場天御嶽(ばてぃんうたき)・馬に天の「馬天御嶽」は誤り。場に天の「場天御嶽」が正しい。

 凡そ2㎞も歩いたろうか、南城市津波古の集落に入った。「馬天入口」の標識に添って331号線から右に別れ、県道137号線を進んで行ったのだが、これがとんだ間違いだった。場所の場に天と記す「場天御嶽」と、地名の馬天(註)を混同していたのである。数百mも歩き、馬天小学校まで来てから道順を間違えていることに気付き、引き返す羽目になってしまった。それにしても目を通したガイドブック全てが、馬に天の「馬天御嶽」と説明しているから、馬天の集落にあるもんだと思い込んでいたのである。「場天御嶽」は、更に1㎞ほど先、新里集落の森にあった。
 新里の交差点を右に折れ、新里坂の途中、左手の小高い森の頂上近くに場天御嶽はある。サトウキビ畑の中を行ったり来たりしながら、やっと辿り付くことが出来たのだが、注意して歩かないと標識を見落としてしまうのだ。
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 場天御嶽に向かう石段の脇に、「イビの森」と書いた説明板が建っている。南城市教育委員会の説明によると、もともとイビの森には、むらの氏神(イビ御嶽)が祀られていたという。1959年(昭和34)のシャーロット台風で一帯が土石流により埋没し、イビの森の手前にあった佐銘川大主(さめかわうふぬし)の住居跡に祀られた場天御嶽と、屋敷内にあった伊平屋神(いひゃがみ)、御天竺神(うてぃんぢくがみ)、上場天御井戸(うぃーばてぃんうがー)、下場天御井戸(しちゃばてぃんうがー)の拝所が移され、今のような祭神の集合体になったそうだ。
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                               「いび御嶽」
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                               「場天御嶽」
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                              「上場天御井戸」
 
 佐銘川大主(さめかわうふぬし)とは、琉球第一尚氏王統(1406年~1469)、の初代尚思紹の父、二代目尚巴志の祖父にあたる人物である。鮫川大主と書いた文献もある。国頭半島の北方、東シナ海に浮かぶ伊平屋島に生まれ、伊是名島に渡って伊是名グスクを築いた人物だという。伊是名島の飢饉に乗じた島民の反乱から逃れて、国頭に渡り、さらに本島南部の馬天の浜(南城市津波古)に着いたという伝承がある。
 佐銘川大主は、縁あって大城城(おおしろのぐすく)を拠点としていた大城按司眞武(しんぶ)の娘と結ばれ、一男一女をもうけている。男児が後に苗代大親(なーしるうふや)と呼ばれた尚巴志の父、尚思紹である。女児は馬天ノロであるという。この後に訪ねる予定の「佐敷城(さしきぐすく)」は、苗代大親が築いたものである伝わっている。
 佐銘川大主は伊平屋島の出身であるというから、伊平屋神(いひゃがみ)が祀られているのは理解できるが、その容が変わっている。陶器の甕の上に、表面に龍の文様が書かれた丸い石板が載っていた。それに、漁具を加工したもののようにも思えるが、黒くて、大きな西洋兜を思わせる物体が被せられている。これは一体、何を物語っているのだろう。
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                               「伊平屋神」
 人の気配は全くない。静かな佇まいである。拝所の一つ一つを確認しながら手を合わせ、写真に収めてきた。
(2015.9.21)

(註)「馬天」を地名と書いたが、地図をつぶさに眺めて見ても、角川日本地名大辞典を調べても馬天の地名は見当たらない。『角川日本地名大辞典』には、今の南城市新里集落に、場所の場に天、「場天原(ばてんばる)」という小字名があり、古い佐敷町の地図と付け合せていたら、いまの場天御嶽のある集落に一致した。
地図を眺めると、馬天港、馬天自動車学校、馬天児童公園、馬天小学校など、「馬天」を冠した施設があり、東陽バスの馬天営業所があって、バス停に「馬天入口」がある。馬天は普遍的な名称なのである。「馬天」が地名を被せたものでないとすれば、その名の起こりは何処にあるんだろう。
琉球王府により編纂された歌謡集、『おもろそうし』(1531年から1623)には、「ばてんはま」の地名が見えるというが、漢字表記が馬天浜なのか場天浜なのか不明である。絵図郷村帳(1646年)にはその名が無い。尚巴志の祖父、佐銘川大主が、国頭から「馬天の浜」に辿り着いたという伝承も伝わっており、古琉球時代の地名が廃れ、固有名詞として、今に語り継がれているのだろうと思う。

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