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沖縄拝所巡礼・ときどき寄り道
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 縁あって東京から沖縄・那覇へ移住した。ついに我が人生、第4コーナーを回ってしまった。正面にゴールが見える位置だけど、これまで、がむしゃらに歩き続けてきたので、これからはペースを落として、のんびり、ゆっくりとゴールに向かって歩くことにする。
 少しでも好奇心が残っているうちに、琉球王朝の歴史に想いを馳せながら、沖縄拝所の巡礼を続けたいと思う。
 ナイチャー(内地の人)の感性で、良き沖縄の日常をヤマトンチュウ(大和の人)に向けて発信して行きたいと考えている。
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御嶽に鳥居・御嶽は先祖の霊と対話する聖域であって、鳥居は相応しくない。

2018/06/20 13:59
 沖縄には、「セジ」と云う言葉がある。「霊力」の文字を当てると分かり易い。霊力の持ち主は神であり、そのセジを現わし、示してくれるのが祖霊神である。祖霊神を祀り、対話する場所が御嶽(うたき)と云う聖域であり、祀られる祖霊神は、村の鎮守の神様で、守護神である。
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 沖縄に移住して4年が経つ。拝所巡礼を思い立って、てくてくと歩き続けて来た。おぼろげだが、沖縄には集落に染み付いた土着の信仰があることが分かって来た。日本は仏教国と云われるが、沖縄には13世紀になって、本土から渡琉した僧により伝えられている。沖縄の祖霊信仰は、仏教が伝わる以前の姿そのままに、今日に至るまで、伝承や祭祀の行事の中に色濃く残っている。
 それを実感するのが、御嶽で、拝みを繰り返す熟年の夫婦に出会った時である。挨拶を交わし、ときには話し込むこともある。特に、首里を遠く離れると、ご先祖様との結びつきを大切にされている家族が多いように思えた。
 そんな伝統的な習俗が、色濃く残る北部地方を歩いて、違和感を覚えたのが、御嶽に建つ鳥居の存在であった。本来、神の住む領域と、俗界を区画 (結界)するための神聖な建造物が鳥居である。御嶽(うたき)は祖霊神を祀り、祈りによって降臨した祖霊神と対話する聖域であって、八百万の神を祀る神社と同列に扱うべきではない。
 御嶽に鳥居が建てられるようになったのは、琉球国が明治政府のもとで、近代日本国家に組み込まれてからのようだ。日本政府は国家神道を唱え、その普及に努めてきた。特に、昭和の時代に入って、そうした動きが顕著になり、祖霊神を祀る御嶽を神社とみなし、鳥居の建立を半ば強制したようである。住民が反対できる時代背景には無かった。ただ、戦後になって撤去が進んだようだが、地方へ行くと、そのままの姿で残されている例が目につく。
 宜野座村に惣慶宮と云う神社がある。もともとは、深い森の全域が「マチョウガマ御嶽」で、アガミ山と呼ばれていた。人の手を加えない自然のままの聖域が広がり、惣慶集落の祖霊神が祀られ、森の入り口には数基の香炉が安置されていたと云う。それが、日本が第二次大戦に突入した翌年、昭和17年(1942)に今の社殿が造られ、神社に変わってしまった。境内に建てられた由来記に、「出兵兵士は、武運長久を、お宮で祈り、戦場におもむきました。その後、アガミ山は、お宮と呼ばれるようになりました。」と書かれていた。行間からは、深い悲しみと、無力感が伝わってくる。御嶽に鳥居は、相応しくない。
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(2018.6.20)
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古宇利島の中森御嶽(なかむいうたき)・古宇利島は神の島。アダムとイブの島です。

2018/06/11 11:03
 ローカルバスの終点、屋我地島の運天原から、てくてくと歩いて全長2qの古宇利島大橋を渡った。沖縄ブルーの海、濃緑に覆われた島々をのんびりと眺め、堪能すること、凡そ30分。
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 渡り終えて、突き当りを左に折れ、300mも進んだところに、「ウンジャミン遺跡群170m」、「古宇利神アサギ130m」の標識が建っている。坂道を上って行くと、コンクリート造りの神アシャギ(神を招き祭事を行う場所)が建っていた。その手前に樹木に覆われた中森御嶽がある。聖地へは立ち入り禁止で、石段に続く入口は閉じられているが、雑木の間から、祠の屋根だけが見えた。
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 古宇利島には七つの御嶽があって、それぞれに宗家があり、一族、一門の家系で管理されているそうだ。その中でも、中森御嶽は中心的な存在のようである。祠にはご神体として原始時代の男性の骨が納められていると云い、中森御嶽から凡そ300mほど東寄りにある「マーハグチ御嶽」には、女神の骨が納められていると伝承されている。古宇利島に伝わる、次のような神話と関りがありそうだ。以下は、伊波普猷(註1)の著書「古琉球」の一節から抜粋する。伊波普猷は、隣家に住む老婆から聞いた話として、書き留めている。
 『むかしむかし古宇利島に男の子と女の子が現れた。二人は裸體でゐたが、まだこれを愧づるといふ気は起らなかった。そして毎日天から落ちてくる餅を食つて、無邪気に暮らしていたが、餅の食い残しを貯へるといふ分別がでるや否や、餅の供給が止まつたのである。そこで二人の驚きは一通りでなく、天を仰いで、
  
  たぅたぅまへされ、たぅたぅまへ (お月様、もしお月様)
  大餅やと餅お賜(タ)べめしよぅれ (大きい餅を、太い餅を下さいまし)
  うまぐる拾ぅて、おしやげやべら (赤螺を拾うて上げましょう)

と歌ったが、その甲斐もなかった。彼らはこれから労働の苦を嘗めなければならなかった。そして朝な夕な磯打際にウマグルなどをあさつて、玉の緒を繋いでゐたが、或時海馬の交尾するのを見て、男女交媾の道を知った。二人は漸く裸體の愧ずべきを悟り、クバの葉で陰部を隠すようになった。今日の沖縄三十六島の住民はこの二人の子孫であるとのことだ。』とある。
 民俗学的には、兄妹婚伝承とも云われ、琉球列島から東南アジアにかけて広く分布する古代神話だと云う。観光バスのガイドさんは、古宇利島を人類の始祖、アダムとイブが住んだエデンの花園に例えて、ロマンに溢れた島だと紹介している。
 来る途中で見かけた標識の「ウンジャミ」だが、「海神祭」と書く。海の神を祀り、豊漁、豊作を祈願する祭祀の行事で、沖縄本島中部から北部に見られると云う。古宇利島の東、対岸にある大宜味村塩屋のウンジャミは、国の重要無形文化財に指定されているそうだ。
 古宇利島では、旧盆明け最初の亥の日に行われ、カミアシャギ(神を招き祭事を行う場所)を中心とした道筋で、神女(ノロ)を中心として、儀礼的な行進(道ジュネ―)が行われると云う。カミアシャギでの祈りの所作に、「餅降らし」と云う動きがあると云い、先に記した神話の、「天から落ちてくる餅」に由来しているようだ。また、座敷演戯として、数十年前までは、兄妹婚の交わりの所作が伝承されていたそうだが、今では途絶えたと云う。ウンジャミの翌日には豊年祭が行われ、「祈豊年」と「海神遊(うんじゃみあしび)」と記され二本の旗頭で、集落内を行進すると云う。古宇利島では、豊年祭りと、海神祭りは一体となって催されている。
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 古宇利島は、地理屋の私にとって、とても興味深い地形である。周囲7.9q程の円形で、地殻変動によって隆起したサンゴ礁の小島である。空中写真で見ると、隆起の痕跡が、3〜4段の海岸段丘の形で残っていて、素人目にも、はっきりと分かる。
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 海岸段丘は、海底であった平坦部分が、隆起によって陸地化したもので、平坦面の最上部は、かつての海岸線を示し、急な崖は、かつての海蝕崖である。空中写真で見ると、平坦面を取り囲むようにして、樹林の緑が帯状に続いているが、それが海蝕崖である。
 隆起運動によって、それまでに形成されていた地形が、さらに押し上げられ、新しい汀線に沿って、また新たな段丘面、段丘崖が形成されていく。古宇利島には3〜4段に渡って、隆起運動の痕跡が残っているが、これほどまでに、はっきりと分かる海岸段丘地形は珍しい。中学、高校の地理学の教材には最適だと思うが、これまでに見たことは無い。
 帰り際、農村環境改善センターの前に建てられた、古宇利案内板を眺めていたら、見どころを記した地図に、古宇利七御嶽(註2)の場所が記されていた。那覇から日帰りの行程では巡拝すること難しい。日を改めて、神の住む古宇利島を訪ねてみたいと思った。
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(2018.6.2)

(註1)伊波普猷(1876年〜1947)、那覇市出身。言語学・民俗学・文化人類学・歴史学・宗教学など、多岐に亘って実績を残した琉球研究者で、沖縄学の父として知られている。

(註2) ナカムイヌ(中森)御嶽、マーハグチ御嶽、トゥングヮヌ御嶽、マチヂヌ御嶽、ビジュルメー御嶽、ソウヌ御嶽、プトゥキヌメーヌ御嶽、の七御嶽。
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垣内権現洞 (かきうちごんげんどう)・古代人の住居跡が、権現様になっている。

2018/06/06 11:29
 本部町、浜元の集落に「メ―ジャフ」と云うバス停がある。地名ではないようだ。メーは何かの前を指し、ジャフは場所などの固有名詞だろうと思うが、地元の方にしか分からない。そのバス停、メージャフの先を左手に入って山川漁港に向かって歩いた。途中のリゾート施設を通り越し、海岸沿いに整備された公園に突き当たって、右折して進むと山川漁港の岸壁に辿り着く。
 垣内権現洞は、港の岸壁に続く崖の上にあり、石段が通じている。洞窟の入り口には、「県指定史跡・山川垣内権現洞穴遺跡」と彫られた石碑が建っていた。傍らに建てられたプレートには、「この洞穴は人骨が納められていて、信仰の地になっていますが、洞穴の内部に土器や貝がらなどが堆積していることから、かつては古代人の住居であったと考えられます。」と説明されている。発掘調査では、無文深鉢型土器や、シャコ貝製の網の錘が出土したそうで、沖縄史の時代区分で云うと、貝塚時代の末期(約1000年前)から、グスク時代にかけての遺跡のようである。
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 洞穴は、間口が凡そ2m、高さ2m、見通せる限りでは、奥行きが4mほどの、小さな洞で、地元では「ハチヌチグシジン」と呼んでいるそうだ。グンジンは、沖縄語の三母音法則と、gがzに変化する方言ルールからすると、ゴンゲン(権現)→グンギン→グンジンと変化したものだろう。ハチヌチは場所を示しているようだが、これも「垣内(カキウチ)」が方言化したようである。
 洞穴の全てが聖域(イビ)で、天井から下がっている鍾乳石が、ご神体だと云う。薄暗くて見通しは利かないが、奥の方に香炉が一基、安置されているのが分かる。
 垣内権現洞窟は、後の調査によって古代人の住居跡だとされているがが、周辺の地形を見ると、近代までは、人里を遠く離れ、海に突き出した断崖で、風葬が行われた岩場の窪みではなかったかと思われる。古代人の住居跡であったものが、ずっと後世には、死者を弔う神聖な場所として崇められ、集落の人々の信仰の対象になったのだろう。
 権現信仰が沖縄に伝わったのは15世紀のことである。ハチヌチグシジン(垣内権現洞)の名で呼ばれるようになったのは、いつの時代からなのか。それまで祀られていた祖霊神が、日本本土から渡来した権現の名で呼ばれるようになっている。その経緯を知りたいものだが、先日訪ねた部間権現でも、似たようなことが言える。ご先祖様は、死して七代経ったら、黄泉の国、ニライカナイに神として住むと信じられている。洞窟はニライカナイに通じる入り口なのである。権現の名で呼ぶのは相応しくないように思えた。(2018.5.12)
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大米須親方之墓 (うふこめすうぇーかたのはか)・米須三代に亘る伝承が残る墳墓である。

2018/06/01 11:33
 大米須親方之墓は、本部町、渡久地交差点近くの崖下にあり、米須親方(うぇーかた)、米須里主(さとぅぬし)、米須子(しー)の、米須三代に亘る伝承が残る墳墓である。以下、分かりにくいので、仮に米須親方を初代、米須里主を二代目、米須子を三代目として整理する。
 国道449号線から、崖に沿って続く市街地に入って行った。所々で民家が途切れ、その奥に続く崖下に、苔むして、いかにも年代を経たと思われる墳墓が、次々と現れる。大米須親方之墓を特定するのは容易なことでは無さそうに思えたが、事前に地図で確認しておいたのが良かった。住宅街の奥に、それらしい墳墓を見つけた。土石の崩落を防ぐために、頑丈な鉄骨で支えた人工地盤が覆い被さった崖下にある。岩壁の窪みを石で塞ぎ、コンクリートで固めた洞穴墓である。
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 初代米須親方は、金丸(第二尚氏初代の王、尚円)の義兄に当たる人物だと伝承され、伊是名島から首里に上り、第一尚氏最後の王、尚徳に仕えていた。尚徳王は治世を疎かにし、人心が離れていたようで、臣下に推された金丸がクーデター起こし、王位に就く。しかし、米須親方は、先王に対する節義を重んじて、息子の米須里主を伴って、渡久地に隠遁したと云う。
 二代目米須里主は、この地で結婚し、米須子をもうけている。その一方で、辺土名(へんとな)ノロとの間に一子を儲けており、後の翁氏国頭親方盛順(おうしくにがみうぇーかたせいじゅん)だと云う。三代目米須子とは、異母兄弟と云うことになる。
 三代目米須子は、男児を儲けているが、その子が後の顧氏比嘉筑登之親雲上助輝(こしひがちくどんぺーちんじょき)と云われている。本土の友人には、貴方が書いた文章は、沖縄独特の用語や漢字が多くて理解できないと云う。難しい読みにはフリガナを付しているつもりだが、特に琉球王国の位階制度は複雑だし、読むのも容易ではない。ここに書いている、親方(うぇーかた)や里主 (さとぅぬし)、 筑登之親雲上(ちくどんぺーちん)は士族の称号である。親方は士族でも高位にあるが、 里主や 筑登之親雲上は下級士族である。
 二代目米須里主は喜界島大屋主(村役人)を勤め、その子孫が同島には多いそうで、墓も同地にあるそうだ。ただ、一説によると、その子、三代目米須子が同島に赴任していたとも云われ、渡久地の墓は、二代目米須里主の墓だとする説もある。墓前に建つ墓碑の裏面には、建立者として「顧姓、翁姓、呉姓、三門中会一同」と刻まれているが、呉氏(ごうじ)の先祖に繫がる伝承が見つからない。
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(2018.5.12)
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瀬底の土帝君 (せそこのとていくん)・本土では、馴染みのない神様です。

2018/05/27 12:50
 瀬底島は本部(もとぶ)半島の東側にあって、周囲7.3qほどの小さな島である。昭和60年(1985)に瀬底大橋が完成し、今では、海峡を歩いて渡ることが出来る。大橋の上から俯瞰した波打ち際が、静かに動いていた。沖縄ブルーの水と、赤味を帯びた砂のコントラストが眼に優しい。大橋の造形美とともに、印象に残る絵画のような風景である。
 土帝君の神殿は、瀬底島のほぼ真ん中、瀬底公民館から左に入った所にある。濃緑で鬱蒼とした樹木に囲まれ、厳かな雰囲気を醸し出していた。途中には道標が建っていたので、迷うことはなかった。
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 社殿は石垣塀で区画され、緩やかな斜面に、石段、拝殿、本殿が直線状に配置されている。土帝君を祀る社としては、沖縄で最大規模のもので、他に類を見ないそうだ。本殿は格子戸で閉じられているが、香炉が一基安置されているのが透けて見える。その奥にある祭壇は、木製の扉で固く閉ざされているので、土帝君の像を直接拝むことは出来ない。
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 祀られている像は、二体の脇侍を伴った男神1体だそうだが、元々の像は、先の大戦中に盗難にあって紛失したと云う。現在祀られている像は、瀬底土帝君の所有者である上間家が調達したもので、当初の像と同じ姿に造られているそうだ。写真は、以前訪ねたことがある那覇市国場に祀られている土帝君の像で、顔面が修復されているが、ここからイメージするしかない。
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 土帝君は、地域によって、トーティクウ、トコテン、トゥントゥクなど、色々な呼び方があり、古代中国を起源とする神様で、本土では馴染みの無い神様である。三世紀の中国、宋の時代(690年〜1279)から、邑や集落の陰陽両界を守る神として祀る習俗があったようだ。土地神と呼ばれ、一説によると、その地で功労があった高徳の人が、死後に神になるとされ、一般の神様とは性格を異にしているようである。今の台湾では、土地公(トティコン)、伯公(バックン)などと呼ばれていると云う。掲示された文章には、「とていくん」とルビが振られていた。「土帝君」の表記は、同音に起因する誤写の結果だそうだ。
 祭礼は、土帝君正月と呼ばれる旧暦の2月2日に行われ、豊作、健康、集落の繁栄を祈願すると云う。この日は、土地神の誕生日とも言われているが、そうだとすると、特定の神様を指すことになる。その土地々々で功労があった高徳の人が、死後に祀られたとする説からすると、それぞれの誕生日が同じ筈は無い。功労者は複数の人々であって、祭礼が行われる日が、土帝君の誕生日だとする説には、納得しかねる。
 沖縄の土帝君信仰は、琉球王府編纂の史書『球陽』(1745年)には、1698年に大嶺親方弘良が神像を持ち帰り、自領の旧小禄村大嶺(現那覇市大嶺・今の那覇空港がある地域)に祀ったのが始まり、と記されているそうだ。ただ、近世の沖縄を代表する学者、程順則(ていじゅんそく・1663年〜1734)が著した「指南広義」の記述からは、それ以前から土帝君信仰があったことが伺われると云う。
 いずれにしても、土帝君は、17世紀後半に中国から伝来した外来神である。それまで琉球国の領域であった奄美には、土帝君信仰は見られないと云うから、1609年薩摩侵攻により薩摩藩の支配地域になっていた奄美には、土帝君信仰が伝わらなかったようだ。
 過去の調査によると、沖縄には土帝君の祠が42ヶ所ほどもあったそうだ。戦前は、もっと多かっただろうと云われている。戦争で祠が破壊され、戦中、戦後の動乱時期に、神像を盗まれたケースもあったようだ。無傷で残っている古い像は、中国の土地神の像に酷似していると云う。
 瀬底島に祀られている土帝君の由来について、神殿の境内に建てられた説明板から抜粋する。『瀬底における土帝君信仰は、上間家二世・健堅親雲上(きんきんぺーちん・1705年〜1779)が若いころ、山内親方に随行して清国に渡った際、農神土帝君の木像を請じて祀ったのが始まりである。瀬底土帝君は、沖縄各地に祀られる土帝君のうち最大の規模を保つ礼拝施設で、建設年代は不明だが、本殿及び拝殿の軸部、石組等の状態から、18世紀中頃の造営と考えられる。この土帝君は本部間切の地頭代を務めた上間家の所有で、毎年2月2日に祭礼(土帝君正月)が行われる。祠は、石垣で整然と区画された一画にあって、珊瑚石の巨岩を用いて建設された本殿(イビ)や拝殿(アサギ)、庭(ミャー)が直線状に並んでおり、土帝君信仰に関する建造物の形態をよく保つ代表的な遺構である。』と説明され、平成9年(1997)に重要文化財に指定されたとあった。
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 掲示された説明文の中に、「山内親方に随行して清国に渡った際、」と云う文言があるが、山内親方とは、第二尚氏尚真王 (在位:1477年〜1527)から、尚清王の時代(在位:1527年〜1555)に三司官(宰相)を務めた山内昌信とする文献があった。ただ、両者が活動した時代には200年以上もの開きがあり、健堅親雲上が随行したのは、山内昌信の子孫で、何代か後の人物だろう。
 それにしても、誰一人も歩いていない。こんなに立派な社に祀られた土帝君が、集落の日常の中で、どのように根付いているのか探って見ようと思ったが、果たせずに終わった。(2018.5.12)
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健堅比屋之墓(けんけんひやのはか)・その昔、琉球馬は明国に輸出されていた。

2018/05/23 12:11
 健堅比屋之墓は、本部町健堅集落、瀬底大橋の東詰に近く、国道449号線沿いの山際にある。歩道から直接上って行く石段が通じているが、訪ねた日、熟年のご夫婦が、拝みの準備で、茂った雑草の刈り取りをされていた。作業の邪魔になってはいけないので、石段の下で引き返すことにした。
 背丈を越える雑草が石段を覆っていたので、崖下から墳墓を伺うことは出来なかった。国道を横切って、海側からズームレンズを通して見たら、草刈りが粗方終わって、祠の軒と墓誌が建っているのが望めた。墓誌には、「健堅比屋御墓所」とあり、「鳳姓元祖」の文字も読める。
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 健堅比屋は察度王(在位:1350年〜1395)時代の人で、伝説上の人物のようだ。「比屋」とは、村の首長のことで、大親(うふや)と表現することが多い。子孫は鳳氏仲村家だそうで、墓誌からすると、鳳氏を名乗る元祖のようだ。
 以下は伝承である。健堅比屋は、明国の船が難破して漂着した明人を庇護し、船を与えて無事に送り返したが、このとき、明人がしきりに欲しがっていた名馬を与えたそうだ。帰国した明人は、この馬を皇帝に献上したと云う。後に、明の皇帝から、時の琉球王を通じて御礼の絹と石碑が送られてきたと云い、その記録が、琉球王府が編纂した史書「球陽」(1745年)にあるそうだ。 
 明の皇帝に献上されたと云う名馬は、そのころ、村を駆け巡り、穀物を食い荒らしていた荒馬で、健堅比屋は、村人を集めて何とか生け捕りに成功し、調教したようだ。全身真っ黒の駿馬で、漂着し庇護されていた明人は、その毛並みの良さを見抜いていたのだろう。
 健堅集落の小字に、駆原(かきばる)という地名がある。伝承から想像するに、野生の馬を捕獲し、飼い馴らした馬場だったのではなかろうか。琉球には、昔から在来馬がいて、明に輸出されていた記録がある。明朝では、モンゴルからの侵略に備え、軍馬の需要があったようで、多い時には、年間で千頭も輸出されたと云う。ただ、今では頭数が減り、見かけることは少ない。
 健堅比屋之墓と国道を隔てた反対側、海沿いの岩陰に、小さな墓碑があって、「シジマ乙樽本墓」と刻まれた拝所があった。仲昔今帰仁の時代に、王家の存続に重要な役割を果たした女性、「志慶真乙樽(しげまうとぅたる)」のことのようである。シジマはシゲマが変化したものだろう。以前、今帰仁村今泊集落の外れにある志慶真乙樽の墓を訪ねたことがある。本部半島の北と南に分かれて、墓の本家争いをしているように思える。
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(2018.5.12)
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部間権現 (ぶーまごんげん)・ 仏様の化身、万の神様が祀られている有難い神社です。

2018/05/17 17:08
 てくてくと、国道449号線を辿りながら、入り江を跨ぐ武間大橋までやって来た。砂浜の向こうに集落の家並みが見えるが、入って行く道が分からない。武間大橋を渡ってしまうと、集落を通り越してしまう。
 地図を確認しながら少し戻ったら、雑木の向こうに、並行して走る旧道が見えた。だが、旧道へ通じる道がない。行きつ戻りつしていると、雑木林の中に、なんとなく人が歩いたような隙間を見つけたので、ハブの恐怖に脅えつつも入って行った。窪地を飛び越えて、無事に旧道の土手へ渡り終える。事前に道筋を調べておいたメモには、「旧道を歩く」と書いているにも関わらず、まったく失念している。
 集落のはずれに、武間権現と彫られた立派な石碑が建っていた。昭和48年5月に、日本復帰記念として建てられたそうだ。部間権現のことを、地元では、「ぶーまごんげん」と呼んでいる。山手に向かって上って行く道は、コンクリートで綺麗に舗装されていた。正面に大きな鳥居があって、そこから通じる参道の両側には、見事な石灯籠が並んでいる。数えてみたら、片側に17基、左右合計で34基あった。
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 沖縄でも、それも首里から遠く離れた本部半島に、これほどまでの規模で、石灯籠が並んでいる神社があるなんて、想像もしなかった。一瞬、本土の神社に迷い込んだような錯覚を覚えた。それに、語彙の乏しい私には表現できないのだが、なんだか、わけの分からない違和感が、頭の中を過り始めていた。
 石灯篭の並ぶ参道を抜けた所にも、小さな鳥居がある。そこから更に、樹木が覆い被さって、狭くなった参道が続いていた。樹木のトンネルを抜け、視界が開けると、左手に拝殿が現れる。コンクリート造りの屋根は唐破風で、頑丈な柱で支えられている。両脇には、奉納されたシーサーが置かれていた。祭壇の中央に丸くて、大きな香炉が安置され、両側にはそれぞれに小振りの香炉が置かれている。
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 後方、一段と高くして、神殿が造られている。太い石柱が片側に三本、都合六本並んで、なんとなく西洋の神殿風だが、屋根は神明造りになっている。和洋折衷である。その奥には二基の石灯籠が建っていて、暗い洞窟が口を開けていた。鍾乳洞の全域が、ご神体だそうだ。
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 神社の名につけられた「権現」を広辞苑で調べると、「仏・菩薩が衆生を救うために、種々の身や物を権(かり)に現すこと。権化(ごんげ)。 本地垂迹(ほんじすいじゃく)説では、仏が化身して、わが国の神として現れること。また、その神の身。」、と説明されている。これまた、辞書で調べないと分からない文言が並んでいるが、仏教が渡来して興隆した時代に、八百万の神々は、実は様々な仏様が化身として現れた仮の姿(権現)である、とする考え方があった。この神仏習合思想を、本地垂迹説と云うそうで、この思想を頭の隅におかないと、部間権現に祀られている神々の由緒が理解できない。
 神殿には三基の香炉が安置され、それぞれに、権現(仮の姿)様の名前が記されている。向かって左側から、本尊を「アミダニョライの神様」として、一文字下げて、脇侍の様に、二神「大主ぬ神様」、「美女心母神」が、並列に記されている。同じように、中央には、主尊を「御天七神」として、「国主ぬ神様」、「土地七神」が並記され、右側には主尊を「御天十二支ぬ神様」として、「地主ぬ神様」、「土地十二方」と並記されていた。
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 アミダニョライの神様は、阿弥陀如来、そのままの名で、権現の名にはなっていない。本地垂迹説による仮の姿は、熊野権現・八幡神である。次の御天七神だが、最初は、日本国の開闢神話に現れる七神ではないかと思ったが、一般に知られている「七福神」のことだろうと思った。庶民に親しまれる、恵比寿、大国天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天、が祀られていると解釈したほうが、身近に感じられる。
 「御天十二支ぬ神様」は、干支の守り本尊、大日如来や勢至菩薩、普賢菩薩や文殊菩薩などの仏様を指しているのだろう。それとも、十二の方位を守護する天部の仏様を指しているのかも知れない。東西南北それぞれに、持国天、広目天、増長天、多聞天、ほかに毘沙門天や帝釈天の仏様もいらっしゃる。
 一方、本尊に並記されている神様、六体については、全く手掛かりが掴めない。地元に根付いた守護神の名前でもなさそうだ。それにしても、万の神様が集い、神在月の出雲大社にも負けてはいない。何とも有難い権現様である。

 石灯籠が並ぶ参道からの風景が、異様に映った。近くにあるセメント会社が、大規模に石灰岩の採掘を行い、神社のある西側から北側にかけての岩山は削り取られ、見る影もない。参道の整備を含めて、鳥居や石灯籠の多くは、セメント会社が奉納したようだが、自然破壊の詫び料なのかもしれない。
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 最初に鳥居を潜り、参道を歩き始めた時に感じた、違和感の正体が分かって来た。石灯籠が並び、現代風に整備された参道、その向こうに破壊された岩山の風景を眺めたら、静寂で厳かな、拝所の雰囲気が感じられなかったのだ。本来、沖縄の拝所には、時によれば、霊気さえ感じる尊厳がある。
 神殿の後ろにある鍾乳洞からは、15世紀ころの中国製青磁が出土したそうだ。古い時代には、神の住む国、ニライカナイに通じる洞窟として、自然発生的な信仰の場所であったろうと思う。素朴な拝所として崇められていた洞窟が、大きな鳥居が建ち、石灯籠が並ぶ権現様に変わってしまった。いつの頃からだろう。

 体力が残っていたので、もう少し先まで歩くことにした。名護市から本部町に入って最初の小さな集落に、塩川がある。道路沿いに「天然記念物・塩川」、と刻まれた石柱が建っていたので、雑草が茂る道に入って行った。
海から150mほども離れた内陸に在る湧き水だが、塩分が含まれているそうだ。手で掬って舐めてみたら、ほんとにしょっぱかった。説明されている文章を読むと、岩塩層によるものではなく、海水と陸水が混合したものだと云う。でも、海面よりも、かなり高い位置にある湧水だけど、地下は、どんなメカニズムになっているんだろう。
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 あっちこっち寄り道をしながら歩いてきたので、本日歩いた距離は、凡そ17q。まだまだ元気だ。(2018.4.28)

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安和のクバ御嶽 (あわのくばうたき)・厳かな雰囲気が漂っていた。

2018/05/13 16:37
 山入端(やまのは)集落から、安和集落へ入って行った。少し登り坂になって、家並みが途切れ、県道の両側から、緑の森が迫り出した場所があった。その昔の村境を思わせる風景である。村人は坂道を登り、掘割を抜けて峠道を越え、互いの集落を行き来していたのだろう。
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 クバ御嶽は安和集落の北はずれにある。住宅街の向こうに続く丘陵には、遠目にもクバの樹林が望め、御嶽の森であることが分かる。道は森に突き当り、そこから左右に分かれて、上り坂が続いている。右側にとって進むと、直ぐの左手に、「県指定民俗資料・安和のくばのうたき」と刻まれた石柱が建っていた。傍らに、青い下地に白文字で書かれた説明板もある。
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 濃緑の樹木に覆われた広場に入って行くと、奥の方に御嶽の森を背にして遥拝所が建っていた。小さな祠で、丸くて白い陶器の香炉が3基安置されている。祠の後ろには、聖木と云われるクバの木が群生していて、聖域と呼ぶにふさわしい、厳かな雰囲気が漂っていた。
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 遥拝所の背後に広がる標高40mの森全域が、安和集落の祖霊神を祀る御嶽である。貴重な民俗文化財で、イビ(神域)への遙拝所、イビ、墳墓などが昔のままに残っているそうで、御嶽の形式が、今に保存されていると云う。
 御嶽の名にある「クバ」とは、亜熱帯の植物で「蒲葵」と書き、学名を「ビロウ・檳榔」と呼ぶ樹木のことである。多くの御嶽では神木として、イビ(神域)の後ろにクバの高木を見ることがある。祖霊神は、祭祀、祭礼の呼びかけに応じて、このクバの木を足掛かりにして、降り立って来ると信じられている。
 琉球王府編纂の地誌、『琉球国由来記』(1713年)には、御嶽名や神名に、クバウノ嶽やコバノ森、コバツカサノオイベやコバウノオイベなど、クバを表す名称が69ヶ所も出てくるそうだ。クバ(蒲葵)は、日本本土でも、古式に則って行われる祭礼には、クバの葉で編んだ団扇が用いられている。今なお、沖縄では神木として扱われ、『吉野裕子全集・第一巻(扇・祭の原理)』の第五章、「御嶽と蒲葵」で、生命の根源を象徴する樹木として、詳しく考察されている。
 これまでに、何か所かクバ、あるいはクボウの名の付く御嶽を訪ねたことがある。今帰仁の「クバの御嶽」は、今帰仁城跡の西側に在って、二つの峰からなる山、すべてが聖域で、沖縄最大の広さを持つ御嶽だそうだ。琉球の国造り神話に、開闢神(かいびゃくしん)として登場する阿摩美久(あまみく)が降臨して、最初に造った七御嶽の一つであると伝承されている。
 久高島にある「クボー御嶽」も、七御嶽の一つである。男子禁制のみならず、今では聖域を犯す不埒な輩の侵入を防ぐために、何人も出入り禁止になっている。緑に覆われた聖域が深々と広がっていた。
 南風原町津嘉山集落にも「クボー御嶽」がある。場所が分からず、同じ所を何度も行き来した記憶がある。与那原町の与原区公民館の一角にある拝所、「久葉堂」の名も、御嶽の神木「クバ」と同じ音韻なので、気になっている。
 柔らかい木漏れ日を浴びながら、境内に座り込んで煎餅を齧っていたら、やぶ蚊の襲来にあってしまった。厳かな雰囲気に浸っていたにも関わらず、これでは台無しである。早々に退散する羽目になってしまった。
 御嶽の森、全容が望めるかも知れないと思い、境内の横に続く農道を上って行った。急な坂道が続くので、息切れが激しく、途中で諦めてしまった。まだまだ、体力があると思っているのに、歳には逆らえないようだ。
 バス通りに戻り、地図にある安和神社を探すことにした。住宅街に入って路地を行き来していたが、結局見当たらず、元の場所に戻ってきた。ところが、なんてことは無い、目の前にあるスーパーの駐車場に隣接して、鳥居が建っていた。
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 安和神社は昭和9年(1934)、今上天皇が誕生されたことを記念して、それまでの素朴で簡素だった祠を、神社に建て替えたそうだ。コンクリート造りの神殿には、ご神体は無い。神様の名も無い。四角い香炉が一基安置され、その後ろに何かを載せる台が置かれていた。祭礼の時に、ご祭神を安置する祭壇のようである。
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 神殿の横に、神を招き、祭事を行う神アシャギが造られている。比較的新しい建物で、軒に打ち付けられた金属プレートに、平成23年10月に安和区民一同によって改築された、とあった。
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 神殿が建て替えられた前年、昭和8年は、日本が国際連盟を脱退し、戦争の足跡が聞こえ始めた頃である。政府は、国家神道を唱え、その普及に努めていた。村人たちは、時代の流れに抗しきれず、素朴な祠だった拝所を、鳥居を構えた神社に変えざるを得なかったのだ。
 安和集落の古島(もとの場所・故地)は、今ある集落の北東、上座毛(うぃざもー)と呼ばれる丘陵地帯にあったと云う。建て替え前の素朴な祠には、今の地に移り住み、村を拓いたご先祖様が祀られていたに違いない。(2018.4.28)
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山入端神社 (やまのはじんじゃ)・集落を拓いた7戸の家族が祀られているのだと思う。

2018/05/09 19:37
 山入端御嶽(やまのはうたき)から集落に入って行くと、左手にバス通りに背を向けて山入端神社が建っている。鳥居を潜ると、左右に灯篭が立ち、その向こうに、何とも異形だが、黒塗りのシーサーが建っていた。本土の神社には狛犬さんが建っているが、私にはシーサーと狛犬さんの区別はつかない。もともとルーツは同じなのだから、そんなことはどうでもよいのかも知れない。
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 本殿は赤瓦で葺かれ、コンクリート造りで、回廊形式の手摺りで囲まれている。今ある神社は、昭和54年(1979)に再建されたものだそうで、神を招き、祭事を行う神アシャギも造られている。
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 昭和の初めごろまでは、村の守護神を祀る小さな祠だったそうだ。記録によると、昭和8年(1933)にセメント造りの社殿が建立されたと云う。昭和8年と云えば、日本が国際連盟を脱退し、戦争の足跡が聞こえ始めたころだ。政府は、国家神道を唱え、その普及に努め、神との結界を示す鳥居が、その手段にされてしまった。結果で、沖縄には「御嶽に鳥居」と云う、実に滑稽な風景が今に残ることになる。山入端神社も、小さな祠だったものが神社に変えられてしまった。そんな背景があってか、いくら調べて見ても、山入端神社の、ご神体の名が分からない。祭壇の何処を探しても、神の名は書かれていないし、ご神体らしき形は見当たらない。生花が供えられ、香炉が一基安置されているだけである。
 集落の人々にとっては、祖霊神を祀る祠なんだから、神の名前は要らないのだろう。1736年、琉球王府の政策によって、今の名護市中山の小字古山入端原(ふるやまのはばる)から、現在地に7戸の家族が移されたと云うが、その7家族が、集落を拓いた祖霊神として、祀られているのだと思う。山入端の集落で、催し物があった時に唄われる「山入端音頭」には、「七家族ぬ神ぬわが島造て、今や千年に村や栄えて」の文言がある。
 山入端の向かい側に、気になる看板を見つけたので立ち寄った。「名護按司奉納 世禮門中」とある。祭壇があって、中央に二幅の掛け軸が下がっていた。一つは馬に跨り、戦に向かう関帝王を描いた掛け軸だが、もう一幅は、何が描かれているのか分からない。関帝王は忠義と武勇の象徴で、琉球王府の維持、強化と云う視点から、誠に有り難い神様であったようで、家臣に対する褒美・恩賞として関帝王の図を下賜することがあったそうだ。いつの頃の名護按司(城主)だか分からないが、琉球王府から下賜された貴重な掛け軸なのかもしれない。名護按司の子孫である世禮門中が祀る拝所のようだ。頭を垂れて、手を合わせたて来た。
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(2018.4.28)
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山入端御嶽 (やまのはうたき)・鳥居の「山入端御嶽」と書いた扁額が裏側にある。なぜだ?

2018/05/09 14:59
 国道449号線、名護湾を望む絶景の地に、リゾネックスホテルがある。その向かい側から旧道に入ると、直ぐの右手に山入端御嶽の鳥居が建っていた。折悪しく道路工事中で、鳥居を潜って境内に入って行くことが出来ない。迂回しながら御嶽の森に入って行った。地元では「やんばーうたき」と呼んでいるそうだ。
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 これまでに何度も触れて来たが、御嶽に鳥居は要らない。明治以降、日本政府は国家神道を唱え、その普及に努めていた。特に、昭和の時代に入って、そうした動きが顕著になり、祖霊神を祀る御嶽を神社とみなし、鳥居の建立を半ば強制したようである。住民が反対できる時代背景にはなかった。その結果、御嶽に鳥居が建つと云う、実に滑稽な風景になってしまった。
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 ただ、鳥居の裏側に「山入端御嶽」と書いた扁額が掛かっていて、竣工・昭和53年1月とあった。戦前には無かった鳥居なのか、古くなったので、新しく建て替えたのか、そこらへんが分からない。でも、裏扁額の意味するところが気になってしまう。竣工銘板なら、門柱の下部に取り付けられる筈なんだが。
 広場の奥に小さな祠があって、鉄格子の向こうに、ご神体の石が祀られ、香炉が安置されていた。御嶽への遥拝所である。背面には比較的新しい板に、「裕光」と書いた文字が見えるが、何を意味するのか分からない。
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 祠の背後は小高い丘になっていて、この森の全域が祖霊神を祀る御嶽であることが分かる。祠の右側に石段があったので上って行ったら、雑木に埋もれる様にして祠が建っていた。神が来訪するイビである。祠の前に立ち、帽子をとって丁重に頭を下げて来た。
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 山入端村の発祥については、次のような記録がある。王府の三司官、蔡温(1682年〜1762)は、国頭地方の山林を巡視して、各地の村を移動させる農業政策を行った。その一環として、乾隆2年(中国清の年号で、1737年)に、今の名護市中山の小字古山入端原(ふるやまのはばる)から、現在地に7戸の家族が移されて、山入端村が形成されたと云う。明治41年(1908)に名護村に編入されるまで、山入端の村名が残っている。
 『琉球国由来記』(1713年・王府編纂の地誌)に、今の名護市中山の小字古山入端原に在ったとされる御嶽として、「セキカケナカモリノ嶽」の名があるそうだ。今の山入端御嶽は、移住して来た7戸の家族が祖霊神を祀る場所として、セキカケナカモリノ嶽を遷したのかもしれない。・・・が、これは、いつもの通り、私の想像である。(2018.4.28)
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凌雲院 (りょううんいん)・ 地元では屋部寺(やぶでら)と呼んでいる。

2018/05/06 10:21
 屋部(やぶ)集落は、名護市の西方、本部半島の付け根部分にあって、やって来たのは、今回で2度目である。3年ほど前、今帰仁城に関わりのある聖地を巡拝した際、臣下の謀反によって城を追われた按司一族を匿ったと云う「阿儀道屋(あじみちやー)」を訪ねた。今でも、今帰仁の聖地を巡る、「今帰仁上り(なちじんぬぶい)」の習俗は残っている。
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 凌雲院は、屋部集落の北はずれにあって、寺院に通じている道沿いのブロック塀に、左矢印で「屋部寺」と書いた道標が打ち付けられていた。地元では屋部寺(やぶでら)と呼んでいるようだ。
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 折から、拝み(うがみ)に訪れた二組の家族があった。先の家族が儀式を終えるあいだ、一方の家族は、脇のベンチに平御香(ひらうこー)を並べ、お餅や果物を盛った箱、「ビンシー」を置いて待っている。因みに、ビンシ―とは、携帯用の祈願道具箱のようなもので、御神酒が二つと、お酒を注ぐ酒杯を収め、仕切りがあって、お供え物をコンパクトに盛り付けた箱である。拝みに訪れる際の必携品で、沖縄の祈りは先祖崇拝が根底にあるので、神社や寺院、御嶽であっても、お参りに持参する道具は同じである。
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 祭壇には、左から「釈迦如来」、「地蔵菩薩」、「延命観音」、中央に一際大きい、ご本尊の「薬師如来」。続いて「聖観音菩薩」、「不動明王」、「子安地蔵菩薩」の像が安置され、それぞれに仏様の名前を書いた札が置かれていた。かなりの時を経たと思える仏像が並んでいる。
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 山門の脇に凌雲院と彫られた、、立派な石碑が建っていた。そこに、「開祖は凌雲和尚、西暦1692年、屋部邑に草庵を構結して、楽道安身の処となす。当時、大旱釈道周く通ぜし、和尚の昼夜の念経呪法により終に大雨降る。また、屋部村に多かりし火災をもなくせり。」と刻まれていた。同様の文言が、琉球王府が編纂した史書、『球陽』の附巻に記されているそうだ。
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 開祖凌雲の出自は、はっきりしないが、首里の円覚寺で修業し、本土に渡って研鑽を積み、『帰琉の後には、浦添に在ったとされる古刹、龍福寺の住職に就いたと云う。『球陽』の記述によると、1699年の条に、龍福寺の住僧凌雲が、屋部邑に草庵を構えて移り住む、と記されているそうだが、石碑にある1692年、屋部邑に草庵を構結して楽道安身の処となす、の記述とは、なぜだか、7年のずれがある。
 境内の隅に、「坊主御井戸(ぼうじうかー)」が復元されていた。湧き水は見られず、枯れ井戸の底に、お賽銭が重なっていた。
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(2018.4.28)
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宮里前之御嶽 (みやざとめーぬうたき)・神女(ノロ)の国、琉球に女人禁制の御嶽があった。驚き。

2018/05/01 15:09
 名護市役所から東へ凡そ500m、バス道路沿いに鳥居が建っていて、脇に「前之宮」と彫られた石碑が見える。地元では、メーウガミ(前拝み)、またはメーヌタキ(前の御嶽)と呼ぶそうだ。『琉球国由来記』(1713年、王府編纂の地誌)に、宮里村の御嶽として、「マキョガマノ嶽」の記述があるそうだが、それが前之宮を指しているのかどうかは不明だと云う。
 濃緑に覆われた森の中に、厳かな佇まいの社殿が、木漏れ日をうけて浮き上がる。神事に使われる左縄が張られ、鳥居から先に入って行くことは出来ない。社殿は、沖縄特有の赤瓦で葺かれているが、屋根に生えた雑草が気になる。軒に彫られた図柄は何を表しているのか分からないが、注連縄を連想させる。石造りの社殿で、拝殿は木製の扉で固く閉ざされていた。小さな社殿だが、回廊のように、石の手摺りで囲まれている。
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 前之宮は女人禁制だそうだ。琉球国には、聞得大君(きこえおおきみ)を最高神女とするノロ制度があって、神に仕えるのは女性であった。その琉球に女人禁制の御嶽があったなんて、驚きだ。当てにはならない伝承だが、前の宮には僧侶が祀られており、僧侶は妻帯できないので、女性は入ることが出来なかった、と云うことらしい。であれば、当然のこと、前之宮の祭祀を司るのは男性である。ホーニン(包人)と呼ばれ、集落の旧家、門中から選ばれた男性が神事を取り仕切るそうだ。
 「前之宮」があるからには、「後之宮」もある。宮里集落の北方にあるらしいのだが、場所が分からない。前之宮とは逆に、後之宮は男子禁制だそうだ。文献(角川日本地名大辞典)には、後之宮の記述に、「根神(にーがん)が祭祀に当たる。」と、説明されている。沖縄では、村を初めに拓いた家を根屋といい、祖霊神を祀るのは、代々と続く根屋の娘である。根神(にーがん)、あるいは根人(にっちゅ)と呼ばれている。
 鳥居から少し離れた所に、「県指定天然記念物・宮里前の御嶽のハスノハギリ林」と書かれた石柱があって、詳しく説明された掲示板が建っている。そこから森の中に入って行くことが出来たので、前之宮の社殿に近づいて、手を合わせて来た。ハスノハギリは熱帯の海岸に自生する常緑樹で、高さが15mから20mにもなり、沖永良部島が北限だそうだ。宮里前之御嶽のハスノハギリ樹林は、周辺の海浜が埋め立てられ、今では市街地に取り込まれている。難しい生育環境だろうが、大切に保存されているようで、街に潤いを与えている。
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(2018.4.18)
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護佐喜宮(ごさきぐう)・名護市街地の大中、大東、大西、大南、大北は、その昔大兼久村だった。

2018/04/26 15:58
 護佐喜宮は、名護市街地に在って、モダンな建物で、リゾートホテルを思わせる名護市庁舎に近い。町名にある、大中、大東、大西、大南、大北の市街地は、王府時代から、明治38年(1905年)に至るまで、大兼久村と呼ばれていたようだ。周辺の村と合併して名護村が形成されたときに、今の集落名が付けられたようである。それにしては、安易に名付けたものだが、大兼久村の大を頭に、東西南北に区分されているので、分かり易くて良い。護佐喜宮は、今の大中に在ることから、大兼久村の真ん中、高台の森に祀られた鎮守様で、村人の拠り所であった様子が伝わってくる。
 道路沿いから、急な石段が続いている。上り終えると狭い境内に拝殿があって、更に見上げるような急な石段が続き、天辺に祠が建っていた。神様の名前が分からない。あいにく社務所が閉まっていたので、縁起を尋ねることが出来なかった。
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 拝殿の柱に祈願の文言を書いた紙が、やたらと貼りつけてある。「無病息災」、「家内繁栄」、「家庭安寧」、「安産」、「商売繁盛」、「就職決定」とあって、何でも有りの神様のようである。鈴を鳴らし、柏手を打つ。独居老人の私には、無病息災の祈願が相応しい。
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 拝殿の脇から、上に向かって続く道が通じていたので登って行ったら、社殿の裏手に当たる高台に出た。特別に何かがあるわけでもないが、何だか気になる広場である。旧暦の8月10日には例祭が催されるそうだが、急斜面にある境内は狭いので、この広場に集落の人々が寄り集まって、祭祀の行事が行われるのかも知れない。道は、反対側へ下っていた。護佐喜宮のある場所は、そこだけが市街地に囲まれ、突出した丘になっているようだ。その昔、人家のまばらだった頃には、村中から望め、鎮守様を祀るに相応しい森の佇まいであったろう。
 地名の「兼久(かにく)」とは、海岸に近い砂地を指すそうで、沖縄には、兼久の名がつく集落名が、やたらと多い。地名辞典で探していくと、大兼久に止まらず、内兼久、前兼久や、その地の名を冠した兼久地名が随所にある。古地図を見ると、那覇にも内兼久の地名が見える。
 名護にあった大兼久村も、海沿いに拓かれた集落であった。今では、埋め立てが進んで、海岸からは離れた市街地に変貌している。その昔、航海から帰って来た海人は、高台に建つ護佐喜宮が見えてくると、安堵の吐息をついたのではあるまいか。でも、拝殿に張られていた祈願の文言には、航海安全や豊漁は無かったように思う。(2018.4.18)
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山原(やんばる)の峠を越えて来た。

2018/04/22 09:18
 名護市の東海岸、米軍施設キャンプシュワブのある辺野古から、やんばるの峠道を越えて、名護の市街地まで歩いてみようと思った。沖縄本島の横断道路、およそ10qの行程である。那覇から高速バスを利用して宜野座ICで下車し、そこからローカルバスに乗りかえて辺野古までやって来た。
 その昔、琉球王府は各地の間切(まぎり・行政区画で今の市町村)を結ぶ宿道を整備していた。沖縄本島の中部、北部、南部を東西のルートに分けで結び、一定の距離ごとに宿駅(宿場)を設け、王府からの文書を、各間切に、速やかに伝達するシステムが機能していたと云う。
 その宿道の一つに国頭方東海道(くにがみほうとうかいどう)がある。道筋は、首里から西原間切、宜野湾間切、越来間切、美里間切、金武間切、久志間切へと、東海岸沿いを北上し、今の名護市瀬嵩集落から山原(やんばる)の森林地帯を越えて、西海岸の羽地間切から大宜味間切、国頭間切へと通じていた。
 これまで拝所巡りをしながら、国頭方東海道の道筋に沿って歩き、先日には、金武間切から久志間切に入り、久志観音に詣でてきた。これから名護間切、羽地間切へ進むには、山原(やんばる)の森林地帯を横断しなければならない。国頭方東海道は、概ね今の県道18号線に沿って、やんばるを越えていたようだが、この日歩いたのは、その南側に並行して走る国道329号線である。
 辺野古のキャンプシュワブ第二ゲイトを過ぎると、亜熱帯特有の濃緑で、背の高い樹木が密集した山原(やんばる)の森に入って行く。もう、この先、西海岸の世冨慶(よふけ)集落まで人家は無いようだし、バス停が一か所、二見集落の入り口にあるだけである。
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 晴れ間が覗き、歩くには最適な陽気だが、キャンプシュワブの移設工事が続いていて、石材を運ぶダンプカーが、引きっきり無しに走り抜け、その騒音は凄まじい。静寂で、奥深い森林に浴する心地よさを味わうことは出来ない。一度ならず二度までも、疾走するダンプカーの風圧で、帽子が飛ばされ、慌てて拾いに走る始末である。
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 二見集落へ通じる331号線が分岐した先に、堆積地層がむき出しになった山肌があった。詳しいことは知らないが、数千万年以前、深海に堆積していた地層が、地殻変動によって隆起した場所で、このような地層は、沖縄本島の中部から、北部の東側に分布しているそうだ。一方、沖縄本島南部は、サンゴ礁が隆起した地層で、北部と南部では地層の創成過程が異なっている。沖縄本島は、地殻変動によって隆起した地層の異なる島が、ぶつかり合って繫がって出来たそうだ。その場所が、うるま市の北側、金武湾から、西海岸に線を引いた辺りで、沖縄本島で東西の幅が一番狭い場所になっている。
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 その先、地図で見ると、地図で見ると、二見入り口のバス停がある東側に「観光闘牛場」があるので、寄ってみることにした。ところが、闘牛場の看板は雑草に囲まれ、屋根にはぺんぺん草が生えている。入口は立派な門構えだが、縄が張られて通行止めになっていた。奥に続く道は、雑草が茂るに任せて放置されている。明らかに閉鎖されていことは分かるが、好奇心に駆られて、どんな施設があったのか、坂道を上って行った。
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 なんと、そこには、斜面を利用して太陽光発電のパネルが設置され、遠くまで広がっていた。「いちご名護二見ECO発電所」と書かれている。「いちご」とは、「一期一会」から採られた名のようだが、何で太陽光発電所と一期一会が繫がるのか、そこんところが分からない。
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 再び歩き始めた。見晴らしの良い場所に出たので、しばらく休憩した。やんばるの森は、波打って深々と続いている。亜熱帯ジャングルの向こうに、標高385mの多野岳が霞んで見える。静寂の中で、やんばるの森を眺めるのは、暇つぶし老人にとって、至上のひと時である。・・・のはずだが、連なって坂道を登ってくるダンプカーの爆音は凄まじく、気分が殺がれてしまった。
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 下り坂が続き、旧道の入り口に軽自動車が止まっていた。人影がするので近寄って見たら、虫取り網を持った老人が、大きなビニール袋を提げて立っていた。挨拶を交わして、ビニール袋の中身を尋ねたら、やんばるの森に棲む昆虫を採集しているのだと云う。3p位の大きさで、背中に赤い斑点のある綺麗な虫だった。虫篭に入れて眺め、楽しんでいるそうだ。虫の名前を伺ったけれども、忘れてしまった。しばらく会話を続けたが、移住して4年目、未だに老人の沖縄語は、その半分も理解できない。丁寧に話を続けてくれた老人に感謝し、多分、とんちんかんな受け答えをしいただろう、己の失礼を詫びねばならぬ。
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 道端に、「名護親方程順則(なごうえかたていじゅんそく)」と記した立派な説明板が建っていた。程順則(1663年〜1734)は、那覇の久米村に生まれ、近世の沖縄を代表する学者・文人で、教育者として人材の育成に努めた人物だそうだ。琉球で初めての学校「明倫堂」を建てたと云う。21歳の時に中国に留学して以来、琉球王府を代表する使節として、何度も中国に赴き、貴重な文物を持ち帰り、中国文化の普及に努めたそうだ。66歳の時に、それまでの功績によって、名護間切の総地頭(名護親方)に任命され、後には、その人格と素養、徳によって「名護聖人」と尊称されたと云う。
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 江戸期に道徳の書として用いられた「六論衍義(りくゆえんぎ)」は、程順則が中国より持ち帰り、翻訳して自費で出版し、薩摩藩を経由して八代将軍吉宗に献上されたと云う。因みに「六論」とは、孝順父母、尊敬長上、和睦郷里、教訓子孫、各安生理、母作非為で、寺子屋の教科書にも採用されていたそうだ。
 名護親方程順則の案内看板を建てたのは、名護市教育委員会・北部国道事務所である。普通だと、住居跡や役所があった場所に建てられるものだが、こんなにも市街地から外れ、人も歩かない峠道に建てられているのが奇妙に思われた。北部国道事務所の名があるところを見ると、この場所を起点(あるいは終点)として建設された「長堂橋」と関りがあるようだ。
 長堂橋は、世冨慶峡谷に覆い被さるように、緩やかなカーブを描いて下って行き、世冨慶集落の入り口まで、凡そ1qに亘って続いている。眼下には、谷間を縫うように蛇行する世冨慶川が流れていた。
 この、長堂橋の橋詰に名護親方の像が設置されている。どこを探してみても説明されたものは無いので、程順則と長堂橋が結びつかないのだが、明らかに名護親方の像である。橋の両詰、左右の都合四か所に設置されていた。
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 久志間切のあった名護市の東海岸に、久志の地名が残っている。山中襄太『地名語源辞典』1995年・校倉書房の記述に、久志は奄美から沖縄本島に分布する地名で、「くし」は「越す」の意味であり、古語の当て字だと解説されていた。また、沖縄語辞典(内間直仁・野原三義編著 2006年 研究社)で「くし」を見ると、@腰。背中。A後ろ。後方の意と説明されている。
 久志間切は、名護間切と、やんばるの森林地帯を挟んで、背中合わせに立地している。名護間切から、やんばる山地をくし(越え)た、くし(後ろ)に在るのが、久志間切である。
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 濃緑の森を縫うようにして続いた長堂橋を歩き終えると、視界が開けて、世冨慶集落の向こうに名護湾が広がり、遠くに本部半島が霞んで見えて来た。

(2018.4.18)

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久志観音堂(くしかんのんどう)・お寺のお爺さん、ティラヌタンメーの石像、こりゃ国宝だ。

2018/04/15 11:54
 久志若按司の墓から50mも山手に向かうと、左に折れる道があって、観音堂と書いた札が下がっていた。樹木が茂った奥の方に、大きな石灯籠と赤瓦のお堂が見えてくる。お堂に覆い被さるように、がじゅまるの巨木が広がっていた。かなり年月を経ているお堂で、古色蒼然とした佇まいである。久方ぶりに、般若心経を唱えた。
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 昭和48年(1973年)に修復されたそうで、建材は全てチャーギ(イヌマキ)が使われているそうだ。横道にそれるが、チャーギは湿度や、シロアリなどの害虫に強く、沖縄では建築用材や仏壇などに使用され、重宝されている。古くから貴重な樹木とされ、その枝は神に供える植物として、本土の榊(さかき)と同様に、大切に扱われている。沖縄に移住した当時、スーパーにチャーギの葉っぱが売られているのを見て、使用目的が分からず、不思議に思ったものだ。
 久志集落の人々は、この観音堂のことを「ティラ」と呼び、祀られている観音石像を、親しみを込めて「ティラヌタンメー」と呼んでいるそうだ。沖縄語で「タンメー」は、祖父、あるいは老爺を指すので、「お寺のお爺さん」と云うことになる。「山寺の和尚さん」と同義語だろう。
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 久志観音堂は、琉球王府が編纂した史書「球陽」の記事から、1688年に、この地の総地頭であった豊見城王子朝良と、久志親方助豊によって建立されたことが分かっているそうだ。この時に奉納されたのが「ティラヌタンメー」こと、観音石像であると云う。
 観音石像の由来について、名護市ホームページに記載されていたので、要約して記すと、「その昔、首里の役人が勤めで唐に渡り、そこで、美しい観音像に出会い、役務を終え、その観音様を船に積み、沖縄へ持ち帰って来た。首里に近い港で降ろそうとすると、観音様が『久志グヮーかい、久志グヮーかい』と喋ったと云う。そこで久志に観音堂を造って祀った。」そうだ。久志観音堂が建立された1688年と、中国・唐の時代とは整合性が取れないが、唐と云えば、中国の代名詞なのだろう。由来記なんだから、そんなことは、どうでもよいことにしよう。
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 観音石像の高さは1mほどである。経年変化が激しく摩耗しているので、観音様の造形は判別できるが、表情や衣、持ち物などは一切分からない。顔から頭部が長く伸び、その凹凸からして、なんとなく十一面観音を思わせる。左手で杓文字のような形をした何かを持ち上げているが、これも、何を意味するのか分からない。330年前に奉納された中国渡来の観音像が、今に至るまで、そのままに残されているのだろうか。だとすれば、国宝級だと思うのだが。(2018.3.28)
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久志若按司の墓(くしわかあじのはか)・組踊り、「久志の若按司」の主人公が祀られている。

2018/04/13 17:46
 按司とは、琉球古代における首長・豪族の呼称で、久志に居城を構えた久志按司の二代目が、久志若按司である。
 宜野座村から、国道329号線を北上して名護市に入ると、最初の集落が久志である。集落に通じる旧道の入り口に、「歴史の重み・久志の観音堂。組踊り・久志の若按司の里。子宝祈願・ドウドイ。」と書いた大きな看板が建っている。久志集落の見所のようだ。
 案内看板から凡そ1q、久志の集落を抜け、海沿いに出ると、直ぐ左手の石垣の上に、海を背にして祠が建っている。久志若按司の墓は、鳥居を潜って詣でるようになっていた。何度も触れて来たが、沖縄の拝所、それも按司墓に鳥居は似つかわしくない。
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 これまでに訪ねた多くの按司墓は、居城跡の間近にあって、ほとんどが岩の窪みや、洞窟を利用した岩陰墓か横穴墓である。祠に祀られる按司墓は珍しい。墓前に安置された香炉には平御香が焚かれ、煙が漂っていた。お参りに訪れた方があったようで、坂道を上って来る途中ですれ違ったご夫婦のようだ。久志若按司の血筋を引く子孫の方かも知れない。
 祠の屋根は、軒が反り返った唐破風で、方形になっている。石造りの墓室と一体になって、大きな御神輿が置かれた様である。傍らに「久志之若按司之墓」と刻んだ石碑が建っていた。
 境内の端に、詳しい系譜を記した墓誌、「久志若按司之系統・並ニ由来記」の碑が建っている。初っ端に刻まれている文字は、伝説の王統、「初代天孫氏後裔恵祖世主」で、英祖王の名があって、湧川王子の名があり、次々と、伝承で語られている支配者の名前が刻まれている。何とも仰々しく思えるのだが、墓誌なんだから、箔付けが必要なのは分かる。
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 久志若按司は、うるま市にあった安慶名城主の初代安慶名大川按司の孫に当たる人物のようだ。系図を遡ると、14世紀前半に伊波城を築いた初代伊波按司から、仲昔今帰仁按司第四代の丘春(?〜1322年)に辿り着く。
 墓誌は、昭和11年に建立されたとあるが、それにしては、良く保存されていて、何とか読める。ただ、難しい文章表現に出くわすと、憶測で読むしかない。伝承のご先祖様はとも角として、子孫について記されている文章に、「久志小村徳森屋ノ持チ崇メタル共徳森屋ノ跡目ナキ為メ一時ハ他血ヨリ入婿トナリテ元祖ヲ持チ崇メ是レヨリ後ハ若按司ノ子孫赤平屋(今ノ蔵ン当)ト云ウ家内ヨリ持チ崇メトナル」と、ある。先ほどすれ違ったご夫婦は、ここに記された若按司の子孫、赤平屋に関りのある方かも知れない。
 久志按司が居城とした久志城は、按司墓の背後に広がる「アタイ」と呼ばれる高台に在ったそうだが、今では、雑木が鬱蒼と生茂り、足を踏み入れることは出来そうにない。それに、城跡の痕跡は残っていないらしい。
 雲踊り、「久志の若按司」は、仇討物語の傑作とされる作品で、粗筋は次のようである。今の、うるま市にあった「具志川城主の天願按司は、配下の頭役であった謝名大主の騙し討ちにあい殺害される。遺児となった天願若按司と妹の乙鶴は、逃げ延びる途中で、謝名大主の臣下である富盛大主に捕らえられる。それを知った分家筋である久志若按司は、二人が幽閉された東恩納番所へ向かい、救出に成功する。久志若按司は、その時に捕らえた富盛大主に偽りの情報を流し、敵方同士を仲違いさせる罠を仕掛ける。罠とは知らずに、久志城に攻め入った謝名大主は捕えられ、天願若按司は、久志若按司と協力のもとに父の仇を討った。」と云う物語である。天願若按司と久志若按司は、従兄弟同士になる。
 久志若按司の墓から、久志集落の方へ150mも戻ると、通りの奥に「久志之若按司位牌安置所」が見える。石塀に囲まれ、赤瓦の社殿があって、境内は綺麗に掃き清められていた。祭壇には「歸真 久志按司 久志若按司 霊位」と書かれた朱塗りの位牌が祀られている。生けられたばかりの生花が並び、整えられた祭壇には、三基の丸い香炉が安置されていた。
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 位牌安置所の脇に、「祝女殿内(のろどぅんち)」があり、祭壇には位牌が安置されているが、暗くて法名の文字が読めない。右側には香炉が安置された拝殿が二つ並んでいた。火ぬ神のようでもあり、そうでもなさそうである。赤い箱が置かれていたが、賽銭箱のようなので、遠くから投げられるように、重みのある百円硬貨を取り出して納めて来た。うまく入った。
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 祝女(のろ)は、琉球王府の時代に、「聞得大君」を頂点とした神女組織に属し、集落の祭祀を取り仕切る神官で、今で云う国家公務員である。狭い沖縄だが、地域によっては「ヌール」、「ヌル」とも発音する。てくてく歩いている私の感じでは、「ヌル」と発音する集落の方が多いように思える。
 祝女殿内と小路を隔てて、祖霊神を招き、祭事を行う社殿、「カミアシャギ」が建っていた。この一帯は、久志集落の聖域のようである。首里から遠く離れた集落ほど、祖霊神を身近に感じる雰囲気が漂っている。(2018.3.28)
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惣慶宮 (そけいぐう)・戦前の日本は、祖霊神を祀るマチョウガマ御嶽を神社に変えてしまった。

2018/04/07 13:50
 タコライス発祥の地、金武町から国道329号線を、ひたすら宜野座村に向かって歩く。少し内陸に入ったようで、海が見えなくなった。再び海が望めるようになると、宜野座村の漢那集落に入る。道の駅「ぎのざ」で、しばらく休憩した。
 漢那集落を過ぎて、目指す惣慶宮へ通じる農道に入って行った。惣慶の集落は丘陵地帯に広がっていた。さて、惣慶宮の場所を尋ねようにも、人の姿が全く見えない。緑が茂る森を目指して歩いて行ったら、突然、左手奥に鳥居が現れた。
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 境内の全域が児童公園として整備されていた。鳥居を潜り、右手に続く遊歩道を辿って行くと、社に通じる石段の下に出る。社殿の軒に揚げられた注連縄と云い、祭壇に張られた幔幕と云い、佇まいは本土で見る村の鎮守様と何ら変わらない。ただ、屋根は沖縄独特の赤瓦で葺かれている。
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 通りに面して、縁起を記した案内板が建っていた。「惣慶のアガミ(お宮・マチョウガマノ嶽)」とあつて、由来が説明されている。目の前に広がる森全域が御嶽で、アガミ山と呼ばれ、惣慶集落の祖霊神が祀られていたと云う。アガミは「拝み」が変化したものだろう。惣慶の古い集落は、このアガミの森に祀られた御嶽を起点にして、海沿いに向かって扇状に広がっている。集落をしっかりと支える腰の位置に、守護神を祀ったようだ。
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 日本が第二次大戦に突入した翌年、昭和17年(1942)に、今の社殿が造られ、那覇市若狭の波上宮から分祀された神を祀ったそうだ。明治以降、日本には皇国史観なるものがあり、第二次世界大戦が勃発すると、小学校(国民学校)では、「日本は強い国、世界に一つの神の国・・・」と、教えられていた。政府は、国家神道を唱え、その普及に努め、その結果で「御嶽に鳥居」と云う、実に滑稽な風景になってしまった。祖霊神を祀る御嶽を神社とみなし、鳥居の建立を強制したようで、当時の時代背景は、住民が反対できる状況にはなかった。
 由来を記した文章に、「その後、アガミ山は、お宮と呼ばれるようになりました。」と、書かれていた。行間からは、深い悲しみと怒りが伝わってくる。それまでは、「マチョウガマ御嶽」と呼ばれ、入り口には香炉が並べられ、人の手を加えない自然のままの聖域として、深い森の中に祖霊神が祀られていたのである。
 帰り際、またまた方角が分からなくなってしまった。折よく通り合わせた男子中学生に宜野座ICまでの道順を尋ね、来た道とは反対側の坂道を下って行った。(2018.3.21)
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金武観音寺(きんかんのじ)・日秀上人は、薩摩藩の特命を受けた外交官ではなかったのか。

2018/03/31 15:27
 再び、金武観音寺を訪ねた。補陀落渡海を実践した捨身行者の日秀上人が、琉球金武の浜に漂着し、洞窟を霊場として金武宮を構え、洞窟の上に金武観音寺を建立したと云う伝承がある。
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 観音寺の境内は広々としている。本堂は古い建物だが、昭和17年(1942)に再建されたそうで、先の沖縄戦では焼失を免れている。祭壇の正面には、聖観音菩薩像、右側には阿弥陀如来像、左側には薬師如来像が祀られ、両脇の空間には曼荼羅図会が掛かっていた。さらに右側に設えられた祭壇には、大日如来像が祀られている。若い男女の三人組が、祭壇の前で手を合わせていた。
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 境内の隅に日秀洞の入り口がある。日秀上人が霊場を開き、熊野三所権現を祀ったと伝わる洞窟である。鍾乳洞は、地表から深い角度で下に向かって続いている。地下に向かって数メートルも進むと、左側に説明板があって、当山鎮守「金武権現」とあり、「仏教の観音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来を本地仏とした熊野三所権現、事解男尊(ことさかおのみこと)、伊勢冊尊(いざなみのみこと)、速玉男尊(はやたまおのみこと)が合祀されています。」と書かれていた。この金武権現宮を管理する別当寺が、金武観音寺である。洞窟は更に地下深く続いている。「大仏天蓋」と名付けられ、日傘を吊るしたような鍾乳石が垂れ下がっていた。布袋様が鎮座した拝所もある。
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 日秀上人は真言密教と観音信仰、熊野信仰を合わせ持ち、琉球に残した寺社の開基、加持祈祷の類を含め、数多くの事蹟を残している。多面的な日秀上人像から、本土で語られる弘法大師の行状伝承を思わせる。日秀上人については、これまでにも学ぶ機会があったが、私流の勝手な解釈(妄想?)を含め、もう一度整理しておくことにした。
 日秀上人(1503年〜1577)が琉球に漂着した時期は、1527年から、1534年の間と推定されている。薩摩に残されている日秀に関する史料からは、1528年であるとする説が有力だと云う。また、琉球に滞在した期間だが、1527年、もしくは1528年から、1545年迄の凡そ18年間ではなかったかと推定されている。
 日秀上人は、真言密教と観音信仰、熊野信仰を布教すると云う、明確な目的を持って、琉球に渡って来た僧侶だろうと思う。薩摩から島伝いに南下し、沖縄本島の東海岸に上陸したと考えた方が現実的である。
 日秀上人は、補陀落渡海を実践した捨身行者であったと伝わっているが、そのことを、多くの人が疑わず、今や定説になっているようだ。しかし、それは単なる伝承ではないかと思う。「補陀落渡海行者」と云う呼称は、今風に云えばキャッチコピーのようなもので、日秀上人が布教活動を行うときに自称し、煽り文句に使ったのではないかと思う。
 日秀上人の事績として実証できるのは、金峰山三所権現(金武観音寺・金武権現宮)の創建と、衰退していた波上宮と護国寺(いずれも那覇市若狭)再興の僅か二つに過ぎないと云う。語り継がれる事蹟の多くは、日本から渡来して来た、名もない遊行僧や隠遁僧、勧進僧たちの業績が、日秀上人の名のもとに語られていると思った方が良い。
 日秀上人が琉球に渡って来たとされる1527年は、尚真王が亡くなり、尚清が王位に就いた年である。尚真王は、琉球王国の基礎を固め、黄金時代を築いた国王であった。琉球が国家として着々と実力を蓄え、奄美諸島から八重山諸島に至るまで、確実に版図を広げた時代である。薩摩藩にとっては気になる存在であったはずだ。例によって、私の妄想だが、日秀上人は、薩摩と琉球を結ぶ鎖の役割を帯び、尚清が王位に就いた時期をとらえて、薩摩藩が送り込んだ隠密的な外交官ではなかったのか、と思う。
 金武の浜に上陸したと伝承される日秀上人は、金観音寺を創建し、布教活動を続け、近郷の村人たちに慈善を尽くしたようである。日秀上人の評判は、やがて琉球王府が知ることになり、首里に招致されたに違いない。この時、日秀上人の最初の目的は達成されたのである。
 日秀上人が携わった、波上宮、護国寺の再興は1544年とされているが、護国寺は、琉球国王代々の国家鎮護の祈願所である。このことから、琉球王府は、日秀上人を庇護し、宗教活動を側面から助成していたと考えられる。日秀上人は、地道な布教活動によって、琉球王府の信頼を得ていたのである。
 日秀上人は布教の目的をもって、かつ周到な準備のもとに琉球に渡って来たに違いない。薩摩に残された史料からは、波上宮、護国寺の再興がなった翌年の1545年(頃)には、薩摩に戻っている。日秀上人は、琉球に渡った目的が達成されたと判断したのだろう。琉球と薩摩の友好関係を結ぶことが、日秀上人の最終的な目的であったのかもしれない。
 ところが、ところが、日秀上人が琉球を去って、凡そ半世紀が過ぎた1609年に、薩摩軍が琉球に攻め入っている。琉球王府は和睦を求め、全面的な抵抗を試みてはいない。一方的な戦いに終わり、琉球王国は、この時から実質的に薩摩の属国としての歴史を歩むことになる。ここで、日秀上人の遺志は潰えたのである。・・・と、私は考える。(2018.3.21)
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伊芸の僧侶墓(いげいのそうりょばか)・補陀落渡海を実践した捨身行者かと・・・、妄想でした。

2018/03/25 11:03
 金武町(きんちょう)伊芸の集落に、僧侶が葬られた墓があると云うので訪ねることにした。金武町には16世紀の半ば、紀伊の国、那智から補陀落渡海を実践し、金武海岸に漂着した捨身行者、日秀上人が創建したと伝わる金武観音寺がある。そんな背景もあって、伊芸の僧侶墓には補陀落渡海に船出し、漂着した捨身行者が葬られているのではないか、と思ったからである。
 金武インターチェンジで高速バスを降り、歩き始めた。伊芸橋の東詰を山手に向かって入り、200mも歩くと道が二股に分かれ、その向こうに高台があって、手すりの付いた石段が見えてくる。・・・と、書いてしまえば簡単だが、この場所を探し当てるまでに、2時間近くも、集落の中を行き来していた。ろくに調べもせず、伊芸の集落に僧侶墓があるらしい、と云うだけで訪ねて来たのが間違いだった。
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 ノロ家の敷地内にある拝所で、拝みをされている二人組の老婦人に挨拶をして、僧侶墓の場所を伺ったが、分からないと云う。近くの「さくまつこうえん」をぐるりと一回りしたが、それらしき拝所は見当たらない。行ったり来たりを繰り返している私を見て、田植え中の婦人が声をかけてくれたが、やはり、僧侶墓は分からないと云う。
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 ついには諦めて、集落の中ほどにある「がじまる公園」で休憩することにした。金武町指定文化財で、推定樹齢300年と云うガシュマルの巨木があった。奥の方に自販機があったので、スポーツドリンクを買い求め、引き返す途中に目に付いたのが、伊芸エリアマップの掲示板である。風雨にさらされて消えかかっているが、かろうじて、「坊主森・山里和尚の墓」と書かれた文字が読めた。あぁ、そうなのか、僧侶墓ではなくて、「山里和尚の墓」、と尋ねるべきだったのだ。先ほど、道路工事中で、重機に行く手を阻まれ、引き返した先の高台にあることが分かった。
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 吹き抜けになった拝殿の向こうに、二基の墓碑が建っている。頂部が丸みを帯びた坊主墓である。無縫塔(むほうとう)と呼ぶそうで、これまでに見た坊主墓は、全体が卵型になっていた。左側に建っている石碑の上部中央に、梵字で「ア」の文字が彫られ、その下に「大清康熙五十九年 権大僧都法印頼宥□□ 庚子十月二十二日去」、と記されているのが読める。康熙五十九年は、中国清時代の年号で1720年に当たる。この年に、頼宥(らいゆう)和尚は入滅している。
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 梵字の「ア」だが、漢字の天に似て、右側に縦棒が入る。刻まれた文字が、梵字だろうと気付いたのは、那覇に帰る途中のバスの中である。もう、いつの事だったか忘れてしまったが、知人の法事に参加して、墓碑に刻まれた梵字の意味を住職に伺ったら、「アは、万物の本源を表す言葉です。」と、教えられた。私には理解不能である。そういえば、狛犬も沖縄のシーサーも、口を拓いた「阿(あ)」と、口を閉じた「吽(うん)」で一対になっている。「ア」が万物の根源で、「ウン」が一切の帰着を表す、と解釈するらしい。

 伊芸では、頼宥のことを山里和尚と呼んでいることが分かった。その昔、いつの頃か伊芸村にやって来た修行僧が、布教のかたわら農業を振興し、村落の開発に貢献したので、住民からの徳望を一身に集めたと伝承されている。山里家の娘を娶ったのか、子孫は伊芸集落の山里家だと云う。山里家には、明治に至るまで経文や僧衣、仏具が保存されていたそうだが、ユタ(巫女・霊媒者)の誣言によって、ことごとく焼き払われたと云う。
 インドの南端にあって、観音菩薩が降臨したと伝わる聖地、補陀落を目指して船出することを補陀落渡海と云い、密閉された船に閉じこもり、捨身の航海に出る。眞に究極の修行である。那智の浜、あるいは足摺岬の突端から船出し、黒潮の逆流に乗って南海の彼方を目指すのである。難破し、海の水雲と消えてしまうが、潮流に乘って、薩摩や琉球の海岸に漂着することがあっても、不思議では無かろう。
 琉球に漂着した補陀落渡海僧の伝承は、これまで知り得た知識では2例ある。一人は、仏教を始めて琉球に伝えたと伝わる禅鑑和尚で、13世紀の後半に、今の浦添城の北側に「極楽寺」を創建したと伝承されている。もう一人は、冒頭に書いた日秀上人で、琉球に真言密教と観音信仰、熊野信仰を伝えた僧で、琉球王府の施政にも影響を及ぼした人物である。
 残された記録によると、補陀落渡海を実行した僧は、40人ほど居たそうである。その内、那智の浜からは、平安時代の前期から、江戸時代の中期に至る850年余の間に、25人が補陀落を目指して船出したそうだ。
 伊芸の僧侶墓には、金武の浜辺に漂着した補陀落渡海僧が葬られているのでは、と思ったが、山里和尚こと、頼宥と紐付けする伝承は見当たらない。一説によると、頼宥和尚は、那覇港に在った臨海寺の住職で、任期を終えた後、伊芸の集落に移り住み、この地で妻帯し布教活動を行っていたと伝わっている。臨海寺は、那覇市曙に移り、現存している寺院だが、歴代住持の中に頼宥の名があるものの、伊芸の山里和尚とは結びつかないのである。
 それにしても、よく歩いたなぁ〜、この日の歩行距離、なんと18.2q、28,003歩。(2018.3.14)
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護佐丸(ごさまる)祖先の墓・道標が次々と現れ、道筋に不安なく訪ねることが出来た。

2018/03/19 10:20
 那覇から120系統のバスで、凡そ1時間15分、恩名村の山田バス停で下車した。通りを隔てた向かい側に、山田グスクへの道標が建っていた。58号線の信号を渡った所にも、「歴史の道」、「山田グスク・護佐丸父祖の墓」と記した道標が建っている。
 国道から山手に向かって100mも歩くと、また標識が現れる。道標に従って坂道を上り、突き当たった所にも標識があって、右折した先にも標識があり、その先に石段が現れる。そこから、急な山道を50mも上ると、護佐丸父祖の墓に行き着く。次々と標識があらわれ、道筋に不安を覚えることもなく、辿り着くことが出来た。恩名村教育委員会さんの、歴史を継承しようとする熱意が伝わってくる。感謝。
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  琉球戦国の武将、護佐丸の先祖墓は、山田城跡の中腹にあって、琉球石灰岩の岩穴に造られた横穴墓である。湿気を帯びた岩肌から湧き水が垂れ、古色蒼然とした雰囲気が伝わってくる。墳墓には、山田城を築いた護佐丸の曽祖父、祖父と父である三代の山田按司が葬られているようである。右側に、人一人が潜れる岩穴があって、一段下がった、その向こうにも墳墓がある。「をじゃなら(うなざら・妃)」墓のようで、護佐丸の祖母だと云う真加戸金(まかとかね)が祀られているのかもしれない。
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 墓誌が建てられているが、風雨に消されて全く読めない。墳墓の手前、坂道の途中に縁起を書いた説明板があって、墓誌の文章が記されていた。『往昔吾祖中城按司護佐丸盛春ハ元山田ノ城主ニ居給フ其後読谷山ノ城築構ヒ居住アルニヨリテ此ノ洞ニ墓所ヲ定メ内ハ屋形作リテ一族葬セルニ然処ニ幾年ノ春秋ヲ送リシカバ築石造材悉破壊ニ及ビ青苔ノミ墓ノロヲ閉セリ爰ニオヰテ康煕五十三年墓門修復石厨殿ニ造替シ遺骨ヲ奉納セリサテ永代子々孫々ニモ忘レズ祀ノ絶サランコトヲ思ヒ毎歳秋ノ彼岸ニ供物ヲササケマツル例トナリヌ仍エ石碑建立之也 大清乾隆五年庚申十月吉日 裔孫豊見城親雲上盛幸』と、ある。
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 墓誌が建立されたのは、清の元号で乾隆五年とあるから、1740年のことである。縁起の前文に、碑の建立が1750年とあったが、これは誤りだろう。この碑を建てたのは豊見城親雲上盛幸(とみぐすくべーちんもりゆき)で、護佐丸から数えて11世に当たる子孫である。文中にある康煕五十三年は1714年で、墓誌を建立した26年前のことで、「築石造材悉破壊ニ及」んだので、修復したとある。
 豊見城親雲上盛幸は、吾が祖先の護佐丸は、山田の城主であったが、その後、読谷山に城を構えたので、この洞を墓所として定め、中は屋形作りで一族を葬った、と説明している。「読谷山ノ城築構ヒ居住アルニ」、とあるのは、座喜味城の完成に伴い移住した、と解釈して良いだろう。
 初代の山田城主は、先達て訪ねた、「屋良後大川按司と一族の墓」に揚げられていた系図を見ると、怕尼芝(はにじ)に滅ぼされた仲昔今帰仁按司、第五代目の孫に当たる人物で、隣接する伊波の城主、初代伊波按司の兄である。伝承によると、初代山田按司は継子に恵まれず、初代伊波按司の息子、甥を婿養子に迎え、跡を継がせたと云う。護佐丸の祖父にあたることから、四代目の山田城主が、護佐丸と云うことになる。
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 もう一つの説によると、初代伊波按司の次男(又は9男)が、独立して山田城を築いたとも言われている。となると、護佐丸は三代目の山田城主と云うことになり、墳墓に祀られている人物は、曽祖父を含めた三代なのか、祖父と父の二代が祀られているのか、拘り屋の私にとっては、すっきりしない。恩名村の教育委員会が整備した標識には、「護佐丸父祖の墓」と記されているので、父祖二代の墳墓を指し、護佐丸は三代目山田城主の説を採っているように思える。
 1416年、尚巴志の率いる連合軍によって、今帰仁の後北山王で、怕尼芝の孫に当たる攀安知(はんあんち)が滅ぼされたが、この時、護佐丸は山田城主として連合軍に参加して、功績をあげている。これが、護佐丸が先祖の仇を討ったと云われる由縁である。
 ここを訪ねる途中から、気になっていたのが、「国頭方西海道」と書かれた標識である。琉球王府は各地の間切(まぎり・今の市町村)を結ぶ道を整備していた。三山を統一した尚巴志の時代から手掛けられたと云う宿道(しゅくみち)で、沖縄本島の中部、北部、南部を東西のルートに分けで結んでいた。一定の距離ごとに宿駅(宿場)を設け、王府からの文書を、各間切(行政区画・今で云う市町村)に、速やかに伝達するシステムが機能していたと云う。その宿道の一つが、国頭方西海道(くにがみほうせいかいどう)で、概ね、今の58号線に沿って続いている。
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 緑に覆われた古道は、石畳で舗装されていたり、土砂が流され、ごつごつとした石灰岩が剥き出しになっていたり、勾配も急で、変化に富んだ道筋が続いている。途中で渡った谷川に架かる石矼(いしばし)は、琉球石灰岩の野面積みで、桁部分がアーチ型に組まれた珍しい石橋である。僅かな時間だが、古琉球の雰囲気に浸って来た。急坂を下ったら、国道58号線に突き当たり、古道は、そこで途切れていた。(2018.3.7)

次々と現れた道標

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