて行った。
 本来の野國總管の墓所は、嘉手納町兼久の米軍基地内に在ると云う。角川地名大辞典に、1700年に、地頭であった野国親方正恒が、石壇・厨子を造って岩陰に安置した、と記されていた。1751年には、比嘉筑登之が顕彰碑「總管野國由来記」を建立し、1943年(昭和18年)には、「甘藷発祥之地」の碑が、県産業組合によって建てられたと云う。野國總管の墓地が、昔のままに嘉手納基地内に保存されているのかどうか、分からない。
 嘉手納市街地の中心部にある嘉手納ロータリーから、県道74号線を東に向かって1.5qほども歩くと、左側に道の駅「かでな」がある。そこに、野國總管の像が建てられていた。台座に略歴と、その偉業を記した銅板が嵌め込まれている。野國總管は、この地の人々から「芋大主(ウムウフスー)」と呼ばれていた、と書いてある。
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 道の駅から東に向かって500mも歩くと沖縄市に入る。嘉手納町の南側入り口には、甘藷発祥の地・野国いも宣言の碑が建っていたし、東側入り口には野國總管の像が建っている。町の中心部には野國總管宮があり、甘藷発祥の地であることを力強く宣言している。基地の町として知られていることに抵抗しているように思えた。今日は、嘉手納町の心地よい意気地を知ることになった。(2018.2.2)
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仲昔今帰仁城主丘春之墓(なかむかしなきじんじょうしゅおかはるのはか)・見つけたぞっ!!

2018/02/16 10:48
 今帰仁、中北山時代の第四代城主、丘春の墳墓を訪ねて、再び読谷村の泊城公園にやって来た。先日、探しあぐねて一旦は諦めたものの、心残りなので、もう一度探索することにしたのだ。
 公園内に渡具知城跡がある。今帰仁の中北山時代、五代目の城主今帰仁按司が、怕尼芝(はにじ・?〜1390年?)に滅ぼされ、逃げ延びた一族が隠れ住んだと伝わっている。城跡に記された縁起を要約すると、「今から600年前、三山戦国時代の中今帰仁城主は、臣下であった本部大主の謀反にあう。嗣子の千代松金、後の丘春は北谷間切砂辺村へ落延び、18年後に旧臣を集めて本部大主を討って、今帰仁城を奪い返した。しかるに、同族の怕尼芝(はにじ)に攻められ、中北山は滅んだ。隠居の身であった丘春は、住み慣れた北谷間切りに戻り、生涯を終える。丘春と臣下の遺骨は、此の地の東の方、『鷹の目洞窟』に葬られ、以後、此の地一帯を渡具知泊城と称す。」と、ある。縁起からして、丘春の墳墓は、泊城公園のどこかに、必ずや在るはずである。
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 先ずは、腹ごしらえ。高台にある「梵字碑」の脇に設けられたベンチに座り、途中のコンビニで買って来たアンパンと牛乳で昼食をとることにした。眼前の樹木の間から、比謝川を挟んで、仲昔今帰仁按司祖先之墓を示す石碑が望める。右手は、展望を遮るようにして琉球石灰岩の岩山が突き出していた。この時、何気なく目に留まったのが、岩肌に沿って崖下に続いている山道である。これが、幸運の始まりだった。
 岸壁を這うようにして続く山道に入って行った。落ち葉で厚く覆われた道には、人が歩いた痕跡はない。狭い山道は、直ぐに岸壁の窪みに突き当たってしまった。これまでの経験からして、この佇まいだと、そこに拝所が設けられているはずだが、何も無い。窪みの右側が凹んでいるので、香炉が安置されているのかと思い、覗いてみたら、なんと、そこは奥に降って行く洞窟の入り口だったのである。真っ暗で見通しが聞かない。微かだが、奥の方に日の光が差し込んでいるのが感じられた。あぁ、この洞窟は抜けられるのだな、と思い、真っ暗な足元を気遣いながら進んで行った。滑稽なことに、この時、これが縁起に書かれていた、鷹の目洞窟であることに、思いが至らなかったのである。
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 洞窟を抜けると、広場に出た。なんと、右手の岩の窪みに、今帰仁城主丘春の墓があったのだ。これまで探しあぐねて、もやもやしていた気分が、一気に吹っ飛んで行った。
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 墓碑によると、正しくは、「仲昔今帰仁 城主丘春 真玉津 臣下之墓」と呼ぶようだ。墳墓は、岩の窪みの奥にあって、コンクリートで固められ、塞がれていた。香炉が一基安置され、墓前の広場にも、数基の香炉が据えられている。人が訪れた気配は全く感じられない。そりゃ、そうだろう。人目に触れることのない、こんな洞窟を抜けた先に墳墓があるなんて、地元の、それもごく限られた人で、今帰仁城主丘春に所縁のある方にしか分かるはずがない。
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 比謝川の河口を挟んだ対岸には、丘春の先祖、三代に亘る今帰仁城主が葬られた「仲昔今帰仁按司祖先之墓」を望むことが出来る。丘春は父祖と向かい合った崖の中腹に葬られていたのである。墓碑に彫られたていた「真玉津(またまちぃ)」とは、丘春の妃で、丘春が今帰仁を追われ、逃げ延びた北谷間切砂辺村の豪農、砂辺家の娘であったと伝承されている。
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 隣り合わせに、ノロ墓があった。墓碑には、風化した文字を黒いペンキでなぞり、「今前昔 湾按司時代 ノロ之墓」とあった。湾按司は大湾按司のことで、大の文字が読み取れなかったのだろう。初代の大湾按司は、丘春の孫に当たる人物だと伝承されている。
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 ノロ墓の隣に、石板が建っていて、「洞窟 鷹の目いわやと称し、台上・タカミーバンタと呼称す」と書いてあった。
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 崖道は、その先へ続いていた。ごつごつとした石灰岩が並べられ、歩き辛いが、転落したら元も子もない。慎重に足を運んだ。崖の窪みをコンクリートで塞いだ墳墓が現れた。自然石に黒のペンキで、「渡具知大湾按司の墓」と書かれていた。渡具知集落の北東に大湾と呼ぶ字名があるが、この周辺一帯の地を、今帰仁城主丘春の血筋を引いた大湾按司が治めていたのだろう。さらに先に続く石段を上って行ったら、梵字碑のあった場所から、岩山を挟んだ反対側の広場に出た。
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 先日訪ねて来た時に、縁起の文章を良く確かめるべきだったのだ。丘春と臣下の遺骨は、この地の東の方、「鷹の目洞窟」に葬られたと書いてあった。その日は西側一帯を歩き回り、結局は探しあぐねて諦めたのである。今日は幸運であった。梵字碑を拝んだご利益なのかもしれない。

 今帰仁城の歴史を語るときには、四つの時代区分で解説されることが多い。資料による裏付けのない神話や、伝承で語られる前北山時代。英祖王統の初代英祖の次男で、湧川王子が城主に就いたとする1260年頃から、同族の怕尼芝(はにじ)に滅ぼされた1322年迄を、中(仲)北山時代。怕尼芝が城主に就いてから、三代目の攀安知(はんあんち)が、中山国尚巴志と、その連合軍に滅ぼされた1416年迄を後北山時代。その後、尚巴志は城主を置かずに監守を派遣して統治したが、これを監守時代と呼んでいる。
 今帰仁城主丘春は、五代に亘って続いた中北山時代の四代目按司である。波乱万丈の生涯を送ったようで、後の世に口碑として語り継がれた伝承が多い。
 今帰仁城跡の大庭に、志慶真乙樽(しげまうとぅたる)の歌碑があり、「今帰仁の城 しもなりの九年母 志慶真乙樽が ぬきゃいはきゃい」と、刻まれている。季節外れの九年母(柑橘)、つまりは城主が歳とってから子供を授かった慶びを歌ったものだと云う。「ぬきゃいはきゃい」は、子供のはしゃぐ声を表現しており、平和な様子を謡っているそうだ。正室に待望の後継者が誕生したが、病弱であったため、側室の志慶真乙樽が、我が子同然に慈しみ、育てたと云う。世継は千代松と名付けられ、後の今帰仁按司、丘春である。
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 ところが、琉歌に歌われた平和は束の間で、家臣本部大主の謀反により、幼い千代松は、臣下とともに、今の北谷町砂辺集落に逃げ延びている。乳母である志慶真乙樽と千代松の別れ、そして18年後、成長した丘春との再会、忠誠を尽くした志慶真乙樽は、戦国のヒロインとして、今に語り継がれている。
 北谷間切砂辺村に逃げ延びた千代松は、豪農、砂辺家に匿われ、成長して、この家の娘、真玉津(またまちぃ)と恋に落ちるが、横恋慕した「喜舎場の子」なる人物に素性を知られてしまう。喜舎場の子は、謀反を犯した本部大主の臣下であったと云い、丘春の身に危険が迫るが、この時、丘春にとって、お家再興の機会が訪れたのである。

 梵字碑の脇に座り込んで、アンパンを齧っていなかったら、見落としていた崖道である。そこに、今帰仁按司墓を案内する標識はない。後で確認したら、棒杭が一本立っていて、頭頂部に切り込みがあった。以前には案内板が揚がっていたのかもしれない。私のような物好きな老人には、是非とも欲しい案内標識だが、心無い人に、貴重な史跡であり、聖域を荒らされても困る。それに、崖道は危険である。敢えて、案内標識を撤去したのではないか、と余計なことを考えてしまった。
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(2018.2.12)
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寄り道・渡具知泊城(とぐちとまりぐすく)・今帰仁を追われ逃れて来た一族が隠れ住んだと云う。

2018/02/14 09:23
 今帰仁の中北山時代の末期、後北山時代の初代按司・怕尼芝(はにじ・?〜1390年?)に追われ、逃れて来た一族が隠れ住んだと伝わる城跡が、泊城公園として整備されている。嘉手納水釜集落にある、「仲昔今帰仁按司祖先之墓」の北西、比謝川の河口を挟んだ向かい側にあり、公園の高台に設けられた展望台が、すぐそこに望める。寄り道をすることにしたが、水上を渡って行く手段がない。もと来た道を戻り2q程の距離を大きく迂回することになる。 
 赤く塗られた比謝大橋を渡ると、読谷村古堅集落に入る。auショップに沿って左に折れ、渡具知集落に入って行った。道なりに歩いていくと突き当り、左に折れると泊城公園の裏口に行き着く。整備された遊歩道を下って行くと、途中から左に降りる歩道があって、広場の先に渡具知泊城、別称「トゥマイグシク」跡があった。琉球石灰岩の巨大な岩山で、海に向かって迫り出し、東シナ海の荒波に浸食された石灰岩が、凹凸の激しい複雑な造形を生み出している。
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 白塗りのコンクリートの板に手書きの文字で、渡具知泊城の縁起が説明されていた。これまでに知り得た伝承を踏まえて要約する。「今から600年前、三山戦国時代の中今帰仁城主は、臣下であった本部大主の謀反にあう。嗣子の千代松金、後の丘春は北谷間切砂辺村へ落延び、18年後に旧臣を集めて本部大主を討って、今帰仁城を奪い返した。しかるに、同族の怕尼芝(はにじ)に攻められ、中北山は滅んだ。隠居の身であった丘春は、住み慣れた北谷間切りの北に接する読谷山間切に戻り、生涯を終える。丘春と臣下の遺骨は、此の地の東の方、『鷹の目洞窟』に葬られ、以後、此の地一帯を渡具知泊城と称す。1979年12月22日。」とあった
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 縁起から推察すると、中北山時代の四代目の今帰仁按司、丘春の墳墓が近くに在るはずである。葬られたと云う鷹の目洞窟を探して、雑草に覆われた遊歩道を伝い、反対側の岩場に降りて行った。荒波に浸食された琉球石灰岩が複雑に入り組み、洞窟と岩の窪みは、あちこちに在るが、丘春を祀ったと云う墳墓は見当たらない。ただ一つ、竜宮神を祀った洞窟を見つけることが出来た。
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 丘春の按司墓を探すことは諦めて、後日、出直すことにした。もと来た道を戻る途中、公園の高台に梵字碑があったので立ち寄った。刻まれた文字は、古代インドのサンスクリット語で、「ア・ビ・ラ・ウン・ケン」と読み、漢字では「阿毘羅吽欠」と書くそうだ。これは大日如来の真言で、唱えることにより、魔障を退散させ、善福を招く力があると云う。元は、渡具知港が 見渡せる断崖上にあったそうで、航海の安全を祈願したものらしい。
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(2018.2.2)
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仲昔今帰仁按司祖先之墓(なかむかしなきじんそせんのはか)・仲昔今帰仁按司三代の墓です

2018/02/10 13:08
 屋良城跡を訪ねた後、城主であった御先大川按司(うさちおおかわあじ)のご先祖様が葬られていると云う「仲昔今帰仁按司祖先之墓」に詣でることにした。
 屋良城跡から58号線に戻り、さらに嘉手納の市街地を西へ向かって歩き、水釜の集落へ入って行った。比謝川に架かる、赤く塗られた比謝大橋の手前を左折し、坂道を下って行くと嘉手納漁港に付き当たる。道路の左側は丘陵で、右側には比謝川の河口に向かって防潮堤が続いている。すこぶる絶景である。防潮堤越しに釣り糸を垂れている人を何人か見かけた。比謝川河口近くの左手、崖の中腹に大きく口を開いた窪みがあって、その中に白い祠が見えて来た。
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 祠は、雑草に覆われた急坂な砂利道の上にある。石灰岩の岸壁が覆いかぶさるように張り出し、その下に二基の祠があった。正面にある祠の脇に、「仲昔今帰仁按司祖先之墓祠」と彫られた石碑が建っていて、昭和53年8月13日改修とあった。左手奥にある祠は、やや小振りに造られている。線香の焚かれた跡もなく、直近に詣でた人はいないようである。
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 伝承によると、仲昔今帰仁按司の初代湧川王子、二代目の湧川按司、その長男である三代目の今帰仁按司が葬られていると云う。墓を守護して来た屋良城主の初代御先大川按司は、三代目今帰仁按司の五男である。正面の祠には歴代の按司が祀られているのだろう。もう一つの小振りの祠には、一族か、忠臣が祀られているのかもしれない。ただ、それは説明が無いので分からない。
 仲昔とは、今帰仁城の歴史を、前北山時代、中(仲)北山時代、後北山時代、監守時代とした区分で、中(仲)北山時代を指している。一般的には、英祖王(1229?〜1299年?)の次男、湧川王子が統治した時代を始まりとしているが、伝承に基づいて推理していくと、それ以前に舜天王統の支配が続いている。ただ、王位をめぐる内紛が繰り返されていたようで、それに乗じた英祖が、次男の湧川王子を派遣して統治権を握ったと思われる。
 崖下の道路わきに、「仲昔今帰仁按司祖先之墓」と刻まれた大きな石碑が建っていて、台座に、英語と日本語で縁起を記した石板が嵌め込まれていた。分かり易く説明されているので、以下に写す。
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 「14世紀頃、今帰仁城第四代城主、仲昔今帰仁按司が家臣の反乱にあい、滅ぼされたとき、難を逃れてきた中北山の一族が、今帰仁城の一代目から三代目までの城主の遺骨を『水釜イリタケーサーガマ』に葬った。初代屋良大川按司は第三代今帰仁城主の五男にあたり、父祖の墓を大事に守ったと伝わっている。なお、この遺骨を運んできた今帰仁の遺族らは、敵地になっている今帰仁には帰らず、中頭の方々に隠れたので、本部・今帰仁では、仲昔今帰仁按司祖先の墓を知らないという伝説が残されている。」とあって、次のような系図が記されていた。なお、文中にある中頭(なかがみ)とは、沖縄本島の中部地方を云い、本部 (もとぶ)とは、今帰仁城跡のある本部半島一体を指している。
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 ここに云う第四代城主とは丘春のことを指していると思われる。家臣の反乱とは、後々まで語り継がれている北山騒動のことだろう。丘春は今帰仁城を追われた後、屋良グスクに近い、今の北谷町砂辺集落に落延びたと伝承されているが、雌伏18年、旧臣を集めて今帰仁城を取り戻し、城主に返り咲いている。 
 北山騒動のさなか、遺骨を水釜(嘉手納町)の地に運んできた今帰仁の遺族らは、比謝川を挟んだ対岸の地、読谷村渡具知にある岩穴に隠れ住んだと云う伝承が残っている。舟を操りながら、川向うに葬った先祖の墓守をしたに違いない。
 しかし、第四代今帰仁城主、丘春の代か、その次の代か定かではないが、一族の怕尼芝(はにじ)に攻め滅ぼされ、中北山時代は終焉を迎えている。先の系図を見ると分かるが、怕尼芝は丘春の従兄弟にあたる。戦国の世の習いとは云え、無慙である。怕尼芝に滅ぼされ、今帰仁を追われた一族が住んだと云う住居跡が、比謝川河口の北側に、泊城公園として整備されていると云うので、この後、寄り道をすることにした。
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(2018.2.2)

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屋良城(やらぐすく)跡の拝所・今帰仁城の中北山時代後半に築城されたグスクかも知れない。

2018/02/07 13:38
 屋良城跡は、嘉手納町に在り、別名を「屋良大川グスク」とも呼ぶそうだ。北谷町の北側に続く嘉手納町も基地の町で、地図を見ると米軍基地の隙間に市街地が続いている。町の総面積は15.04㎢で、その83%に当たる12.4㎢が米軍の嘉手納基地であると云う。
 嘉手納町と周辺の北谷町、読谷町の地域は、沖縄でも最も古くから開け、縄文時代(沖縄史では貝塚時代)以前から人々が住み着いていたと云う。今から6〜7千年前の貝塚が、比謝川河口周辺から海岸線に沿って分布しており、古代から豊かな自然環境であったことが伺われる。
 地図を頼りに74号線から屋良の住宅街に入って行った。城跡へは近い距離なので簡単に行き着くと思いきや、例によってまたまた方向感覚が狂ってしまった。庭木の手入れをされていた熟年男性に聞いたら、「あぁ城址公園ね。この道を真っすぐに行った左手にあるよ。」と教えられた。男性が指差したのは、私が向かっていた方向とは全く逆だった。
 公園入口に掲示された城跡の略図を記憶して、坂道を上って行った。歩道の右手に、木立に囲まれた二の曲輪跡があって、石段を上ると、大木の根元に祀られた「屋良城之嶽」の前に出た。石碑には「神名 笑司ノ御イベ」と刻まれ、香炉が二基安置されている。屋良城の守護神である。斜め前に、コンクリートで六角形に囲まれた窪みがあって、香炉が一基置かれていたが、これは、何を意味する拝所だろう。
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 屋良城跡は、小高い琉球石灰岩の丘陵上にあって、城址公園として整備されている。北側を流れる比謝川を天然の濠として利用し、南西側に半円状に外郭を巡らした輪郭式の城郭であったと云う。発掘調査では、敷石遺構と4か所の柱穴群が確認され、土器、須恵器、陶磁器、鉄製品、古銭、線刻画石板などが出土しており、これらの遺構や遺物から推して、有力な按司が統治していたのだろうと云われている。築城は13〜15世紀と考えられるそうだ。しかし、昔日の面影を伝える遺構は全く残っていない。
 伝承によれば、屋良城を築いたのは、初代の御先大川按司(うさちおおかわあじ)だと云い、城跡の東側崖下に、「屋良大川按司の墓」として祀られている。以前は崖の中腹にあったが、崖崩れにより墓が倒壊したため、散乱した遺骨を厨子甕に分納し、真下の横穴を利用して1991年に移築されたそうだ。墓室は石灰岩の石積みで塞がれており、香炉が一基置かれていた。素朴な形に造られた墳墓である。
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 城主であった大川按司には二つの系列がある。第五代御先大川按司の嗣子が早世したために、先祖を同じくする安慶名大川按司の二男を婿養子に迎えているが、ここから後の系列を、後大川按司(あとおおかわあじ)と呼んでいる。
 後大川按司の墳墓は、御先大川按司の墓から少し先に歩いた右側にあった。こちらは綺麗に整備された墳墓である。老朽化に伴って2010年に改築されたそうだ。薄黄色に塗られ、祠の軒下には、「屋良後大川按司と一族の墓」と書かれた石碑が揚がっている。
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 改築の際の調査では、35基の厨子甕が納められていたと云い、「屋良」、「大川」、「康煕50年(清の元号で1711年)」、「乾隆24年(清の元号で1759年) 」などの文字が確認されたそうだ。
 大川按司は、北山世の主と呼ばれた、今帰仁按司の家系を継いでいる。今帰仁城の興亡史について、いくつかの文献に目を通すと、四つの時代区分で解説されている。資料による裏付けのない神話や伝承で語られる前北山時代。英祖王統の初代、英祖の次男、湧川王子が城主に就いたとする1260年頃から、同族の怕尼芝(はにじ)に滅ぼされた1322年迄の凡そ60年間が、中(仲)北山時代。怕尼芝が城主に就いてから、三代目の攀安知「はんあんち」が、中山国尚巴志と、その連合軍に滅ぼされた1416年迄を後北山時代。その後、尚巴志は城主を置かずに監守を派遣して統治したが、これを監守時代と呼んでいる。
 屋良城を築いたとされる初代の御先大川按司は、中(仲)北山時代の初代湧川王子から数えて三代目の今帰仁按司の五男として生まれている。長兄であった丘春(幼名千代松)が、今帰仁按司四代目を継ぐに当たり、家臣の反乱に合い、屋良グスクに近い北谷町砂辺集落に落延びたと伝承され、近郷には丘春にまつわる伝承がいくつか残されている。
 丘春は雌伏18年、旧臣を集めて今帰仁城を取り戻し、城主に返り咲いたと云う。これが、今に語り継がれている「北山騒動」である。騒動のさなか、難を逃れた一族が、仲北山の初代から三代までの遺骨を抱き、安住の地を求めて、今の嘉手納町水釜集落に葬ったと伝わり、歴代の屋良城主、御先大川按司は、父祖が葬られた墓を守護していたと云う。
 余談だが、戦国の武将で勝連城按司であった阿麻和利(?〜1458年)は、屋良村の出身で、屋良城主後大川按司の婿養子であったと云う伝承が残っている。また、先祖を同じくする同族には護佐丸の名も見える。二人の戦国武将の争いは、護佐丸と阿麻和利の乱として、後世に語り継がれることになる。
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(2018.2.2)
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下勢頭(しもせいど)の合祀所・勢頭は琉球士族が帰農して形成した開拓集落(屋取)だった。

2018/02/03 13:41
 北谷町は基地の町である。先の大戦後、下勢頭は米軍施設カデナエアーベースに収容され、集落の形成は無い。集落を追われた住民が、点在していた拝所を上勢頭の集落へ遷移したのが、「下勢頭の合祀所」である。
 勢頭集落は、沖縄本島に点在する屋取集落の中でも代表的な集落の一つである。屋取(やどり・やーどぅい)とは、貧窮した琉球士族が帰農して形成した開拓集落のことである。今の、下勢頭・下勢頭に移った士族は、後に勢頭七組と呼ばれたそうだ。稲嶺組、勝連組、喜友名組、佐久川組、瑞慶覧組、田仲組、与那嶺組で、それぞれに小屋組を形成したと云う。七組には、最初に寄留した士族の家名が付けられていた。
 下勢頭の合祀所がどの辺りにあるのか、皆目見当がつかなかった。北谷町のホームページにあった、伊礼東原610番地からして、上勢頭610番地ではないかと見当をつけ、集落の詳しい地図で確認しておいたのが良かった。どんぴしゃり、迷うことなく予測した場所に拝所はあった。なれど、高台に上る入り口に、「拝所につき、関係者以外の立入りを禁ず・北谷町下勢頭郷友会」と書いた立て札があって、通行止めの鎖が張られていたのである。
 上り坂を少し進んで、振り返ると基壇の上に石碑が建っているのが見えた。ファインダー越しに覗いたら「南無諸大明神」と刻まれているのが読める。祈りの初めに唱える文言、「おすがり申し上げます。よろずの神々様」と解釈するが、沖縄の村々には、祖霊神の力強い援護を求める信仰の形がある。「南無諸大明神」の文言は、どこか安直に思えてならない。もっと沖縄の信仰に根付いた重厚な祈りの文言は無いものだろうか。
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 合祀所には、神の加護に感謝し、無病息災や豊穣、豊作を祈願する「あしびなーじー」の神。集落の守護神で、四か所に設けられていた「ゆしみぬ(四隅)」神。「はなぐすくぬめーぬかー(花城前の井戸)」、「みじぬ神(水の神)」が祀られているそうだ。石灰岩台地上に拓いた土地では、湧き水の井戸は、貴重な水源で、神の恵みであった。
 58号線へ戻る途中、近道をするつもりで桑江の集落に入って行った。いつものことだが、方向感観が狂ってしまい、住宅街の中をうろうろとした果てに、道は行き止まりになってしまった。引き返す途中で、車止めの向こうに降って行く石段を見つけ、車が行き交う市道に出ることが出来た。その先に、立派な北谷町役場が見えて来た。
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(2018.1.21)
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