大里城の拝所(おおさとぐすくのうがんじゅ)・本丸跡からの眺めは、すこぶる絶景である。

 地図を眺めながら、大里城跡に一番近いバス停を探した。この日、東陽バス38系統の志喜屋線、与那原町の「南板良敷」で下車した。
 国道に面してローソンがあって、その手前の道を丘陵に向かって登って行った。この上に清掃施設があるらしく、清掃車が何代も追い越して行く。緩やかな下り坂になり、砂糖キビ畑の向こうに大里内原公園が見えてきた。公園の案内板は剥げ落ちていて、案内の用をなしていない。
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  さて、これからどっちに向かって歩けばいいのか、公園入口の石段に腰を下ろして思案していたら、向かい側の丘陵に続く細い道へ軽自動車が入って行った。大里城跡に続く抜け道のように思えたので、後を追った。急坂が続くのだが、判断に誤りはなく、大里城跡への近道だった。
 大里城跡は丘陵の頂上にある。こんな丘陵の上なのに集落が広がっている。大里城の城下町、といった案配だが、台風の季節には太平洋から直接強風が吹きつけるだろう。どうやって防ぐんだろうか。東京で暮らした我が身には、こんなことも気になってしょうがない。
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 大里城跡は、西原集落の北側に位置し、標高150mの丘陵台地上にある。城跡の北側から西側にかけては、急峻な崖になっていて、自然の地形を生かした要塞であったことが分かる。
 旧大里村が建てた案内板では、『中山世鑑』(1650年)の記述から、南山王・島添大里按司によって築城されたと説明している。ただ、説明は簡潔すぎるきらいがある。南山国王の初代大里按司の弟に生まれた「汪英紫」(おうえいじ・?~1402年)は、自立するに際して、兄の援助のもとに大里間切(註)に築城している。汪英紫が徐々に勢力を拡大するにおよび、兄の南山王を「島尻大里按司」と呼び、弟の汪英紫を「島添大里按司」と区別して呼ぶようになったのである。史料を見ると、これが通説になっている。それと、ややこしいのは、この大里の名称である。南山王国の拠点であった南山城は、今の糸満市大里にあり、大里城は旧島尻郡大里村、今の南城市大里にある。両者は全く別の間切りである。
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 集落と道を隔てて広場がある。三の丸の跡のようだ。雑草が綺麗に刈り込まれ、整備されていた。広場の突き当り、二の丸に向かう城壁跡の右側に拝所が見える。名前は分らない。左側には、何か舞台のような建物があって、壁に大きく「城」と書いてあった。これは何だろう。集落の祭祀に使用される舞台なのかもしれない。
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 三の丸から二の丸へ登って行った。広場の中央にある段差部分に祠が見える。左手、北側はさらに高くなって本丸跡に続いている。本丸は、今では展望台になっていて、眼下に広がる大里の街並みはもとより、遠く首里、中城、勝連半島や、木間からは、那覇市の高層ビルも望める。
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 展望台の脇に拝所があった。説明されたものは何もないので、名前は分からない。ガイドブックに書かれている「島添のアザナノ御イベ」かもしれない。ガイドブックには、崖下に大里按司の墓と、王妃ウミナイ墓があるとも書いてある。展望台から降りて崖下に続く道を探したら、雑草に覆われてはいるが、人が歩いたと思われる場所を見つけた。入って行ったら、「この先崩落の危険性があるため、進入禁止」の看板があった。確かに看板の向こう側は完全に崩落していた。
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 引き返して、さらに奥まった木立に続く道に入って行った。拝所やガー(井戸)の跡が点在していて、その一つ一つに手を合わせながら歩いた。二股に分かれた道を右に向かって進むと、ここも崩落していて道が途切れていた。手前に拝所があり、石碑が建っている。辛うじて「奥間ハンジャナシー前の墓」と彫られているのが読めた。1988年8月8日建立とある。その後ろに石積みがあって、洞窟を利用した墳墓があった。石碑と拝所は一対になっているようで、「ハンジャナシー」なる人物が葬られているのだろうか。
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 もとの広場に戻ってきた。東側の奥に道らしい跡が見えたので、拝所に続くのかと思い入って行ったけど、草木が生茂ってすぐに行き止まりになってしまった。方角からすると、久高島の遥拝所があってもおかしくない場所なんだが。
 城跡入り口の手前に、「チチンガー」と呼ばれる掘り井戸がある。琉球石灰岩の岩盤を削って掘られた井戸で、湧水は地表から8m下にある。伝承だが、旧大里村教育委員会の説明によると、井戸が城壁外にあると清水が湧き出し、城内に取り込むと水が涸れたという。古くは西原集落の共同井戸として使用されていたそうだ。石段が設けられているが、水桶を担いで、この深さから登って来るのは、大変な労力が必要だったろうと思う。
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 「チチンガー」とは、城壁で「包めない井戸」の意味なのだそうだ。「包め」は「チチメ」、「ない」が「ラン」で、「井戸」は「カー」だから、「チチマランカー」となり、詰まって「チチンガー」になったという。沖縄にはこうした言葉が多い。この説は正しいと思う。たぶん。
 登って来るときには気が付かなかったけど、西原集落の入口にある坂道は、幽霊坂というらしい。電信柱に書かれた文字は手が込んでいる。誰かの悪戯なのかなぁ~。
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(2015.12.8)
 
(註)間切(まぎり)とは、琉球王国時代の行政区画で、いまの市町村に相当すると思えば良い。

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