徳武佐宮(とぅくぶさぐう)・鳥居の上に数個の小石が載っていた。子宝祈願の神社だそうです。

 沖縄語の三母音法則に従うと、徳の「と」は「つ」になるが、実際に発音するときには、トでもなく、ツでもなく、トゥと発音する。
 読谷村、国道58号線の伊良皆交差点から県道16号線に入り、1㎞も歩くと、58号バイパスとの交差点がある。信号を渡って左折し、直ぐに右側に続く脇道に入って行ったら、徳武佐宮の裏手高台に出た。石段を降りると直接本殿の前に出てしまったので、一旦、広場に降りて、改めて鳥居を潜り、本殿に詣でた。辺りは落ち葉の一つもなく、綺麗に掃き清められていた。
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 徳武佐宮は、生まれた子の健康と、成長を祈願する拝所だと云う。祠は、背後の岩盤に直接くっついていて、屋根も柱も壁も、すべて御影石で造られていた。拝殿は金属製の格子戸で閉じられているが、隙間から覗いたら、背面は、ごつごつした岩肌が剥きだしになっていた。祭壇には数個の石が順序良く並べられ、子宝祈願の霊石のようである。そういえば、鳥居の上にも数個の小石が載っていたが、小石を投げ上げて、子授けの祈願をする風習があるようだ。
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 祠の左手に、樹木に囲まれて「徳武佐碑」が建っていて、縁起が記されている。「今から六百年前、三山戦国の時代中今帰仁按司戦に追れ此処に身を遁る。其の後当地方で過ごし帰城す。古来徳武佐御宮と稱し崇拝す。毎年旧九月一三日参拝。」とあるが、神様の名前がない。
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 縁起は、すこぶる簡潔に述べられているが、中今帰仁按司とは、臣下であった本部大主の謀反にあい、今帰仁を逃れた丘春按司のことだろう。さらに、「当地方で過ごし帰城す」とあるのは、雌伏18年、旧臣を集めて今帰仁城を奪い返し、中今帰仁第四代の王に就いたことを指している。北谷から嘉手納、読谷に及ぶ広い地域に、丘春按司の伝承があることに驚いている。
 想像するに、徳武佐の武佐(むさ)は、武者(むしゃ)のことではあるまいか。600年前、戦国の世に今帰仁を追われた一族が、この地に隠れ住んだのだろう。武者たちは、現地に溶け込み、住み着き、徳のある武者として尊崇された人物が、徳武佐宮に祀られたのかもしれない。まっ、例によって私の妄想なので、信用しないで欲しい。
 石碑に、毎年旧九月一三日参拝、と記されているが、旧暦9月13日には、集落の人々が集って、今年一年間の無病息災に感謝し、向こう一年間の健康と豊作を祈願すると云う。また、あわせて、今年生まれた子供の健康と成長を祈願するそうだ。私は、仁徳を積んだ武者が祀られていると信じ、頭を垂れ、手を合わせて来た。(2018.2.13)

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