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沖縄拝所巡礼・ときどき寄り道
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 縁あって東京から沖縄・那覇へ移住した。ついに我が人生、第4コーナーを回ってしまった。正面にゴールが見える位置だけど、これまで、がむしゃらに歩き続けてきたので、これからはペースを落として、のんびり、ゆっくりとゴールに向かって歩くことにする。
 少しでも好奇心が残っているうちに、琉球王朝の歴史に想いを馳せながら、沖縄拝所の巡礼を続けたいと思う。
 ナイチャー(内地の人)の感性で、良き沖縄の日常をヤマトンチュウ(大和の人)に向けて発信して行きたいと考えている。
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出雲大社沖縄分社(いずもたいしゃおきなわぶんしゃ)・沖縄にも縁結びの神様がいらっしゃる。

2017/08/20 11:26
 所要があってモノレールの古島駅で下車した。裏道を歩いていたら、スーパーの駐車場に沿って、神社の参道に建っているような朱塗りの灯篭が並んでいた。まさか、こんなところに、と奇異に感じたが、その先に正真正銘の大和の神様が鎮座していた。出雲大社の分社である。
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 不勉強であったが、まさか、阿摩美久(アマミク)の琉球開闢神話が語り継がれている沖縄に、日本神話に登場する大国主命(おおくにぬしのみこと)が祀られているとは思いも及ばなかった。ビルの合間に緑が茂り、神社の佇まいが見える。車が行き交う通りから直接古民家に入っていくような、土間に似た参道が続き、その奥に社務所がある。
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                       参 道

 本殿には親子連れの先客があって、一組が並んで立つと一杯になる広さしかなく、石段の下で暫らく待っていた。社殿の軒には、出雲大社の写真で見かける巨大な注連縄のミニチュア版が下がっている。ガラス戸越しに見える祭壇には、白地に赤の縦縞に、神紋を散りばめた幔幕が張られていた。中央には神霊のご神体である神鏡が祀られ、三基の三方があり、祭壇の右側に大きな純白の御幣が安置されている。左側には、大きな太鼓の様なものが見えるが、ご神鏡を模ったものなのか。境内には珍しい五重の灯篭が建っていた。その脇に狛犬が置かれている。シーサーと区別がつかないが、ルーツは同じである。
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                   出雲大社の神紋

 ご祭神の大国主命は、『古事記』や『日本書紀』に登場する日本神話の神様である。高天原に住む天津神の邇邇芸命(ににぎのみこと)は、天照大神の命を受け降臨するが、それまで国土を治めていた国津神の大国主命が、天津神に国を譲ったので、「国譲りの神」と呼ばれることがある。これまた、私流の解釈だが、天津神の代表格が天照大神で、国津神の代表格が大国主命だと理解している。
 『古事記』や『日本書紀』に馴染みのない人でも、因幡の白兎の話は聞いたことがあると思う。策を弄して隠岐の国から、鰐鮫の背を伝って因幡の国へ渡って来た白兎が、企みに気付いた鰐鮫に皮膚を剥され、痛みに耐えかねて浜辺で泣いていた。通りかかった兄弟の神々(八十神)に、嘘の治療法を教えられ苦しんでいたところへ、遅れてやって来た大国主命から、蒲の穂で治療することを教えられ、治癒したと云う物語である。大国主命は慈愛に満ちた神様で、大黒様と呼ばれ、縁結びの神様としても親しまれている。大きな袋を背負っている像に象徴されるが、袋の中に人々の煩悩を封じ込めているのだという。
 仏様で、七福神の中に大黒天様がいる。打出の小槌を持って、大きな袋を背負い、米俵に乗って、にこやかな表情をしている仏様である。日本には、平安時代の僧、最澄によって伝えられたそうだが、何時のころからか、民間信仰として神様の大国主命と結びついたようだ。大黒天のルーツは、ヒンドゥー教の戦闘を司る神で、大国主命と大黒天は全く別の神様、仏様である。境内には大黒様の像が建っているが、頭が長く、禿げあがり、耳たぶは大きく垂れた福耳で、白い顎鬚が長く伸び、一目で財福神の大黒天を模ったものであることが分かる。神話で語られる、雄々しい神様の大国主命の姿ではない。
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                  出雲大社・大国主命の像

 出雲大社沖縄分社が、いつの頃に創建されたのか分からないが、戦後の米軍統治下時代のようである。社務所に縁起が置かれているかと思ったが、出雲大社ご本家様の解説書が置かれているだけで、記述のなかに沖縄分社のことは触れられていない。出雲大社教の布教機関として創立されようである。全国には分祀、分院、教会、講社などの名で呼ばれる布教機関があるが、なぜか沖縄だけは分社と呼ばれている。
 解説書の中に「生死一如(しょうじいちにょ)」の文言がある。出雲大社教の教義のようだが、これは仏教の教えでもある。生きることと死ぬことは表裏一体で、隣り合わせにあると云う教えのようだ。難しいことは分からないが、親鸞聖人の教えにもあったように記憶している。これぞ、まさしく神仏習合の思想であると思った。出雲大社の別当寺に鰐淵寺があるが、古い時代、別当寺の住持は管理を務める神社に出かけ、祭祀を仏式で務めていた。江戸期以前の神仏習合時代には、何らの違和感もなく、民衆に浸透していた信仰の形である。
 旧暦の10月には、全国の八百万の神々が出雲に集まると云う。それをもって神無月と呼ばれるが、出雲では神在月と呼ぶそうだ。神が集う出雲大社では、神迎祭(かみむかえさい)に始まって、神在祭(かみありさい)、神等去出祭(からさでさい)が行われるが、この盛大な祭事に沖縄分社の祭神は、率先して出雲に駆け付けるのだろうか。祭神は大国主命の分身である。この期間、沖縄分社は神無しなのか、神在りなのか、どっちなんだろう。なんて、つまらんことを考えながら本殿を後にした。
 一組の参拝者とすれ違った。幸せそうな若い男女である。結ばれた縁のお礼参りなのだろう。(2017.8.12)
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那覇市役所「ちゃーがんじゅう課」・那覇と我が故郷石見(いわみ)とは、言葉の親戚同士だった。

2017/08/15 09:55
 三年前のこと、那覇市に移住して転入諸手続きのために市役所を訪れ、老人福祉を担当する「ちゃーがんじゅう課」に行った。沖縄語を冠した部署名で、その意味が分からない。早速、好奇心のおもむくままに、係の人に聞いたら、なんとも素っ気なく、「いつも元気」と云う意味だと応えてくれた。忙しい仕事中に、つまらん質問をした私が悪かったが、ナイチャーにとっては不思議な響きのある名前なのである。「ちゃー」がいつもで、「がんじゅう」が元気と云う意味のようだと納得し、三年が過ぎた。
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 沖縄の方言のことを「うちなぁーぐち(沖縄口)」というが、未だに会話は理解できない。それでも、沖縄語でa・i・u・e・oが、a・i・u・i・uになる三母音の法則が分かってくると、僅かだが、紙に書いた言葉が理解できるようになってきた。そんなある日、那覇市の「ちゃーがんじゅう課」から送られてきた介護保険料決定通知書を眺めているうちに、そうかっ!「がんじゅう」は「がんじょう(頑丈)」のことなんだと、唐突に気付いたのである。
 これには伏線もあった。私が幼少年時代に育った山陰・石見(いわみ)の片田舎では、年寄り同士が挨拶を交わすときに、「がんじょうしとんさるかねぇ〜」と云っていたのを思い出したのである。「元気にしてらっしゃいますか。」と云う意味で、「いつも元気に頑張って、良く働いていらっしゃいますね。」と云う、労りの気持ちを込めた挨拶である。
 石見片田舎でも、那覇でも、「元気」のことを「がんじょう・頑丈」と表現することに気付き不思議に思ったが、もともとは中世から続いた大和言葉のようである。中央から伝播した言葉が、地方に残っていると云うことだろう。何方に伺ったのか忘れてしまったが、沖縄では左利きのことを「ぎっちょー」と云うそうだ。私の育った石見でも「ぎっちょ」と云っていた。今では、差別用語だと思われているが、それを聞いて驚いたことがあった。これもまた、大和の古い言葉が地方に伝わって、今に残っているのである。
 高卒後、石見の片田舎から上京して、初めて迎えた冬のある日、窓の外を眺めて「雪が降りよる」と叫んだら、下宿のおばさんに怪訝な顔をされた。「降りよる」とは、継続進行形の表現で「降りつつある。」のことである。このような表現方法は標準語には無い。因みに、雪が降って積もった状態を「降っとる」と云い、石見地方では「何々しよる」と「何々しとる」を使い分けて表現している。
 うちなぁー口(沖縄語)でも同じように、「那覇へ行きおる」と云う継続進行形の表現方法を使うそうで、「行きおる」は「いきつつある」なのである。沖縄には、大和の古い言葉だけではなく、古い時代の表現方法も残っているのだ。
 那覇と私の故郷、石見には共通する言語や表現方法が残っていた。一見、何の繋がりもない、遠く離れた那覇と石見だが、言葉の親戚同士であることに気付いて、懐かしいような、くすぐったいような近親感が湧いてきたのである。
 そう云えば、年寄りたちは、薩摩芋の事を「琉球芋」と呼んでいた。琉球から長崎を経て伝来した食糧である。琉球からの交易船が長崎を経由して、山陰、北陸地方にまでやって来ていた証であろう。古い時代から、琉球と我がふる里の石見は繋がっていたのだ。
 那覇に移住してからも折に触れて上京し、飲み仲間と親交を積んでいるが、沖縄語は、日本語と中国語の混成語なのかと聞かれることがある。そんな頼りないことを聞かないで欲しい。紛れもなく日本語で、構文は日本語そのものである。本土の友人達には、沖縄語は大和の壮大なる方言なのだと云うことを知って欲しい。(2017.8.15))
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再び斎場御嶽(せーふぁうたき)・斎場(せーふぁ)の語源を考えてみた。

2017/08/09 17:29
 御嶽に入場するときに貰った案内書には、斎場御嶽と書いて、右肩に「せーふぁうたき」と平仮名が振られている。斎場と書いて、なぜ「せーふぁ」と読むのか、長いあいだ不思議に思っていた。本土出身の私には、想像のつかない読み方だし、すぐには覚えられなかった。ところが、この「せーふぁうたき」は通称であって、正式な名称は「さやはうたき」と云うらしいのだ。なんだか、ややこしくなってきた。
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 那覇に移住した当初は、沖縄語では斎場(さいじょう)のことを、せーふぁと発音するんだろう、と単純に解釈していた。それに、琉球王国の最高の聖域だと説明を受けているから、祀りを行う清浄な場所に、斎場の文字が当てられていることに、何の違和感も覚えなかった。
 ところが、拝所巡りをしながら琉球の歴史に触れていると、神道の用語である斎場が、どうして御嶽の名称になっているのか、疑問に思えるようになって来た。祭祀や儀式を行う斎場は、大和の古い言葉で、斎庭(ゆには) から来ていると云う。
 琉球王府が1650年に編纂した史書、『中山世鑑』巻の一に琉球開闢之事として、琉球の国造り神話が収められている。その中に、阿摩美久(あまみく)と云う女神が降臨して、最初に造ったのが七つの御嶽で、「先ツ一番ニ國頭ニ邉土ノ安須森次ニ今鬼神ノカナヒヤフ次ニ知念森斎塲嶽藪薩ノ浦原次ニ玉城アマツ﹅次ニ久高コハウ森次ニ首里森眞玉森次ニ嶋嶋國國ノ嶽嶽森森ヲハ作リテケリ」と、書いてある。
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 それぞれは、森や巨岩、山頂、浦原など、その土地を特徴づける風物が御嶽の名称になっている。なのに、斎場御嶽の名称には、自然の風物が感じられず、人為的な空間を想像するのである。そんな違和感を覚えるのは、私だけかもしれないが、沖縄に移住して三年目、斎場(せーふぁ)の語源が、ますます気になって来たのである。
 『角川日本地名大辞典』によると、斎場御嶽は、旧知念村久手堅の小字、サヤハ原(さやはばる)にあって、古くはサヤハの御嶽と呼ばれていたとある。『おもろさうし』(1531〜1623年・琉球王府編纂の歌謡集)の巻10の4に、「さやはたけ みちやけ(斎場嶽 御嶽)」として謡われている。また、諸見友重の『訳注・中山世鑑』(2011年・榕樹書林)では、斎場御嶽に「さやはおたけ」と、ルビが振られている。琉球王府編纂の地誌、『琉球国由来記』(1713年)では、「サイハノ嶽」と記されているそうだ。斎(さい)場(は)の御嶽で、場は庭(には)を意味するのだろう。
 文献によって「さやはの嶽」、「さいはの嶽」、「せいふぁ御嶽」など、名称は様々である。いずれにしても、本来の名称であった「サヤハ」が、年月を経ながら、「サーハー」から「セーファ」に転訛し、今の御嶽名に定着したのだろう。
 一方、あれこれ文献を手繰ってみたけど、サヤハの語源が分からない。そこで、またまた、私流の勝手な解釈を試みることにした。
 サヤハの「サ」は、次に続く「ヤ・家または屋」を美化するための接頭語だろうと思う。「ハ」は大和の古語、斎庭(ゆには)からも読めるように、「庭・場」を指していると考えられるので、「清らかで美しい家の庭」と解釈できる。サヤハ原(さやはばる)は、神のまします神殿の前に広がる庭であったと考えれば、合点がいくのである。
 「サヤハ」に斎場の漢字を当てた初出の文献は、『中山世鑑』だと思われる。編者である羽地朝秀は、若くして薩摩藩に留学し、多くの学問を修めている。彼の信条は、大和も琉球も祖先は同じいう日琉同祖論であったようだ。中山世鑑に収められている、源為朝琉球渡来説が、それを端的に物語っている。大和の学問を修め、知識を蓄えた羽地朝秀にとって、「サヤハ」に、漢字の「斎場」を当てることぐらいは、容易い発想だったのだろう。 (2017.8.9)
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再び大山御嶽(おおやまうたき)・ご先祖様が祀られている聖域を守護する猫がいた。

2017/07/29 15:13
  しばらく前に、宜野湾市の大山集落にある大山御嶽について書いたことがある。犬に吠えられながら、入り組んだ路地を往き来したものの、拝所の場所が判らず、結局は、集落の聖地で、守護神が祀られている美底山御嶽(みすくやまうたき)に詣でて、この日は終わっている。
 ただ、大山御嶽は伊波門中の拝所として、門中宗家の屋敷内にあり、一介の老人が好奇心だけで訪れる拝所ではない。伝承によると、「伊波の子(いはぬしー)」という人物が、与那覇宮城(今の南風原町宮城)から移ってきて集落を拓き、この地を大山と名付けて、御嶽を建立したと云う。
 後日、ある幸運に恵まれて、を介して大山御嶽を案内して頂くことになった。門中宗家のご主人にご挨拶したあと、屋敷の裏手に続く木立の中へ入って行った。
 木間から漏れる光に照らし出されて、コンクリート造りの祠が見えてきた。高さ、間口、奥行き共に1.5メートルほどの四角い祠で、琉球石灰岩の塊が祀られていた。ご神体なのだろうが、火ぬ神と違って4個の石塊である。香炉が一基安置されていた。帽子をとって、頭を下げる。
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 祠から離れた茂みに、大山御嶽の歴史を刻む碑が建っていた。その碑文を目で追ったが、「往古与那覇宮城川ニ天女御下リ子孫繁栄…、」くらいまでは何とか読めるが、その先が分からない。宜野湾市教育委員会が説明した掲示から、碑文の要旨を記す。
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 「1761年に伊波門中の発祥を記念して建立された。その昔、与那覇宮城川(南風原町宮城にあるウスクガー)に天女が降りてきて、子孫を繁栄させた。子孫に伊波子と云う者がいて、200余年前に、この村にやってきた。平野に丘が続いて清水が湧き、近くに海もある。豊かな土地であったので、住居を構え、御嶽を建立した。子孫は大いに榮へ、その嫡子の謝名真徳は力強い武勇で、諸人に貴ばれた。碑文の裏に書かれた家名や位階、称号は、琉球王府の頃の一般庶民の村落移転や、祭礼の方法は勿論のこと、18世紀中頃の宜野湾間切(行政区画)の地方行政の在り方を知る貴重な文化財になっている。」と、ある。
 最初、門中宗家に挨拶したときに、カーテンの隙間から私達をじっと見つめている猫がいた。拝み終えて帰ろうとしたら、いつの間にやって来たのか、数メートル離れた場所に座り込んで、私達の行動をじっと観察している。聖域に入り込んで来た無礼な輩を監視しているように思えた。御嶽のある木立を離れると、猫も安堵したのか、裏口から家の中へ入って行った。ご先祖様の拝殿を守護する監視人、いや、猫だった。(2017.2.7)
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沖縄の原(ハラ、バル)地名・雑録

2017/07/24 11:20
はじめに
 意外と知られていないのだが、沖縄では「原(ハラ・バル)」の付く地名が多い。地図をざっと眺めるだけで、数十か所のハラ・バル地名を数えることができる。小字名まで調べていくと、限りなくバル地名が続き、その多さに圧倒されてしまう。角川地名大辞典によると、6800ヶ所を超える小字の4分の3が、原(バル)地名で、島嶼部を除いて沖縄本島だけを見ると、なんと90パーセント近くがバル地名なのである。
 沖縄に分布するバル地名を調べていると、その殆どが耕作地を指していことが分かってくる。開墾する意味の「墾(は)る」に、原の字が当てられ、読みがバルに転じたものである。沖縄語辞典(内間直仁・野原三義編著 2006年 研究社)で「ハル」を検索すると、畑、屋敷内の畑(アタイ)に対して、屋敷外にある畑、耕地を指す、と説明されている。また、山中襄太『地名語源辞典』1995年・校倉書房の記述に、沖縄語では、「ハラ」または「バル」は、場所、方角を意味すると書かれていた。
 当初、耕作地も原野も平らな土地の広がりであるため、地形的には、なんとなく「原」をイメージし、ハラもバルも同一の語源であろうと考えていた。九州や沖縄では、原の読みをバルと発音するので、その違いを探ってみたいと思ったのが、ハラ・バル地名考察の起点であった。
 原(ハラ・バル)の基本的な解釈について、広辞苑の説明を記しておく。それによると、はら(原)とは、平らかで広い土地、耕作しない平地・原・原野、と説明されている。はり(墾)、はる(墾)は、 墾ること、新たに土地を切り開くこと、開墾することで、張・春などの字を当てて地名となっているところが多い、とある。このことから、野原のハラ(原)と、田圃や畑を拓くハル(墾)の語源は、全く別のものであることが分かる。

沖縄におけるハラ・バル地名の分布
 沖縄本島には、西原町、南風原町、与那原町が見える。西原町は、沖縄本島中部の東海岸に面している。なぜ、東海岸にあるのに西原町なのか。沖縄語では、「東・西・南・北」を「あがり・いり・ふぇー・にし」と云う。つまり、西原は「北の原」を意味している。
 現在の西原町は那覇市首里の東側に接し、凡そ16 km²の広さを持つ町である。しかし、古琉球と云われる10世紀から17世紀頃までの行政区画であった西原間切(にしばるまぎり)は、王府の置かれた首里城の北側を取り囲むように、那覇市の泊から安謝、天久、末吉、石嶺などの広い範囲が含まれていた。これらの地域は1920年頃、那覇市に編入され、ほぼ現在の領域で示されるようになっている。西原間切は、今の西原町とは異なり、相当に広い行政地域であったようだ。
 同じように、首里城の南に接する間切りを南風原(ふぇーばる)と呼んでいる。今の南風原(はえばる)町である。首里の北に位置する西原町とともに、耕作地が広がって、首里への食糧供給基地であったと云う。
 ついでだが、勝連半島にも南風原と云う集落がある。元は勝連城の南側に位置し、耕作地が広がっていたと云うが、琉球王府の承認のもとで、1726年に村敷替(むらしきかえ)が行われ、勝連城の北側に移転している。
 私が育った山陰の石見地方では、漁師たちは南から吹く風を「はえ」と呼んでいた。琉球からの交易船が長崎を経由して、山陰、北陸地方にまでやって来た名残りであろう。そう云えば、年寄りたちは、薩摩芋の事を「琉球芋」と呼んでいた。琉球から長崎を経て伝来した食糧である。
 与那原町企画観光課が発行する「観光客がほとんど行かない⁉㊙な町・与那原町」と云う小冊子に、次のような伝承が載せられていた。中島区にある「宗之増(そうぬまし)」という拝所に触れて、「与那原町発祥の門家を祀った神屋。元々、上与那原に住んでいたが、毎日のように海岸に出て、沖の方を眺めていると、海岸が次第に遠のき、白浜が現れるのを発見し、長い竿を持ってきて、白浜の幅を計っていたところ、次第に広がって平地になった。よって、そこに屋を移し、新しい村建てを行ったと云われている。」と説明している。
 宗之増は、竿之増とも表記される。古くは測量のことを「竿を入れる」と称していた。太閤検地以来、測量用具に「間竿(けんざお)」と呼ばれ、目盛りを付した長い竿を用いていたことから、この名がある。竿之増とは、検地することによって、耕地を増やしたという意味であろう。
 沖縄語で、「よな」あるいは「ゆな」は海岸の砂地を意味し、原(バル)は墾(ハリ)のことで、開墾によって拓いた土地を指している。つまり、「与那原」は、海岸低湿地帯を拓いた場所であり、その歴史が今の地名として残っているのである。
 そのほか、原のつく大字地名を北から拾い上げてみた。

 (ハラ・バラと発音する地名)            
 大宜味村上原(うえはら)
 名護市三原(みはら)
 うるま市与那城上原(よなしろうえはら)
 うるま市豊原(とよはら)
 沖縄市池原(いけはら)
 沖縄市美原(みはら)
 沖縄市高原(たかはら)
 北谷町吉原(よしはら)
 宜野湾市上原(うえはら)
 宜野湾市中原(なかはら)
 西原町上原(うえはら)
 南城市知念久原(くばら)
 那覇市三原(みはら)
 南城市佐敷伊原(いばら)
 南城市知念久原(くばら)
 八重瀬町後原(ごしはら)
 糸満市豊原(とよはら)
 糸満市伊原(いはら)
 久米島町大原(おおはら)
 宮古島市平良西原(にしはら)
 宮古島市上野野原(うえののはら)

 (バルと発音する地名) 
 国頭村桃原(とうばる)
 名護市運天原(うんてんばる)
 名護市豊原(とよばる)
 恩納村喜瀬武原(きせんばる)
 うるま市与那城桃原(よなしろとうばる)
 うるま市勝連南風原(はえばる)
 沖縄市西原(にしばる)
 沖縄市南桃原(みなみとうばる)
 読谷村牧原(まきばる)
 北谷町桃原(とうばる)
 中城村北上原(きたうえばる)
 中城村南上原(みなみうえばる)
 西原町千原(せんばる)
 西原町棚原(たなばる)
 西原町桃原(とうばる)
 与那原町与那原(よなばる)
 与那原町上与那原(かみよなばる)
 那覇市首里桃原(とうばる)町
 那覇市田原(たばる)
 那覇市宇栄原(うえばる)
 南城市玉城志堅原(しけんばる)
 八重瀬町屋宜原(やぎばる)
 八重瀬町上田原(うえたばる)
                       
 これらには、ハラ・バラと呼ぶ地名と、バルと呼ぶ地名が混在している。野原のハラ(原)と、田圃や畑を指すハル(墾)を、呼称によって区別しているようでもあるが、もともとバルと発音されていたものが、慣例的に現在風の発音、ハラ・バラに定着したものであろう。

沖縄の小字に見える原(バル)地名
●小字と原は同義語ではない
 冒頭で触れたが、角川地名大辞典によると、6800ヶ所を超える小字の4分の3がハラ・バル地名である。島嶼部を除いて沖縄本島だけを見ると、その割合は90パーセントに近い。島嶼部は、本島に比較してハラ・バル地名が少ないのは、耕地に適する土地が少なかったのが要因かもしれない。
 今の地図では表記されないのだが、小字のほとんどは○○原(バル)と呼ばれてきた。したがって、沖縄では小字のことをバルと呼ぶと思われているが、これは少し違うようである。沖縄でいうバルは、田圃や畑のある場所を指している。下図は、小字が原(バル)地名になっている分布の一例で、南城市佐敷小谷・新里集落の地図である。(佐敷町史より)
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 琉球では、1737年から1750年にかけて、琉球王府の三司官、蔡温(さいおん)の指揮によって、農地を中心に細かな測量を実施している。伊能忠敬による全国測量が行われる60年も前のことである。このときに設置された基準点(図根点)を印部石(しるびいし)と言うが、一般には、ハル石、あるいはパル石と呼ばれている。
 この標石には、「いろはに」による符号と地名が刻まれ、耕作地の境界を示しているが、集落の境界と重なっていたため、小字と原は同義語になったと思われる。人口の増加とともに集落が広がったり、移動(村敷替)によって、今の小字の境界線とは異なった場所に印部石(ハル石)が存在しているケースが多い。下の写真は、那覇市小禄に現存する印部石で、「ヨ まへ原」と刻字されており、小字集落前原の私有地に建っている。
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●桃原(とうばる)の地名
 本筋から離れるが、沖縄の地図を眺めているうちに、「桃原」の地名が随所に存在することが分かった。沖縄では、ごく普通の地名のようであるが、桃の花が咲き乱れ、桃源郷さながら、初春の甲府盆地の風景を髣髴させてくれる地名である。
 大字地名では、次のように6か所が見られる。国頭村桃原、 うるま市与那城桃原、 沖縄市桃原、同南桃原、西原町桃原、那覇市首里桃原町、である。
 さらに、小字地名では27ヶ所が見られ、北から順に羅列すると、伊平屋村田名桃原、同我喜屋桃原、大宜味村饒波桃原、本部町豊原桃原、名護市源河桃原、同済井出桃原、うるま市石川東恩納桃原、同与那城平安座桃原、同与那城平安座上桃原、同市勝連浜桃原、沖縄市山里桃原、中城村安里桃原、西原町翁長桃原、同小橋川桃原、同小那覇桃原、同桃原桃原、浦添市牧港桃原、那覇市具志桃原、八重瀬町玻名城桃原、同安里桃原、南城市玉城垣花桃原、同仲村渠桃原、同知念知名東桃原、同知念知名西桃原、同佐敷新里桃原、糸満市大里桃原、同喜屋武桃原、である。
 桃原(とうばる)は、桃の畑が語源というわけではない。沖縄では、小高く平らな土地を「トー」と呼び、そこに拓いた耕作地をトーバルと呼んでいる。おそらく「トー」は「遠」であろう。遠くまで見通せる土地、トーバルに桃原の漢字を当てたものと思われる。沖縄語辞典(内間直仁・野原三義編著 2006年 研究社)に、「トーミーン」と云う言葉があって、平坦に均すこと、と説明されていた。
 古琉球の時代には、仮名(平仮名)が一般的に使われ、地名も仮名表記であった。それが1609年の島津氏の侵攻で、薩摩藩が琉球を支配するようになり、ひらがなで表記されていた土地の呼称を漢字表記に改める必要があった。検地帳などの公文書に地名を記録する際、意味を無視して読みだけで漢字を当てる例が多かった。漢字を表意文字ではなく表音文字として使ったのである。漢字の字面からは地名の由来である土地の特徴や地形などの意味合いは伝わってこない。
●宮古島では原をバリと読む
 小字地名を調べるうちに、宮古島では原を「バリ」と読むことに気付いた。旧平良市の地域では252ヶ所の小字を数えることができるが、沖縄本島に比べるとバル地名の割合は少ないものの、原をバリと読むことが多い。「原」の付く小字地名は104か所あり、そのうち79か所をバリと読み、ハラ・バラと読むのが20か所、バルは僅かに5か所である。
 次項で触れるが、谷川健一は、バル(原)の語源は韓国語の「パリ」にあると結論付けている。宮古島だけに「バリ」の読みが残っていることからすると、朝鮮とは、豊かな文化の繋がりがあって、バリ地名が直接に伝播したのではないかと考えられる。

バルは、韓国語のパリを語源とする説
 子供のころ、大人たちが酒を酌み交わしながら歌っていた「田原坂(たばるざか)」の俗謡を覚えている。後に知ったのだが、田原坂は西南戦争の古戦場で、熊本市北区植木町豊岡一帯の地名であり、熊本本線に田原坂の駅名がある。九州では「原」をバルと発音することを知ったのは、この時である。
 谷川健一は、その著書『地名の古代史』(2012年・河出書房新社)の、金達寿の対談の中で、「バルというのは、この前、対馬に行ったときに老人と話していたら、老人がこれからパリしに行こうかと言う。朝鮮語と同じで、パリしに、開墾しに行く、耕しに行く、畑に行くことをパリしに行くという。そのパリから出たに決まっているんですよ。『万葉集』のハリミチ(墾道)ですね。開墾することをハリ、新しく開墾したところが新治(にいばり)、四国にも今治と云うところがありますけれども、字は違うけどね。そういうハリというのは開墾すること。それがハルになっているんですね。沖縄なんかではハルと云うと、みんな田圃や畑を表すんです。野原の原じゃないんです。原山勝負と云って、どれだけ一年の収穫が多いか、村ごとに原山勝負に参加する。山は山林の勝負ですけれども、収穫が上がったことを、村ごとに懸賞をかけて競い合う。それを原山勝負と云うんですよ。」と述べている。
 つまり、谷川健一は、韓国語では「パリに行く」と云えば、開墾しに行く、耕しに行く、畑に行くことを指しており、バル(原)の語源は韓国語のパリ(耕す)にあると結論付けている。
 谷川健一によると、バル(原)地名は朝鮮半島から対馬を経て、九州全域に定着し、沖縄にも伝来したようであるとしているが、それにしては沖縄ではバル(原)地名が、桁外れに多い。小字のほとんどは原(バル)地名で、一般的には、小字と原は同義語として認識されている。このことから推察すると、ハラ・バル地名は、朝鮮半島から九州を経ることなく、沖縄に直接伝来した文化だと考えられる。古い時代、琉球と朝鮮半島との関りは、想像以上に深いものがある。
 それを伺う例として、首里城の広福門前広場に吊られている、「万国津梁の鐘」(レプリカ)に、次のように文言が漢文で刻まれている。書き下し文にすると、次のようになる。「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす。此の二の中間に在りて湧出する蓬莱島なり。舟楫を以て万国の津梁となす」とあり、文中の三韓とは朝鮮を指している。
 また、朝鮮との関りが深い例として、次のような史実もある。南山国王の承察度王は、権力闘争に敗れ、朝鮮に亡命したと云い、『朝鮮王朝実録』(李朝実録)の1394年9月に、中山王察度の使者が、朝鮮王に承察度の引渡しを求めたという記述があると云う。
 さらに、『李朝実録』によると、1398年2月に南山王であった温沙道なる人物が朝鮮に亡命して来たと記録されているそうだ。二代に亘って亡命を繰り返すほど、南山国の治世は定まっていなかったと云うことだが、その一方で、朝鮮(李朝)とは、交易を通じて親密な繫がりがあったことが分かってくる。

ハル・パラ・バル地名の広がり
 アイヌ語で、ハルは食糧を指しており、山中襄太『地名語源辞典』1995年・校倉書房によると、アイヌ語に当てた北海道の地名について次のような解説がされている。
 小樽市に張碓と呼ばれる町名がある。アイヌ語で、ハル(食糧)・ウス・イ(多い所)と呼ばれた土地で、張碓の漢字を当てたものだと解説している。海に面し魚介類に恵まれ、域内を流れる小川の岸には、クロユリ、ウバユリ、ギョウジャニンニクなどの食草が多く育ち、食糧に恵まれた土地だったと云う。ハル・ウス・イの当て字は、付近に数百メートルに亘って崖が張り連なっていることから、張碓の漢字を当てたとする説がある。
 旭川市西部、神居古潭の東側に春志内(はるしない)と呼ぶ集落があるが、これも前述の張碓と同様で、アイヌ語のハル(食糧)、ウス・イ(多い所)に漢字を当てたものだと云う。川筋には、食糧となるウバユリやギゥジャニンニクなどの山菜が群生していたようだ。
 他にも、日高郡新ひだか町静内に春立(はるたち)の名が付く集落があり、日高本線の駅名にもなっている。これもまた、ハル・タ・ウシ・ナイ(食糧を・とる・いつもの・川)を略した当て字であると云う。食糧の多くは、植物性食糧のクロユリの根や、エゾエンゴサクの根を指しているそうだ。
 渡島半島の北岸、島牧村に原歌(はらうた)と呼ばれる集落があるが、アイヌ語では広いことをパラparaと云い、浜はオタで、広い浜「パラ・オタ」が変化して原歌になったと云う。
 台湾の原住民も、原をparaと発音するそうで、ニュージーランドのマリオ族も原をparaと云い、マレー半島のサカイ族はbaruと発音するそうだ。
 さらに、朝鮮半島に続く中国東北地方(旧満州)でも原をhari と発音すると云い、蒙古語でも原をhalaと発音すると云う。このように、Para、baru、halaは、広域にわたって分布しているが、これらには、共通する語源があるのだろうか。実に興味深いのである。

おわりに
 ハラ・バル地名の考察を続けるうちに、平らかで広い土地、耕作しない平地を指す原(はら)と、新たに土地を切り拓く、墾る(はる)とは、その語源が全く異なることが分かった。しかし、沖縄に、これだけ多くのハル・バラ地名が混在していると、「原」と「墾る」の区別はつかない。
 沖縄のハラ・バル地名の殆どは「墾る」で、谷川健一の解釈にあるように、朝鮮半島から伝播したパル(耕す)が変化して「バル」になったものであろう。平仮名の表記に、「原」の漢字が当てられ、本来の「墾る・ハル」の意味が忘れ去られてしまったと云うことだ。
 沖縄のハル・バル地名を考察した文献を探したが、見当たらない。谷川健一の著書にある記述が目に留まった程度である。他には、九州に分布するバル地名に触れて、ついでに沖縄のバル地名が挙げられているぐらいで、沖縄の小字「原(バル)」にまで触れた文献は無い。
 沖縄におけるバル地名の語源は、朝鮮との密接な交流により、九州を経ずして直接に伝わった文化に起因すると考えるが、これ以上は、私の考察範囲を超える領域である。
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知花城跡の拝所(ちばなぐすくあとのうがんじゅ)・本丸跡にある展望台は、ホームレスの住処になっていた。

2017/07/13 13:11
 鬼大城(うにうふぐすく)の墓を訪ねたあと、体力が残っていたので、もう一度、知花城跡に戻り、展望台があるという頂上にまで登ってみた。雑木が生い茂った中に続く石段は急で、途中で二度ほど小休止することになる。地元の方が、藪の中に入って行かなければ、ハブに咬まれる心配はないと云っていたのを思い出しながら、それでも用心を重ねて上って行った。
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 見晴らしが良くて、嘉手納基地が指呼の間に望めると聞いたが、展望台は崩落が進んで、進入禁止の綱が張られていた。なんと、ホームレスの住まいになっていて、男が寝そべったまま、鬱陶しそうな眼をして、私を睨んでくる。それにしても、何故こんなに不便なところを寝所にしているんだろう。背の高い雑草と雑木が生い茂って遠望が利かないので、早々に引き返した。
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 知花城跡は、国道329号線の知花交差点の先、左手に見える緑に囲まれた丘にある。いつの時代に築城されたものかは分からないそうだが、発掘調査で中国製の陶磁器が出土したことから、おそらくは三山時代に、越来城(ごえくぐすく)の出城として築かれたものだろうと云われている。展望台の場所が本丸跡だろうと思うが、グスクを偲ばせる遺構は全く見られなかった。
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 城跡の北側、二の丸と思われる広場があって、「カンサヂャー」が建っていた。地域によって、「神アシャギ」、あるいは「神ハサギ」とも呼ぶが、ノロ(神女)を介して、祖霊神と集落の人々が交わる神聖な建物である。
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 カンサジャーが建つ反対側に、地元の方が詣でるという拝所、「上之殿毛(いーぬとぅぬもー)」がある。「毛」は、沖縄語で野原、野、荒れた草地を指すが、この場合、上之殿毛とは、集落の高台にあって、祖霊神と交わる聖地全域を指しているのだろう。その聖域に、祖霊神と出会うカンサヂャーと、祖霊神が降臨するイーヌトゥヌモーの祠が設けられているのである。
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 『琉球国由来記』(1713年)の改訂版とされている、『琉球国旧記』(1731年)には、知花城にあった三か所の聖域の名があり、「カナ森、神名をイシノ御イベ」と、「森山嶽、神名をイシノ御イベ」、「石城之嶽、神名をイシノ御イベ」と記されているそうだが、その存在を確認することは出来ない。神名の全てが「イシノ御イベ」、つまり「石の神様」になっている。知花城は、岩石が累々と重なった岩山に築かれていたようである。この日、訪れた知花城は、鬱蒼とした緑に覆われ、ごつごつとした岩肌を見ることは無かった。(2017.6.6)
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鬼大城の墓(うにうふぐすくのはか)・勝連城を落とし、阿麻和利を討ちとった武将である。

2017/07/07 14:10
 国道329号線、知花交差点の北側左手に見える小高い丘に、知花城がある。ガイドブックにしている比嘉朝進氏の書かれた『沖縄拝所巡り』には、知花城跡の展望台に上る石段の右手から、細い道を辿って行くと、鬼大城(大城賢雄)の墓へ至る、と書いてある。確かに、左矢印で「鬼大城の墓」と書かれた標識があった。しかし、ものの20mも上って行くと、雑草と雑木に遮られて、その先に進むことが出来ない。
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 諦めて、もと来た道を下っていると、運よく散策途中の地元の方に出会ったので挨拶を交わしながら、城跡を訪ねて来たいきさつを話すことになった。すると、なんてことはない、鬼大城の墓へ行くんだったら、この山の反対側に上って行く石段があると云うのだ。「こんな山道を歩いて、ハブを踏んだら噛みつかれるぞ。」と、笑いながら道順を教えてくれた。知花城跡は、子供の頃の遊び場で、ハブの抜け殻を見つけては自慢していたと云う。でも、本物のハブに遭遇した記憶は無いそうだ。しばらく会話を続けた後、教えられた道を辿って、知花城跡の裏側に回り込むようにして歩いて行った。
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 農道が行き当たる少し手前の草むらに、「鬼大城の墓」と書いた案内標識が建っていた。その脇から上に向かって、狭い石段が通じており、上り詰めたところに、表をコンクリートで固めた岩窟墓があった。自然に出来た岩の窪みを利用して造った墳墓のようで、「岩穴囲い込み墓」と呼ばれる型式だと云う。長方形に造られた墓室の入り口は、石棺をそのまま入れることが出来そうな大きさである。香炉が安置され、真新しい菊の花が生けられていた。
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 墓室の入り口から、やや離れた右側の石積みに、小さな穴が開いているのが目に留まった。以前、訪ねた「小禄墓」にも同じような位置に穴が開いていたことを思い出した。通気口のようでもあるが、死者の魂しいが出入りするために設けた穴だとする研究者もいる。
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 墓の傍らに「夏氏大宗墓」と彫られた石碑が建っている。大城賢雄(?〜1469年)は、唐名(からな・中国風呼び名)を夏巨数(かきょすう)と称しており、夏氏の元祖である。石碑に刻まれた文字は風化が進んで、全く判読ができないが、夏氏の子孫が1853年に建てた碑文で、知花に墓を祀った経緯が墓誌として記されているようである。因みに、同時代を生きた武将、護佐丸は唐名を毛国鼎(もうこくてい)と称していた。中城にある護佐丸の墓には「毛国鼎護佐丸之墓」と刻まれた石柱が建っている。
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 鬼大城の鬼は、偉丈夫の意であろう。伝承によると、具志川(現在のうるま市)の喜屋武城主の長男に生まれたが、幼くして両親を亡くし、母の実家のあった美里間切知花村大城(現、沖縄市知花)で育ったと云う。後の第一尚氏六代の王、尚泰久が越来按司であったときに家臣として仕え、尚泰久の即位とともに、王家の家臣となっている。
 尚泰久が王位について4年後、1458年に起きた強豪按司同士の争いがあった。「護佐丸と阿麻和利の乱」である。王位を狙った勝連按司の阿麻和利が反乱を起こし、敵対する中城按司の護佐丸を滅ぼしたが、やがて国王軍に攻められて滅んだ事件である。この時に王府軍の指揮を執ったのが鬼大城(大城賢雄)であった。
 大城賢雄は、政略結婚によって尚泰久王の長女、百十踏揚が勝連按司の阿麻和利に嫁いだ時、泰久の命により随従している。隠密の役割を持っていたのだろう。阿麻和利の叛意を知った鬼大城は、百十踏揚を背負って城から脱出し、王府に知らせたと云う。
 大城賢雄は尚泰久の命により、阿麻和利軍を討伐する指揮をとり、勝連城を包囲するが、堅固な城壁に阻まれて苦戦する。伝承によると、一計を案じた大城賢雄は女装して城に忍び込み、油断した阿麻和利を討ちとったと云う。この功績により越来間切の地頭職を与えられ、さらには百十踏揚を妻に娶っている。だがしかし、その12年後には、かつて越来城での同輩、尚泰久の家臣であった金丸(後の尚円王)によるクーデターで、第一尚氏一族とともに滅ぼされてしまう。
 王位に就いた尚円が、尚泰久の家臣として苦楽を共にしてきた大城賢雄を、何故征伐しなければならなかったのか、その理由が分からない。またまた、勝手な想像だが、大城賢雄は護佐丸や阿麻和利と並び称された武将である。尚円は大城賢雄の反逆を恐れていたのかもしれない。それとも、越来間切の地頭職であった大城賢雄の後任には、尚円の弟尚宣威が就いているが、そのことと何らかの関りがあったのだろうか。
 以下は伝承である。尚円配下の軍勢に攻められた時、鬼大城は最期を悟り、知花城の中腹にあったとされる洞窟に、身を隠したという。それを知った追手の軍勢は、知花城下一帯の民家を取り壊し、これを洞窟の入り口に積み上げて火をつけたそうだ。鬼大城は火煙によって窒息し、焼殺されたと伝承されているが、これ程までに残忍な攻め方をする必要があったのか。何故なのか。そこんところが分からないのである。(2017.6.6)

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尚宣威王の墓(しょうせんいおうのはか)・なんとなく哀れをさそう尚宣威の生涯である。

2017/07/02 11:43
 越来城跡の入り口に、越来文化財マップが揚げられていた。ここから僅かな距離に、第二尚氏二代目の王、尚宣威 (しょうせんい)の墓がある。越来集落を抜けて行けば良いのだが、これまで集落に入り込んで、何度も道に迷っている。遠回りになるのは分かっているけど、一旦は国道329号線に出て、目印の美来工科高校を目指して歩くことにした。
 美来工科高校の西側に丘陵が伸びていて、その麓に比謝川が流れている。「かやま橋」を渡ると、左手道路わきに沖縄市教育委員会が建てた「尚宣威王の墓」の案内標識が出ていた。墳墓は崖の中腹にあって、長い石段が続いている。傾いたままの「尚宣威王御墓」と刻まれた石碑が建っていた。
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 墳墓は二基あって、自然の洞窟を利用して造られた横穴式のようである。高い位置に在って、それぞれの表面はコンクリートブロックで固められ、下に続く琉球石灰岩の岸壁を背に、香炉が安置かれていた。どちらの墓に尚宣威王が葬られているのか分からないのだが、やや高くなった右側の墓だろうと思う。その下に「尚宣威王御来歴」の石碑が建っていた。1957年(昭和33年)に建立されたもので、比較的新しいが、文字は風雨に消され、よく読めない。概ね次なようなことが書かれていた。
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 『尚宣威王は第二尚氏尚円王の弟に生まれ、尚円王が薨去(1476年)するとき、世子尚真が幼少であったため、群臣の推挙により王位に就いた。尚宣威は5歳の時、父母に先立たれ、兄の金丸(註:後の尚円王)に育てられ、9歳の時、金丸に従って郷里の、伊平屋島、伊是名島を出て首里に移り住んだ。24歳で家来赤頭(げらへあくがみ・下級官吏)に昇進、34歳で黄冠(高等官)を授け、41歳で越来王子に任命された。この方もまた、御兄君、尚円王に劣らぬ徳行家であったが、在位6ヵ月で王位を尚円王の世子尚真(オギヤカモイ)に禅譲し、御自分は遠く越来間切りの山中に隠遁せられ、その年(1477年)の8月4日薨去されたた。御年48歳。』と、ある。
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 尚宣威が、兄尚円の世子尚真に王位を譲った時の状況が、琉球王府が編纂した史書、『中山世譜』(1701年)巻の四、尚宣威王の項に書かれている。興味深い記述なので、そのまま転記する。(原田禹雄訳注「蔡鐸本・中山世譜」榕樹書林、から引用)
 「即位の年の2月。陽神の君手摩(きみてずり)が出現された。尚宣威は自分のために慶賀をされるのだと思って、喜びの表情いっぱいで王座に上った。その時、久米中城王子(註:尚真のこと)は王座のかたわらに立っていた。古来、君々神々が出たまうと、内殿から奉神門の後ろへゆき、東に向かって立たれるのだが、この時はすべて西に向かって立たれた。朝廷に居た臣はすべて固唾をのんだ。しばらくして、神は宣託されたが、神託の趣は、久米中城王子を指して、君にすべしとのことであった。尚宣威は宣託をきき、はじめて尚真君が一世に秀でた真の君主であることを知り、『予は天命がないのに王位についたが、天にもとったのではあるまいか』と、言って、在位6ヵ月にして君主を退き、久米中城王子を君主とした、これが尚真王である。尚宣威は退位して越来に隠居した。」と、ある。
 文中に出てくる陽の神、君手摩とは、海と太陽を司る琉球王国の守護神で、海の彼方にあるというニライカナイに住むとされている。新しい国王の即位の儀式には、聞得大君(きこえおおきみ・神女の最高位)に憑依して現れると云う。尚宣威は、王位に就いた自分を慶賀するための祭事と思って席に着いたようだが、その脇には、この年12歳の久米中城王子こと、尚真が立っていた。そこで成された神の宣託は、久米中城王子を指して君にすべし、である。事実は不可解なりだが、尚真の母と、君手摩が憑依した神女との策略によって、尚宣威は追放されたとする説が有力である。
 それに、尚宣威の前に現れた神女は、まだ幼い尚真王の妹であったと伝わっている。琉球国王に相応しい人は、お兄ちゃんなのか、叔父さんなのか、と問われれば、お兄ちゃんの傍へ寄り添うのは当たり前だろう。これが神のご宣託の真相らしいが、本当のところは分からない。
 首里にある第二尚氏の陵墓、玉凌(たまうどぅん)には歴代の王が祀られている。尚真王(在位:1477〜1526年)が、父である尚円王を祀るために建立したものだが、陵墓の前庭に「玉凌の碑文」の石碑が建っており、被葬者の資格が記されているが、そこには尚宣威の名はない。
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 両親亡き後、9歳の時に、歳の離れた兄の金丸(後の尚円王)に従って故郷を離れ、兄の栄達とともに出世して王位にまで上り詰めた尚宣威だが、兄の権威を笠に着て暴虐を振るったような人物では無さそうだ。来歴碑には、尚円王に劣らぬ徳行家であったと記されている。結局は、権力闘争の敗者であったのだろう。なんとなく哀れをさそう尚宣威の生涯である。
 尚宣威が没した後、息子の朝理が越来間切の総地頭を務めているが、朝理の息子は、なぜか越来間切見里の脇地頭に格下げされている。子孫は湧川を名乗り、今日に至っているそうだ。(2017.6.6)
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越来城跡の拝所(ごえくぐすくあとのうがんじゅ)・歴代の王と深い関わりのあるグスクだった。

2017/06/28 11:59
 国道329号線の比屋根交差点から、コザ高校に至る凡そ2qの間は、だらだらとした上り坂が続いている。おまけに日差しが強くて、てくてく歩きには厳しい道のりだった。コザ高前のバス停で一休みして、再び歩き始めた。今度は下り坂が続くので、やっと歩幅が広がってきた。
 越来城跡を地図で確認すると、コザ十字路の北側で、越来中学校の手前にあるようだが、入っていく道筋が分からない。暫らくうろうろしていたが、前方に緑が茂った丘があるので、城跡のある場所だろうと見当をつけ、坂道を上って行った。
 住宅街の中に、突然大きな字で、「越来グスク跡」と書かれた石板の標識が現れた。グスクは山の頂上にあるものだ、と云う先入観がある。車が行き来する街中に在るはずはないと思っているので、戸惑いながら、己が立っている場所を何度も地図で確認していた。
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 戦前までは、城跡を残す野面積みの城壁が、一部山林の中に残っていたそうだが、戦後になって、米軍の資材置き場として敷き均され、破壊されてしまったと云う。それまでの城跡は、周辺の丘と同じ高さにあったようだが、削り取られてしまい、今では住宅街に囲まれた小公園になっている。昔日の面影を残すものは何も見当たらない。
 小公園の一角に、コンクリート造りの鳥居と祠が建っていた。帽子をとって鳥居を抜け、祠に向かって頭を下げる。祠には、「火ぬ神」と「越来城殿」と刻まれた二基の石柱が安置されていた。城の守護神として、火ぬ神が祀られているのは分かるが、越来城殿とは何を意味するのだろう。代々に亘る越来按司と、その家臣たちの霊を祀ったものだろうと解釈した。
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 越来城は、今から凡そ600年前、いわゆる三山鼎立の時代に築城されたものだろうと伝わっている。舜天王(1166?〜1237年)の子に越来王子の名があり、また舜天王統の三代目義本王(1206〜1259年?)の子にも、越来王子の名がある。琉球史で、その実在が明らかにされている察度王(在位: 1350〜1395年)の時代にも、その子を越来按司に任じたと云う記録がり、越来は古い時代から、中部地域の要衝の地であったことが分かる。
 さらに、尚巴志は三山を統一(1405年)した後、1435年に七男の尚泰久を越来按司に就かせている。1454年、尚泰久は、兄の尚金福王が死去したことによって、琉球王国、第一尚氏六代目の王位に就いている。この時、尚泰久は40歳である。と云うことは、尚泰久の子供たち、七代目の尚徳王や、政略結婚で阿麻和利に嫁いだ百十踏揚(ももとふみあがり)は、この越来の地で誕生したのかも知れない。
 後に、第二尚氏初代の王となった尚円王(金丸)は、尚泰久が越来按司時代の家臣である。金丸の才覚を見出した尚泰久は、第4代の王、尚思達の家臣に推挙している。家来赤頭(げらへあくがみ)と云われる下級役人であったが、後に尚泰久が第6代目の王に即位すると、西原間切の内間領主に任命されている。
 また、尚泰久王の時代、王府に反旗を翻した阿麻和利を討った鬼大城(大城賢雄)は、その功績によって越来総地頭職を任じられている。だが、後年、尚円王によるクーデーター(1469年)で、7代目の尚徳王が滅ぼされ、家臣であった鬼大城も王府軍に攻められ、滅ぼされた。その後の越来按司には、尚円王の弟、尚宣威が任命され、越来王子と称していた。
 越来は首里から凡そ20qの位置にあって、北部へ続く中継基地であり、東は勝連半島、西は読谷村へ通じる交差地点に位置している。古くは戦略的な要衝であり、また、文化の十字路として栄えたようである。 (2017.6.6)
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泡瀬ビジュル(あわせびじゅる)・沖縄では有名な子授け神社だそうだ。

2017/06/24 15:27
 沖縄環状線(県道85号線)の泡瀬交差点から東側に向かうと、すぐの右手に樹木が生い茂る一角がある。入っていくと右手に社務所があって、左側には大きな鳥居が建っていた。規模が大きな立派な神社である。素朴な祠を想像していたので、一瞬、間違ったかな、と思ったが、私に知識が無かっただけで、沖縄では有名な子授け神社だそうだ。
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 一の鳥居を抜けて、二の鳥居に向かう参道脇に、おびただしい数の絵馬がぶら下がっていた。子授けと安産祈願の絵馬である。若い男性が祈願に訪れていた。産み月を迎えた妻の健康祈願と、生を受ける我が子の無事を祈っているのだろう。仕事の合間を縫って、祈願にやってきたようである。
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 祠の表には金網が張られ、中の様子は薄暗くてよく見えない。不謹慎だがファインダー越しに覗いてみたら、ご神体と思しき奇妙な形をした二基の石が祀られていた。角が取れて、ぬめぬめと丸くなった縦長のご神体が、すっくと立っている。
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 ビジュルとは、本土で言う「鬢頭廬(びんずる)様」のことだろう。難しいことは分からないが、お釈迦様の弟子で、特に優れた16人の内の一人だと云う。万病を直すと云う法力があると信じられていて、信者が患部と同じところを撫ぜると病が治るとの俗信があるので、「なぜぼとけ」とも呼ばれている。だから、寺院のお堂の外に置かれていることが多い。ツルツル頭のお坊さんが法衣を着て座っている像を見かけたら、それが鬢頭廬様である。
 沖縄で伝承されるビジュル様は、子授け祈願の対象として崇められる霊石のことで、撫ぜると子供を授かると云い、信仰の対象とされている。仏様なのか神様なのか、どこか曖昧模糊としているが、そんな事に拘らず信仰の対象とするのが、沖縄人の心である。でも、社殿の佇まいからすれば、紛れもなく神様である。
 門前に建てられた説明書きの一文に、「1938年(昭和13年)有志の尽力で旧石祠を改修して、社殿と二基の鳥居内外玉垣が建立され境内が整備された。」とある。素朴な石祠が、戦前の皇国史観なるものによって神社に建て替えられたようだ。何が何でも鳥居を設け、注連縄を張り、神を祀る格好を整えなくてはならぬ、と云う時代背景が読み取れる。神国日本の思想を、沖縄の人々は無抵抗に受け入れていたようだ。現在の神社は、1983年(昭和58年)に改築されている。
 先日訪ねたが、ここからほど近い「渡口のティラ」にも、ビジュルの丸い霊石が祀られていた。この祠は17世紀初めに建立されと伝わり、泡瀬ビジュルとは違って皇国史観の影響を受けることもなく、往時のままの素朴な姿が残っていた。だから、貴重な民俗文化遺産として、沖縄県の有形民俗文化財に指定されている。
 泡瀬ビジュルの由来が、石碑に刻まれていた。泡瀬はその昔、「あせ島」、あるいは「あわす小離」と呼ばれ、砂州と干潟に囲まれ、海に突出した小島だったと云う。1768年頃、読谷山間切の役人を退役した高江洲義正なる人物が、この地を拓き、農耕の傍ら塩を焚いて暮らしていたそうだ。ある日、漁に出かけた義正は海面に浮かぶ霊石を見つけて持ち帰り、霊験あらたかなるビジュル神として、石祠を建てて安置したのが、泡瀬ビジュルの始まりだと云う。旧暦の9月9日にはビジュル参りの例祭があり、無病息災や子授けなどの祈願に訪れる参詣者が後を絶たないそうだ。
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 伝承によると、霊石が海面に浮かんでいたと云うが、あんなに大きくて重たい石が、どうして浮かぶんだろう。なんて、またまた、つまらんことを考えている。(2017.6.6)
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渡口のティラ(とぐちのてぃら)・天辺に宝珠が載っていて、ユニークな形の祠である。

2017/06/20 13:11
 沖縄語でティラとはお寺のことである。ただ、ティラも祠も区別がつかない。本土で云う寺社を想像したら間違いである。渡口のティラは、17世紀初めに建立されと伝わり、沖縄県の有形民俗文化財に指定されている。俗に和仁屋門(わにやじょう)の寺と呼ばれているそうだ。
 国道329号線の渡口交差点から、北に向かって凡そ100mも歩き、 あらかじめ調べておいた道筋を辿りながら、右手に続く農道に入って行った。背丈よりも高い芒が生い茂った休耕地が続いている。道は行き止まりになり、右手に湿地帯があって、細い水路に囲まれた一角に家の形をした石積の祠が現れた。屋根の天辺には宝珠が載っている。宝珠は仏を象徴するものだから、仏様が祀られているのは間違いないと思った。それにしてもユニークな形の祠である。
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 祠の中には、正面に高さが50pから80p位で、丸い砂岩が4基置かれ、周辺にも数個の小石が安置されていた。これらの霊石を沖縄では「ビジュル」と云い、撫でると子供を授かると信じられ、子孫繁栄の神様として祀られている。祠のある場所からして、多くの方に知られているティラでは無さそうに思えたが、線香を焚いた残り灰が山積みになっているところを見ると、折々には信者が参拝しているようである。ビジュルは、本土で言う「鬢頭廬(びんずる)様」のことであろう。釈迦の弟子で、万病を直すと云う法力があって、信者が患部と同じところを撫ぜると病が治るとの俗信があり、「なぜぼとけ」とも呼ばれている。
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 祠に安置された4基の霊石には、それぞれに、押明キョウ・笑キョウ・イベツカサ・寄キョウガナシと命名されているそうだが、どれがどれやら区別がつかないし、何のことやら分からない。今では、一まとめに、ビジュル、或いはボージャブトゥチ(赤子の仏)、クヮンマガハンジュウヌカミ(子孫繁栄の神)などと呼ばれているそうだ。
 琉球王府編纂の地誌『琉球国由来記』(1713年)の記述に、「往昔、渡口村の高時と申す者が、霊石を権現と崇め、宮を建立したる由、伝えあり」とあるそうだが、本来、神様である熊野三所権現と、仏様の鬢頭廬(びんずる)様が、ごっちゃになっているところから、神である権現が仏に化身して現れるという、本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想の影響が見られるようだ。本土における神仏習合思想が、17世紀初めの琉球国にまで及んでいたことになる。
 推測だが、由来記に「渡口村の高時と申す者」とあるが、「時」とは易を行う男性のことを云い、「高」はその敬称で、名高い易者のことを指しているのでないかと思われる。(2017.5.23)
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仲順大主の墓(ちゅんじゅんうふぬしのはか)・舜天王統の義本王にまつわる伝承が残っている。

2017/06/17 11:44
 ナスの御嶽から100m程下った所が丁字路になり、突き当りの先に外人住宅が並んでいる。仲順大主の墓は、この外人住宅の街並みの中にある。住宅に挟まれた広場の奥に樹木に覆われた巨大な岩があり、岩山と住宅の間に続く細い道を入っていくと仲順大主を祀った墓の前に出た。岩山を掘り込んで、表をコンクリートで塞いだ岩窟墓である。
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 左側に「仲順大主之墓」と彫られた砂岩の石柱が建っていた。ガジュマルの根が岩に食い込む様にして広がって、墳墓の崩壊を防いでいるようである。生けられた花が枯れていた。寂しい佇まいで、ここ暫らくは訪れる人も無かったようだ。仲順大主は13世紀中頃の人で、隣接する喜舎場集落の開祖、喜舎場公と同年代に生きた人物のようである。互いに協力し合って村を拓き、後の世に集落の開祖として祀られることになったのだろう。
 前項、「ナスの御嶽」で記した舜天王統の三代目義本王(ぎぼんおう・在位1249?〜1259年?)の続きだが、英祖に追われた義本王は仲順大主を頼り、この地で隠遁生活を送ったという。生涯を終えた義本は、ナスの御嶽から200mほど西方にある王妃の墓に葬られたという伝承があり、直系の子孫と云われる花崎家には、元祖として位牌が祀られているそうだ。
 ただ、異論もある。英祖に追われた義本王は、沖縄本島の最北端、辺戸岬にまで落延び、逝去したと伝わり、辺戸集落には義本王の墓が残っている。一説によると、英祖の追手を逃れるために偽装された墓ではないかという伝承や、息子の浦添王子が祀られているとも、伝えられている。それに、義本王の墓は、この辺戸以外にも同じ国頭村の伊地集落、佐手集落にもあると云われ、さらに、奄美大島の東に浮かぶ喜界島へ隠れたという伝承も語り継がれている。
 以前、訪ねたことがある玉城グスクには、こんな伝承が残っていた。王位を英祖に譲った義本は、「あまつづあまつぎ」と呼ばれた聖地、玉城グスクに赴き、城内に薪を高く積み上げ、その上に坐して臣下たちに火を付けさせ、自らを火あぶりの刑に処したという。炎は燃え盛り、今まさに義本に燃え移ろうとしたとき、一天にわかに掻き曇り、たちまち篠つく大雨となった。焼死を免れた義本は、臣下とともに玉城グスクを後にして、姿を消したという。史料からは、その地位を英祖王に平和裏に譲ったと読めるが、大飢饉、疫病がまん延し、世情不安に乗じた英祖が王位を襲い、義本を火あぶりの刑に処したのかもしれぬ。伝承を読むと、そんな気がしてならない。
 義本王にまつわる伝承は各地に残っているので、まとまりが付きそうにない。(2017.5.23)
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ナスの御嶽(なすのうたき)・舜天王と舜馬順熈王(しゅんばじゅんき)の霊が祭られている。

2017/06/14 14:12
 喜舎場公の墓に詣でてから、一旦県道に戻るつもりで、もと来た坂道を下って行ったのだが、またまた方向が分からなってしまった。まるっきり反対方向に歩いていたようで、運よく、近くの家から出てきた年配の男性を見かけ、道順を聞いて引き返した。方向感覚については近年までは自信があったのだが、脳の衰えは歳を経るにつれ、かなり進んでいるようである。
 ガイドブックを参考にして、琉球銀行北中城支店の脇から仲順(ちゅんじゅん)集落に入って行った。集落の後方高台にある配水タンクが目印になり、目的のナスの御嶽は、その手前にある。 
 御嶽の傍に北中城村が建てた説明書きがあり、「仲順集落は、かつてナスの御嶽をクシャテ(腰当)として南側に発展していったと云われる。」とある。集落をしっかりと支える腰の位置に守護神を祀ったようだ。仲順集落は御嶽が要になって、南側斜面に向かって扇状に広がっていた。
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 御嶽には、切り石積みの塀と屋根付きの立派な門があって、聖域と俗界を隔てている。中にある琉球石灰岩の大きな岩が、神のましますイビ(聖域)である。門前には供え机を模った立派な香炉が安置され、しめ縄が下がっていた。神の領域と現世を隔てる結界を示すのがしめ縄だけど、神道における神を祀る道具が御嶽にあるのは、ちょっと可笑しいかなぁ、と思う。
 奥の方に目を凝らすと、「舜天王・舜馬順熈王之霊」と彫られた石碑が見える。舜天王統(1187?〜1259年)の実在を証明する史料はないが、琉球王府が編纂した正史、『中山世鑑』(1650年)や『中山世譜』(1701年)には、初代琉球国の王統として位置づけられている。
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 舜天は、鎌倉時代の保元の乱(1156年)で敗れた源為朝が、大島に流刑となり、脱出して琉球に漂着して南山の大里按司の妹と結ばれ、出生した男児であると伝承されている。いわゆる為朝伝説で、『中山世鑑』や『中山世譜』にも書かれている。
 舜天王統の三代目義本王(ぎぼんおう・在位1249〜1259年)の時世に、大飢饉・疫病が蔓延して世の中が乱れ、義本王は己の力では治めることができないと悟り、英祖(えいそ・英祖王統1259?〜1299年?)に王位を譲り、身を隠したという。史料からは、義本王が平和裏に譲位したと読めるが、世情不安に乗じて英祖が王位を襲ったのではないかと思われる。
 この時、義本王の家臣は、初代舜天王と二代目舜馬順熈王の遺骨を抱き、安住の地を求めて彷徨い、ナスの御嶽に葬ったという伝承が残っていた。義本王については、次項「仲順大主の墓」のところで触れようと思う。(2017.5.23)
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喜舎場公の墓(きしゃばこうの墓)・喜舎場村の開祖、喜舎場公が祀られている。

2017/06/11 10:57
 喜舎場(きしゃば)とは、13世紀半ば頃に実在した人物の名であると云う。喜舎場村の開祖だそうで、尊称の「公」を付して喜舎場公と呼ばれ、集落後方に続く丘陵に祀られている。
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 高速バスを利用して何度か今帰仁城を往復したことがある。喜舎場と云うバス停があって、珍しい地名があるもんだと思い、いつかは訪ねて見る積りでいた。史書『球陽』(1745年)の外巻とされる『遺老伝説(いろうでんせつ)』に、「往昔、喜舎場公なる者あり、此の村を創建す。因りて喜舎場村と名づく。」と記されているそうで、人名が地名として残っていることが分かった。
 喜舎場集落の背後には丘陵が続き、南側斜面に住宅街が開けている。坂道が入り組んでいて、この里で暮らす老人は、日々の暮らしに難儀してるんだろう、なんて余計なことを考えて歩いていたら、またまた方向感覚が狂ってしまった。目印にしている喜舎場公園に辿り着けない。
 路地を抜けて感を頼りに右折したら、突き当りに喜舎場公園があったのでホッとした。公園に沿って左に歩くと行き止まりになり、その先に喜舎場公の墓に続く石段が現れる。後で分かったことだが、公園の中から鳥居を抜けて上って行く石段が続いていた。私は急坂な裏参道を上って行ったようである。雨上がりの石段は滑りやすく、設けられた鉄製の手すりをつかまえ、体を支えながら上って行った。
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 かなり上って行ったような気がするが、突然視界が開けて、岩の上に造られた祠の前に出た。喜舎場公之墓と刻まれた石碑が建っている。墓前の左右に灯篭があり、昭和12年8月吉日の文字が彫られていた。私の生年と同じだなぁなんて、どうでもいいことを呟いている。
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 灯篭の中央から、祠に通じる斜面に石段が造られているが、聖域を装飾する造形物で、利用するための階段ではない。階段の下には香炉が置かれている。祠はコンクリート造りの縦長で、屋根は方形に造られ、四方の軒は反り返った形になっている。天辺に丸い石が載せられているが、宝珠を模したものだろうか。
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 喜舎場公の墓から少し下がった所に、「喜舎場公子孫上代之墓」が祀られていた。喜舎場公直系の仲間家は喜舎場の集落にあって、立派な神屋が設けられている。また、子孫の喜舎場子(きしゃばしー)と妹のマシラヨが、勝連半島の南に浮かぶ津堅島へ渡り、村を拓いたという伝承が残っている。津堅島の仲真次家(なかまじけ)は、その直系子孫にあたり、年に数回は津堅島から喜舎場へ参拝に訪れるそうだ。 (2017.5.23)
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安谷屋の神屋(あだにやのかみやー)・王に傅く女性には、妃・夫人・妻の序列があり呼称が定められていた。

2017/06/08 13:39
 中城若松の墓から石段を下り、道路を横切って更に向かい側に続く石畳を下ると、右手に雑木に覆われた神屋が見えてくる。若松の直系に当たる外間家の神屋で、若松と母である安谷屋ノロの位牌が安置されているそうだ。表はアルミサッシの扉で固く閉ざされており、祭壇を拝むことは出来ない。扉の前に一基の香炉か置かれていたので、帽子をとって軽く頭を下げて来た。
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 神屋の軒に、並び違いになった「二」の文字を丸で囲んだ家紋が嵌め込まれていた。名称が判らないが、若松は琉球王府から「章」姓を賜ったと云い、家紋は章家一門の象徴なのかも知れない。
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 またまた、勝手な推測だが、王府は公に認めることのできない金丸(後の尚円王)と、安谷屋ノロ(神女)の間に生まれた若松に、「尚」と同音の「章」を下賜したのかもしれない。因みに「尚氏」は王族の内でも、国王および王子までの姓で、按司以下の親族には、尚の欠画である「向氏」を下賜している。
 若松には一人息子があり、安谷屋村の地頭職に任じられ、安谷屋親雲上(あだにやぺーくみー)と称したと云う。安谷屋親雲上には三人の男児があり、そこから子孫は繁栄し、章氏一門からは二人の三司官(宰相職)が出ている。若松をモデルにして創作されたと云う組踊、『執心鐘入』の作者玉城朝薫の母、真鍋も章氏一門の出であると云う。
 章氏の家系には若松のDNAを受け継ぎ、見目麗しき女性が多かったようで、王室に迎えられた例が多い。尚寧王(在位:1589〜1620年)夫人、安谷屋大按司志良礼は、章氏安谷屋親雲上の娘である。また、尚質王(在位:1648〜1666年)の妻、安谷屋阿護母志良礼や、尚貞王(在位:1669〜1709年)の妃、奥間按司加那志。琉球最後の王、尚泰 (在位:1848〜1872年)の妃、佐敷按司加那志も章氏の出であると云う。
 史料を調べていたら不思議なことに気付いた。王の正室を妃、側室を夫人、側室でも下位に当たる女性を妻として明確に区分して表記しているのである。つまり、王にかしずく女性には、妃・夫人・妻の序列があって、それぞれに呼称が定められていた。妃は「按司加那志(あじがなし)」とある。夫人は「按司志良礼(あじしられ)」で、史料によっては単に○○按司と記し、志良礼を省略している例が多い。そして妻は「阿護母志良礼(あごむしられ)」と表記されている。
 妃、夫人、妻の序列と呼称について良く分かる史料がある。中山世譜巻之五、尚質王(先出)の項に次のような記述があった。(原田禹雄訳注「蔡鐸本・中山世譜」榕樹書林、から引用)
  「・・・略・・・、妃は向氏の美里按司加那志、童名は真松金、号は栢窓。夫人は東氏の真南風按司、童名は思戸金。妻は三人。章氏の安谷屋阿護母志良礼、童名は思戸金、号は本光。駱氏の宮城阿護母志良礼、童名は真鍋樽金、号は恵室。諸見里阿護母志良礼、童名は真牛金、号は月嶺。・・・以下略・・・」とある。それにしても、尚質王は艶福家であったようだ。
 王にかしずく女性の序列と呼称は、中国明王朝や大和の皇室に倣ったのかもしれない。だが、琉球王朝独自の規定によって細かく制度化されたようでもある。実に興味深く、研究の余地あり、ってことだ。(2017.5.23)
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中城若松の墓(なかぐすくわかまちのはか)・組踊『執心鐘入』のモデルになった人物だと云う。

2017/06/04 10:05
 県道81号線の安谷屋交差点から146号線に入り、凡そ150mも歩くと山手側に若松公園に向かって伸びる階段がある。公園は、通称ユナハン(与那覇)岳と呼ばれる丘陵に整備されている。
 長く続く石段を上り詰めた頂上に、中城若松の墓があり、「北中城村指定史跡・中城若松の墓」と刻まれた石柱が建っていた。琉球石灰岩の大きな岩を背にして拝殿が設けられ、前方には切り石積みで囲んだ広い墓庭がある。香炉と思しき四角い石が三基、雑草の中に置かれていたが、訪れる人も無いようで、静寂な佇まいである。
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 中城若松(なかぐすくわかまち)は、琉球王朝第二尚氏王統の初代国王、尚円が金丸と称していた時代に、安谷屋ノロ(神女)との間に生まれた子であると伝承されている。若松は首里王府の小赤頭(こあかくべ・名家の子弟による城中の小間使い役)を務めていたと云い、父の尚円(在位:1469〜1476年)が即位してから、安谷屋城主に任じられている。
 その後、異母兄弟に当たる尚真が王位についてからは中央集権化が進み、首里に住むことになるが、首里城下、上間村の地頭職を任じられ、上間親方(うえまうぇーかた)を名乗っている。上間村で亡くなったが、遺言によって故郷の安谷屋に葬られたと云う。
 若松を讃える歌が、琉球王府が編纂した歌謡集「おもろそうし」に収録されている。以下、岩波文庫『おもろさうし(上)』外間守善校注から引用する。

おもろそうし、巻之2-65
  安谷屋の若松  (あだにやのわかまつ)
  あわれ若松  (あわれわかまつ)
  枝差ちへ 浦 襲う 若松  (よださちへ うら おそう わかまつ)
  肝あぐみの若松  (きもあぐみのわかまつ)

 「安谷屋の若松様、人々から敬愛されている若松様は、あっぱれ、立派な方である。若い松の木が枝を広げて栄えるように、国を治め支配することよ。」と、云う意味だそうだ。
 若松は、まれに見る美少年であったと云う。琉球王府で小赤頭(前出)を務めたころ、母の実家がある安谷屋村との往来が多く、村の乙女たちは胸をときめかして見送ったそうだ。組踊の作者玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)は、そこからヒントを得て『執心鐘入』という作品を書いている。
 沖縄では、日常の会話にも玉城朝薫の組踊の話が出てくるが、本土の友人たちは殆ど知らないだろう。そう云う私だって、沖縄に移住するまでは全く知識はなかった。いずれ、また触れることもあるだろうが、組踊(くみうどぅい)とは、中国からの冊封使を接待するために創作された演劇で、大雑把に言って、能・狂言の類だと思って頂ければよい。2010年にはユネスコ無形文化遺産に登録されている。若松の墓の脇に、北中城教育委員会が建てた説明版があって、『執心鐘入』の想像写真が載せられていた。
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 一年ほど前に機会があって、「社会人のための組踊鑑賞教室」に参加し、組踊の実演家によるレクチャーを受け、『執心鐘入』の舞台を見て来た。台詞は沖縄語なので、さっぱり分からないが、標準語の字幕が出るので十分に楽しめる。能の『道成寺』の影響が見られ、単純な筋立てだが、台詞は琉歌と同じ、八・八・八・六のリズムで、音楽、踊りを交えて面白可笑しく演じられるで、退屈することは無かった。以下に『執心鐘入』の粗筋を記しておく。
 「美少年の中城若松は、首里へ奉公に向かう途中、日が暮れてしまい、一軒の家に宿を乞うが、若い女性が一人で留守番をしており、親が居ないので一旦は断られる。ところが、若い女性は、そこに居る男性が若松であると知ると、日頃から思慕の念を寄せていたので家に招き入れる。若松は眠りにつき、女は思いを遂げようと若松を起こすが、若松は女の誘いを頑なに拒む。恋が成就出来ないならば共に死のうと詰め寄られ、身に危険を感じた若松は逃げ出し、末吉の寺に助けを求める。住職は若松を鐘の中に隠し、小僧たちに見張りをさせ、女がやって来ても、決して寺に入れてはならぬと申し付ける。そこへ女がやって来る。追い返そうと小僧たちは奮闘するが、結局は女を寺の中に入れてしまう。若松を求めて寺中を探し回る女の気配に気付いた住職は、若松を鐘から出して逃す。逆上した女は鐘にまとわりつき鬼に変身する。しかし、住職と小僧たちは法力によって鬼女を説き伏せ、鎮める。」と云う物語である。
 中城若松が逃げ込んだ末吉の寺は現存していないが、末吉宮の別当寺であった万寿寺がモデルだと云われている。万寿寺は、後に遍照寺に改名(1763年)されているが、薩摩藩に万寿姫と呼ばれた尊いお方が居たことが理由らしい。先の大戦で徹底的に破壊され、戦後に沖縄市久保田の現在地に移転し再建された。末吉宮の麓には、立派な「劇聖王玉城朝薫生誕三百年記念碑」が建っている。
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(2017.5.23)
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泊大屋(とまりうふやー)・護佐丸との縁は深い。

2017/06/01 09:59
 泊大屋(泊りうふやー)は、中城グスクの麓、泊集落にある。拝殿は隣接する小橋川家の神屋であり、小橋川家の屋号が泊大屋である。ご先祖は泊村を知行所として治めた泊大屋子(とまりうふやく)であると伝承されている。大屋とは、集落草分けの家を云い、また、古琉球時代には地頭職であった人物を「大屋子(うふやく)」と呼んでいる。
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 集落は細い道が入り組んでいるので、事前に確かめておかないと、神屋の場所を探すのは難しい。道路から数段上った所に神屋があって、拝殿は広々とした設えになっていた。真ん中に、中国の三国時代の武将、関羽(162年〜219年)の掛け軸があった。琉球に関羽の像が持ち込まれたのは1683年の冊封正使、汪楫(おうしゅう)の求めに応じて、国王尚貞(在位:1669〜1709年)が、那覇市若狭にある天妃宮に奉安したのが始まりだと云う。王府は家臣に対する褒美・恩賞として関帝王の図を下賜したと云い、神屋に祀られるのは珍しいことではない。近年になると一般家庭にも普及し、守護神、商売の神様、盗難除けなどの有難い神様として祀られている。
 関羽の掛け軸を中心にして左右に祭壇が整えられ、数基の香炉が安置されている。右端の祭壇にはご神鏡が置かれ、左端の祭壇には火ぬ神が祀られていた。20基近い花瓶に緑の葉が生けられている。本土の神棚では榊だが、沖縄の祭壇にはチャーギ(イヌマキ)が生けられる。
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 泊大屋子は、糸満にある真栄里城の按司直系の子孫であると云われ、先祖の出身地である中城グスクの城下、泊村に移住してきたそうだ。元々、真栄里按司は中城グスクを居城としていたが、第一尚氏六代の王、泰久(在位:1454〜1460年)の命により護佐丸(ごさまる)に譲ることになる。そこで、中城按司は南山の地に移り真栄里城を築いたのである。
 護佐丸と阿麻和利の乱で、護佐丸が滅ぼされたとき、護佐丸の三男である盛親は、乳母に背負われて国吉城下に逃れ、さらに隣接する真栄里グスク城内に匿われ育てられた。護佐丸と真栄里按司、そして子孫の泊大屋子とは、深い縁がある。
 国道から泊集落に入ると左手に「クワディサー」の巨木がある。和名を「モモタマナ」と云い、主に熱帯を中心に自生する樹木である。本土では見かけることは少ないが、琉球ではどこにでもある植物のようだ。その昔、首里王府から派遣された中城間切番所の役人が離任する際に、別れを惜しんで記念樹として植えて行ったものだと云う。時代、所が変わっても、名残の場所に何かを印して起きたいと云う人の心は、変わらないようだ。
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(2017.5.9)
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伊舎堂安里(いしゃどうあさと)・元祖は護佐丸の兄で、伊壽留按司と呼ばれた人物である。

2017/05/29 10:28
 中城グスクの入り口、管理事務所の向かい側に緑に覆われ、森の奥に進む道がある。入っていくと、伊壽留按司((いずるんあじ)の墓に突き当たる。
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 伊壽留按司とは、1440年頃から1448年まで、中城グスクの城主であった護佐丸の兄である。それまで山田按司の任にあった護佐丸が琉球王府尚忠王の命によって中城グスクに移ったとき、共に中城間切りに移って来たそうだ。だが、武士としての生き方を嫌い、城下の伊舎堂村に住み着き、農業に励んだという。伊壽留は豪農となり、子孫は安里を名乗って、屋号を「いずるん安里」と称したが、地元では伊舎堂安里(いしゃどうあさと)で呼んでいると云う。
 伊舎堂派出所の向かい側に伊舎堂安里家があると云うので住宅街を往来したが、中々見つからない。立派な住宅が並び、安里家、比嘉家の表札は目につくものの、神屋らしい建物が見当たらない。それでも、根気よく探していたら、塀の向こう側に母屋とは別に増築した神屋らしい建物が目についた。薄いカーテン越しに立派な祭壇が覗ける。他人様の敷地内に入り込むわけにはいかないので、拝殿に面した外側の路地からお参りさせてもらった。
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 1709年に琉球国を襲った大飢饉には、安里家の和仁屋親雲上(わにやぺーくみー)が米50石を拠出し、中城間切りの10か所のムラを救済したと云う。そのことが、史書『球陽』(1745年)に記されているそうだ。琉球・沖縄史年表を見ると、この時の大飢饉で餓死者は3199人に上ったと書かれている。この年、尚貞王が没し、失火によって首里城が全焼するなど、琉球王府にとっては苦難の年であったようだ。
 元々、伊舎堂の集落は中城グスクの北東側の丘陵上にあったと云われ、400年ほど前に現在の平地に移ってきたそうだ。最初に移ってきたのが 、屋号を伊壽留安里と称した安里家、屋号をアラカキと称した比嘉家、同じ比嘉家だが屋号をカナグスクと称した三組の家族であったと云う。
 それぞれの夫婦が移住した記念樹として植えたガジュマルが、伊舎堂派出所脇の小公園に伸びている。三本ガジュマルだと呼ばれ、中城村の文化財に指定されているが、今のガジュマルは戦後に植え替えられた三代目のガジュマルだそうだ。伊舎堂集落のシンボルになっていると云う。
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 伊舎堂安里家の神屋を詣でて表通り出てきたら、派出所の前に園児が集合して、お巡りさんと一緒に写真を撮り終えたところだった。「ありがとうございました」と、元気な声が聞こえて来る。なんとも微笑ましい。(2017.5.9)
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屋宜湊干瀬ノ御イビ(やぎみなとひしのおいび)・その昔、港があったそうだ。想像できないけれど。

2017/05/26 12:39
 沖縄では、島の周辺に広がるサンゴ礁を「干瀬(ひし・びし)」と呼び、干潮時には珊瑚石灰岩のごつごつとした広がりが海面に現れる。屋宜の干瀬は中城村屋宜集落の海岸に沿って数百mにも亘って続いている。
 海沿いにゴルフ練習場があって、周回して歩くと防波堤に突き当たる。訪れた時間が丁度干潮に当たっていて、珊瑚石灰岩の黒々とした岩礁が遠くまで広がっていた。何かを探しながら、岩場を散策する人もいる。外国人の夫婦が、岩の間に残る水溜まりを指差して、楽しそうに言葉を交わしていた。
 イビ(聖域)には二個の石柱が建っているそうだが、この広い干瀬の中から探すのは不可能に思われた。なんたって、石柱と同じような形をした珊瑚石灰岩がごろごろと立っているのである。まっ、根気よく探すしかない。先ずは北に向かい、防波堤の上から干瀬に目を凝らしながら、ゆっくりゆっくりと歩いた。
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 防波堤が尽きる少し手前の干瀬に、大小二個の石柱が見つかった。案に相違して、簡単に見つかったので拍子抜けである。防波堤から凡そ30mほどの場所にあって、満潮になると海面下に姿を消すそうだ。かつてのイビは、現在のものより大きくて、満潮であっても海面に現れていたそうだが、先の戦争で破壊されてしまったと云う。
 石柱は、潮の干満や荒波に耐えられるように、コンクリートで固めた台座の上に建てられている。香炉が一基、波にさらわれないように固定されていた。向かって左側の小さい石柱が、オーイビ(雄イビ)で、右側の大きい石柱がミーイビ(雌イビ)だそうだ。
 方言では「ドゥーグーヌカミ」、つまり竜宮の神と呼ぶそうで、人々に豊穣をもたらす神として信仰されていると云う。旧暦の7月17日は、「旗スガシ」の祭事があり、旗を先頭に行列をつくり、干瀬ノ御イビを拝み、集落内を練り歩き、獅子舞を演じながら悪霊祓いを行うと云う。竜宮は、海の彼方や海底にあるとされる理想郷、ニライカナイのことを指している。
 琉球王府編纂の地誌、『琉球国由来記』(1713年)には、屋宜湊干瀬ノ御イビとしてその名があるそうだ。屋宜湊の呼び名からすると、一帯は港であったと推測されるが、中城グスクの護佐丸按司は、この港を基地にして、諸国との交易を行ったのだろうか。でも、岩礁が続く干瀬には、とても船が近づけるとは思えないのだが。(2017.5.9)
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伊計城之殿(いけいぐすのどぅん)・教育委員会が設置した案内標識の写真と違う祠なんだけど・・・。

2017/05/22 14:45
 伊計島は海岸段丘の島なので、地形は平坦であり、標高は概ね20mから30m程だが、伊計城は島を一望できる標高49mの高台に築かれている。島の南西部に突出した岩山で、もとは砂州で繋がった小島であったようだ。
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 漁港に続く砂浜から城跡に上って行く道があって、うるま市教育委員会が設置した案内標識が建っている。ただ、城跡の痕跡を示す遺構は何処にも見当たらない。鉄製で黄色く塗られた手摺りを頼りに上って行った。先ほど訪ねた仲原遺跡で見かけた「ハブに注意」の看板を思い出して、足がすくむが、好奇心には勝てない。
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 かなり上ってきたような気がする。手すりが途切れて、その向こうに祠が見えてきた。コンクリートで作られた祠には、香炉が安置され、ご神体と思われる三本の石柱が立っていた。造形は全く同じなので、コンクリートを固めて作ったようである。容からすると火ぬ神が祀られているようだが、祠の軒下を見ると、微かに「伊計城之殿」と彫られた文字が読める。ガイドブックには「城内ノイベ」と書いてある。しかし、うるま市教育委員会が設置した案内標識にあった「伊計グスク内のイベ」の写真とは違う。疑問が過るが、伊計城之殿の文字が刻まれているのだから、間違いなく伊計城の守護神が祀られているのだと確信した。祠の手前に奥に進む杣道があったが、これ以上、森の奥に進む気力はない。なんたって、ハブが怖い。
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 伊計城は、いつ頃、誰が築城したのか分からないそうだ。確認できなかったが、野面積みの城壁が所々に残っているそうで、発掘調査では中国産の陶磁器や、11世紀から14世紀にかけて琉球列島で流通していた類須恵器(るいすえき)が見つかったそうだ。そんなことから三山時代(1322年頃〜1429年)に築城されたものだろうと云われている。
 帰りのバスを待つ間に、海辺の小公園に行って見た。奇妙な造形物が建っていて、「ウスメーハーメー」と説明されている。沖縄語でウスメーはお爺さん、ハーメーはお婆さんのことである。すっくと立ったお爺さんと、肩を屈めたお婆さんの形が、なんともユーモラスである。お爺ちゃんとお婆ちゃん、二人並んで何をしてるんだろう。漁に出た息子を案じながら帰りを待ち侘びているのだろうか。それとも、海の彼方からやって来る来訪神を迎えるムラの長老なのか。想像をかき立てるモニュメントである。共同売店のおばちゃんに所縁を聞いてみようと立ち寄ったが、姿が見えなかった。この時間、当番を終えて帰宅したのかもしれない。
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(2017.5.2)
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